第18話『眠りへの道』

 ――もう一度、森先生とお話がしたい。

 森先生というのは……ああ、課題を忘れて日下さんに激しく説教をした数学の教師のことか。今回の一件には欠かせない人であることには間違いないけれど。

「森先生というのは……森治さんのことですよね。当時、数学を教えていた……」

「……うん」

「ただ、残念な話ですが……森さんはあなたの自殺未遂事件を理由に、懲戒解雇処分によって月原高校を離れ、現在はどこかの学習塾で数学を教えているようです」

「……そう、なんだね。叱られた時、みんなに見られていたから……」

 やっぱり……と、日下さんは寂しそうな笑みを浮かべながら深いため息をついた。15年ぶりに目覚めてから間もない段階で、このことを伝えるのは彼女には酷だったか。でも、森さんと話したいという願いがある以上、彼の現状を伝えないと意味がない……よな。


「絶対にダメです! あんな人と会っちゃ!」


 そう叫んだのは……湊先生だった。今までに見たことのないくらいの激しく怒った表情をして、日下さんのすぐ側まで歩み寄る。

「あの人は陽子先輩の心を激しく傷つけた! それはあたしだけじゃなくて……多くの生徒が分かっています! 森先生本人もそのことを認めたからこそ、月原高校を辞めることになったんですよ! 15年という月日は流れていますが、あたしは……森先生を会わせるようなことはしたくないです! 先輩にはこれ以上、苦しんでほしくないから……」

 湊先生はそう言うと、ボロボロと涙を零した。

 今の湊先生の様子を見て、なぜ、水代さんが俺や彩花に協力を求めようとしたのかが分かったような気がする。多分、彼女は日下さんのやりたいことを叶えさせることを阻む壁が湊先生だと思ったからだ。

 もちろん、湊先生には悪気はないだろう。日下さんに苦しい想いをさせたくないという願いだからこそ、より彼女の心を動かすのが難しいと思う。

「麻衣先生、落ち着いてください」

「だって、信じられないよ……渚ちゃん」

 そう言って、湊先生は渚に抱かれる中で泣いている。きっと、森さんに対する想いは15年前から変わっていないんだろう。だから、森さんと話したいという日下さんへの言葉にさっきのような態度を取ったんだと思う。

「湊さんの話を聞くだけだと、森さんの印象はかなり悪いけれど……それでも、久しぶりに会って話してみたいっていう気持ちは分かるかな。まあ、あたしの場合はそれが好きな人だったわけだけど」

 咲は俺の顔を見るとにこっ、と笑った。

「確かに、久しぶりに会うと嬉しいことってあるよね。私は1ヶ月ぶりに藍沢君に再会できてとても嬉しいよ。……ちっちゃくなったけれど」

 御子柴さんは俺のことが好きで、ちっちゃくなった俺を見て可愛いって言っていたもんな。

 人への想いや関係はずっと変わらないものもあれば、時間が経って変わっていくものも当然ある。もちろん、良い意味でも悪い意味でも。例えば、昔は仲が悪くても、久しぶりに会うと笑い話になるとか。

 ただ、日下さんの場合は15年前、森さんに課題のことで怒られた日に自殺未遂を行ない、さっきまで意識を失っていた。感覚としては昨日のようなのかもしれない。

 しかし、日下さんが森さんに話をしたいと言っているのも事実。まずは日下さんの気持ちを訊くことにするか。

「日下さん。湊先生の肩を持つように聞こえると思いますが……彼女から森さんの話を聞いた限りでは、あなたに対する森さんの態度は良くなかったと思っています。目覚めてすぐに森さんと話したいと口にしたことが、ちょっと信じられないです。もし良ければ、どうして森さんと話したいのか理由を教えてくれますか」

「……いいよ、教えてあげる」

 そう言うと、日下さんは優しい笑みを浮かべる。その瞬間、湊先生が日下さんは太陽のような人だと言ったのが分かった気がした。


「私ね、意識を失う前からずっと……森先生のことが好きだったの」


 やっぱり、好きな人だからこそこんなに可愛らしい笑みを見せることができるのか。

「好きな人でしたら、会って話してみたい気持ちは分かりますね。ましてや、久しぶりに目を覚ましたのであれば」

 うんうん、と彩花はニヤニヤしながら頷いている。彩花の場合、俺と遠く離れるような状況を絶対に作らないと思うけれど。

「陽子先輩、今の話……本当なんですか?」

「……本当だよ、麻衣ちゃん」

「先輩があの人のことが好きだなんて、今まで聞いたことがなかったですよ?」

「もちろんだよ。だって、このことは誰にも話していないし……気付かれないように気を付けていたもん。森先生はあの時35歳で独身だったけど……私が告白したら、先生に申し訳ないと思って。卒業するときに告白するって決めていたもん」

「そう、だったんですか……」

 先生と生徒じゃ付き合っていくにも難しそうだし……断られたとしたら、授業を受けるときに気まずい空気になるだろうから。それなら、告白するのを卒業まで待つのが一番懸命だと思う。

「数学は苦手な教科で……国公立に合格するためにも、勉強を頑張らなきゃって受験向けの方ばかりやっていて、課題をするのを忘れちゃって。今思えば、叱られるのは当然だけれど、当時は……森先生に叱られたことでお先が真っ暗になった。勉強、頑張ったけれど数学はどうしても結果が良くならないから、目標も達成できないだろうし、森先生にも見放されたって思った。そうしたら、急に生きることに疲れちゃって。だから、家の近くの踏切で電車に轢かれに行ったんだ」

 そして、およそ15年の眠りについたというわけか。

 好きだからこそ抱いた絶望感、か。それによって身体的にも精神的にも疲れてしまい、日下さんは自殺という道を進んだ。

「でも……そっか。私のせいで森先生は……月原高校を離れなきゃいけなくなったんだ。みんなの前で怒られた私がその日のうちに電車に飛び込んだら、森先生のせいで私は自殺を図ったんだって思うよね……」

 日下さんの頬に一筋の涙。目覚めた今になって、当時……自分のしたことの重さを知り始めたんだと思う。

「陽子先輩は何も悪くないです。悪くないですから……もう、自ら命を投げてしまうようなことをしないでください。お願いですから、死なないでください。あの時のような寂しい想いを二度と味わいたく……ないんです」

「……死なないよ、大丈夫」

 小さな声だけれど、俺にとっては今の日下さんの言葉が力強く聞こえた。湊先生は涙を流しながらも日下さんの顔を見ながらようやく笑みを見せる。

「……陽子先輩の気持ちは分かりました。でも、後輩として……森先生と会って話すことには賛成できません」

「……麻衣ちゃんはそう言うと思ってた。だから、藍沢君や宮原さんに協力を求めるようと思ったの。もちろん、麻衣ちゃんが悪いわけじゃないよ」

「先輩……」

 当時のことを知っており、ましてや自分と近い人に森さんと話したい気持ちを知ったら、きっと反対される。だからこそ、第三者であり、当時のことを知らない俺や彩花を選んだ。しかも、俺は湊先生の受け持つクラスの生徒だから。

「日下さんの気持ちは分かりました。ただ、森さんも人間ですからね。彼がどう思っているのかまるで想像がつきません。俺達にとっては今日になって湊先生の話で知った人物ですからね。まずは俺達が森さんに会って一度、話してみる必要がありますね」

「……そうしてくれると嬉しいな。もし話すことができたら、私が意識を取り戻したことを伝えてほしい。ただ、先生の気持ち次第でもあるから……どうしても嫌だって言っていたら、あのときはごめんなさいって藍沢君から言っておいてくれるかな」

「……そうはならないように頑張ります」

 森さんの気持ちもあるけれど、2人が顔を合わせて話すことができるように頑張っていこう。きっと、水代さんもそれを期待して俺の体を縮めさせたのだろうから。

「湊先生、お願いがあります。森さんと会うために、連絡先を教えていただけますか。できれば、今働いている場所も」

 できるだけ早く会うためにも、湊先生の力を借りたい。

「……あたしは知らないけれど、森先生とよく呑みに行っていたっていう教員の連絡先は知っているから、その人から森先生のことを訊いてみるわ」

「ありがとうございます。お願いします」

 どうやら、俺達が森さんと会って話すことは難なくできそうだ。

 問題は、森さんに日下さんと会って話してもいいと決断してもらえるかどうか。日下さんが自殺未遂をして、15年間眠り続けたことが森さんにどんな影響を与えたのか。それ次第ではかなり困難になるだろうから。

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