第20話『ロジック』

 ――日下と会う資格はない。会わないと決めた。

 穏やかな口調で話した森さんのその言葉には、確固たる信念の上で口にしたのだと思えた。


「日下さんと会う資格はない……ですか」

「その通りだよ、藍沢さん」


 日下さんとは会わないと言ってくることは想定内だ。15年前のことを考えれば、日下さんが目覚めたことを知り、彼女が会いたいと言っても、彼女と会おうという気にはなかなかなれないのだろう。


「……差し支えなければ、その理由を教えていただけますか?」


 理由を訊かずに、はいそうですかと言って引き下がるわけにはいかない。2人を会わせるチャンスはまだまだあるって信じているから。

 森さんは俯いて、


「……俺が一度、日下を殺したようなものだからな」


 はっきりとそう言った。

 その瞬間、湊先生は森さんのことを見て、


「殺したってどういうことですか?」


 その言葉は俺も引っかかる。どういうことなんだ。日下さんや当時の目撃者の話では……自分から踏切の中に入って電車に轢かれたことになっているけど。


「これは今まで誰にも話していなかったが……俺は、日下が電車に轢かれた瞬間を目撃したんだよ」

「何ですって! どうして言わなかったんですか! 森先生!」

「……怖かったんだ。他にも日下が轢かれる瞬間を見ている人がいて、日下に怒ったこともあって……不意に、お前が日下を殺したんだって言われたような気がして。俺は無我夢中になって、日下が轢かれた現場から逃げたんだ」

「そんな……」


 日下さんに怒ったこと。

 日下さんが自分から電車に轢かれたこと。

 その瞬間を見ても、何もできず……ただ逃げてしまったこと。

 これらのことから、森さんは『自分が日下さんを殺害した』と思い込んでいるのか。そして、そのまま15年間過ごしてきた。


「でも、どうして陽子先輩が轢かれる瞬間を見ていたんですか」

「会いに行こうとしたんだ! 謝るために!」

「えっ……」

「日下が数学は苦手なことを知っていた。でも、勉強をとても頑張っていたことも知っていた。日下を怒って少し時間が経ってから、きっと彼女は受験対策ばかりやって、うっかり課題を忘れたんだろうって。俺は日下に謝ろうと思って、彼女の自宅の住所を調べ彼女の家に向かっていたんだ」

「だから……自宅近くの踏切で陽子先輩が轢かれた瞬間を見てしまった、というわけですか」

「……ああ」


 課題を忘れてしまった日下さんに怒ったことを後悔して、謝ろうと思い彼女に会いに行っていたのか。ただ、それが逆に……日下さんとの間に溝を生じさせる結果になってしまったというわけか。


「他に目撃者がいたから、すぐに報道された。だから、日下が電車に轢かれたことを警察や学校に伝えることはしなかった」

「しかし、自分も日下さんが電車に轢かれるところを目撃した。課題を忘れたことに怒ったことを反省して、日下さんの自宅に向かう途中だったと言えば、何か違った結果になっていたんじゃないでしょうか……」


 確かに、彩花の言うとおりだ。日下さんに怒った事実は変わらないけど、そのことに反省していた気持ちを伝えていれば、森さんは今も月原高校で数学を教えていたかもしれない。


「宮原さんの言うように、あのときのことを正直に言っていれば、私の生活は変わっていたかもしれない。しかし、日下が自ら電車に轢かれ、一命は取り留めたものの長い眠りに入ったことを変えることはできないだろう? だから、俺は生徒や教員、世間から非難され……職を失うことが日下へのせめての罪滅ぼしだと思ったんだ。まあ、実際に多くの生徒の前で日下に怒り、その日のうちに日下は自ら電車に轢かれた。その責任は重い。懲戒解雇処分になるのは妥当だと思ったさ」

「そして、あなたは月原高校を離れて、学習塾の教師になったんですか」

「解雇された直後は、色々な職に就いたが……どうも長続きしなかった。今ほどじゃないが、当時も俺が1人の生徒を死の淵に追い詰めたという話が広がり、それを理由にクビになったこともあった。結局、最終的には数学を教える場所に落ち着いた。その場所こそ、この学習塾なんだよ」

「……そうですか」


 子供達に数学を教えることが好きだからこそ、学習の場で落ち着いたのかもしれない。


「二度と同じ過ちを繰り返さない。そう心に決めて、俺は分かりやすく講義をして、分からない生徒がいたら、その目線に立って分かるまで付き合おうと決めたんだ。それが、俺にできる精一杯のことだ。あとは……」


 森さんは俺達に左手を見せてくる。彼の左手の薬指には銀色のシンプルな指輪がはめられていた。


「結婚……されたんですね、森先生」

「……ああ。12年前に。妻も俺のことを考えてくれたのか、結婚式は身内だけでやったよ。今は10歳の息子と8歳の娘がいる」

「そうですか。おめでとうございます」

「……ありがとう。まさか、今になってかつての教え子からお祝いの言葉を言われるとは思わなかったな」


 さすがに、家族のことになると森さんは笑顔で話してくれた。それだけ、家族のことを大切にしている証拠だろう。

 しかし……そうか、森さんは結婚をしていたか。このことを日下さんが知ったらどう思うか。当時は森さんも35歳だったし、15年も眠っていたら彼が結婚しているかもしれないと思っているだろうけど。


「塾の生徒達に責任を持って数学を教える。そして、自分と妻の間にできた2人の子供を責任を持って育てていく。それが私ができることなんだ。こう言っては悪いが、日下が永遠の眠りについてしまうかもしれないことも考えて」

「……なるほど。森さんの考えはしっかりと聞きました。しかし、実際にはこうして日下さんは15年ぶりに目覚められたんです。それは……あなたと話したい気持ちがあったからではありませんか?」


 もう少しで意識を取り戻すというタイミングで、水代さんは日下さんの心の中を読み……彼女が森さんに会いたいことを知った。ただ、日下さんが森さんを好きであったことを考えると……もしかしたら、15年間ずっと会いたがっていたのかも。


「15年前のこともありますから、日下さんのことを考えると不安になってしまうと思います。しかし、彼女自身が会いたがっている気持ちは本当であることは俺達が保証します。一度だけでいいです。彼女と会っていただけませんか。お願いします」


 俺は深く頭を下げる。

 大切な人ともう二度と会えないことの寂しさ。話せないことの虚しさ。それを俺は身を持って体験している。同じような経験を森さんには味わってほしくないのだ。そんな我が儘が俺をここまでさせている。


「……顔を上げなさい、藍沢さん」


 森さんの言うようにゆっくりと顔を上げると、森さんは優しい目つきをして俺のことを見下ろしていた。


「君はうちの娘と同じくらいの年齢だろうが、娘とは比べものにならないくらいにしっかりとした考えを持っているね。日下と話して、彼女の気持ちを汲み取って俺に話してくれたんだろう? そのことについては感謝するよ」


 そう言うと、森さんは俺の頭を優しく撫でる。


「しかし、幼い君には分からないだろうが、人を亡くしたときの虚しさや、罪悪感は計り知れないのだ。日下が意識を取り戻し、俺に会いたいと言っていても、日下が轢かれたあの瞬間、俺と彼女には決定的な溝ができてしまった。だから、私は彼女に会う資格はないし、会うつもりもない」

「……そうですか」


 森さんは初対面だし湊先生も感情的になっているから、できるだけ冷静に話をしようと心がけていたけど、こういう風に言われたら……もう我慢できない。


「結局、あなたは日下さんに向き合えていないじゃないですか。彼女に会う資格はないと言って、自分の考えが正しいと暗示をかけているだけだ!」


 俺がそう怒鳴ると、さすがに驚いたのか、森さんは何歩か後ずさりをし……視線をちらつかせる。


「あなたも一度は向き合おうとした。しかし、日下さんが電車に轢かれたところを見てから15年間、あなたは色々な理由を付けて彼女から逃げ続けている! 日下さんが目覚め、あなたと話したいと言っている。向き合えるチャンスがあるのに、どうしてそれを自ら放棄するようなことを言うんだ!」

「君に俺の気持ちの何が分かるんだ!」


 森さんの反論に俺は……深いため息をついてしまった。


「……分かってしまうんですよ。俺は幼なじみの女の子を失い、彼女の死にしばらく向き合えなかったですから。気持ちを伝え合うことが二度とできない苦しみを俺は知っている。だから、直接話せる機会があって、しかも相手から話したいと言われることが……羨ましいくらいですよ」


 20年前に亡くなった水代さんと会ったのだから、2年前に亡くなった唯とも一度くらいは会えてもいいんじゃないかなって思ってしまうことがある。水代さんと会えた恋人の相良さんという女性のことをとても羨ましく思った。


「……一晩、考えさせてくれないか」

「森さん……」

「……あの瞬間から、日下のことから逃げているのだろう。日下が俺に会いたいと言っていることは嬉しいが、それでも怖いんだ。だから、一晩考える時間がほしい」

「では、気持ちが固まったらあたしの方に連絡をください」

「分かった。明日の昼くらいまでには連絡する。……藍沢さん、先ほどはすまなかった。君は……俺よりも辛い経験をしていたんだね」

「……いえ、俺こそすみませんでした。感情的になって、色々と言ってしまって……」

「いいさ。俺はあのくらい言われるべきだったのだ。……すまないが、もうすぐ講義があるから俺はこれで失礼するよ」


 そう言って、森さんは会議室を後にした。

 何だか……虚しい気持ちだな。日下さんと会えるチャンスがあるという森さんを羨ましく思い、その気持ちをベースに色々と言ってしまっただけになったから。

 俺は結局、森さんの心を動かすことができたのだろうか。いや……そう思うこと自体がおこがましいのかもしれない。

 森さんが一晩考えさせてほしいと言ったんだ。今は……彼が考えた結果、日下さんと会うと決意してくれると信じるしかないか。


「……とりあえず、ここを出ましょうか」


 彩花のそんな一言で、それまで止まっていた時間がようやく動き出したような気がして。俺達は塾を後にするのであった。

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