第35話『カノジョ』

 バスタオルを巻いた遥香さんが俺のことを抱きしめる。服を着ていても、お風呂に上がった直後だからか遥香さんから強い温もりを感じる。そして、髪から香るシャンプーの匂いに俺のよく知っている彩花の甘い匂いが混ざっている。

「遥香さん……」

「……お風呂の中でずっと考えていました」

「な、何を……?」

 俺がそう訊くと、遥香さんはゆっくりと俺のことを見上げて、

「……直人君と色々なことをすることです」

「俺と、ですか……」

 何か、違和感があるな。今までの遥香さんとは何かが違う。もちろん、彩花と体が戻ったようにも思えないし。

「聞き間違えかもしれないので、もう一度……誰と色々なことをするか言ってくれませんか」

「……何度も言わせないでください。恥ずかしいですよ。直人君……あなたとですよ」

 上目遣いで見てくるところが可愛らしいな。彩花の姿だからか余計に。

 ただ、今の彼女の回答で俺の違和感の正体がはっきりした。


「……あなた、遥香さんでもなければ、彩花でもないですね」

「えっ……?」


 何を言っているの、と言わんばかりの表情をしている。しらばっくれやがって。

 遥香さんでもなければ、彩花でもない。しかし、この体の感触と匂いは確かに彩花のものだ。ということは、今、俺のことを抱きしめているのは――。


「あなたの名前は……水代円加さんですね」


 水代円加。彼女しか考えられない。

 俺の考えが正しいことを示すかのように、恍惚とした表情から一変して余裕の笑みが見せてきた。

「……正解だよ、藍沢直人君」

「やっぱり、そうですか……」

 渚の言っていたとおりになったな。俺の気付かない間に、彩花の体に水代さんの霊が入り込んでいた。

「ということは、遥香さんはどうなっているんですか?」

「意識をなくしているわ。私がいなくなって目を覚ましたときは、湯船に浸かっていたら気持ち良くて眠っちゃったとしか思わないでしょう」

「そうですか……」

 仮に今、ここで水代さんがいなくなって遥香さんが意識を取り戻したら、俺に介抱されたと思って恥ずかしがるんだろうな。

「ねえ、直人君。どうして私が宮原彩花の体に入り込んだって分かったの?」

「呼び方が違いますからね。彩花なら先輩と呼びますし、遥香さんならさん付けですからね。このホテルにいる人達の中で、俺のことを君付けする人は誰もいませんよ」

「……そう。さすがは直人君ね」

 相変わらず笑みを浮かべているということは、自分が入っていることがバレても問題ないってことか。あと、彩花の声でタメ口で話すのも可愛いもんだな。

「じゃあ、お礼に……私をイチャイチャしよっか」

「いや、しませんよ」

「……昨晩、彼女とイチャイチャしたから満足なのかな? もう倦怠期になっちゃったとか?」

「そんなわけないじゃないですか。彩花の体の中にいるのが水代さんだからですよ」

 彩花だったらもちろんイチャイチャするけれど、水代さんとイチャイチャするわけにはいかないでしょう。というか、昨晩のことを見られていたのか。彩花が知ったら恥ずかしさのあまりベッドの中にずっと潜っていそうだ。

 というか、こういうことを言われると、水代さんは生前に相良さんとそういうことを自分から誘ってしていたのかって思ってしまう。

「……ねえ、直人先輩。今夜は何も気にせずにイチャイチャしましょうよ」

 彩花のような口調で言われ、上目遣いで見られると……可愛いな。

「……ふっ」

 そして、ドヤ顔を見せられた瞬間に可愛らしさがなくなったな。

「彩花のことを舐めないでください。あなたに彩花の可愛さを再現できるわけがありませんよ」

「へえ……彼女のことが相当好きなのね。でもね、私は男の子の中ではあなたのことが一番好きになっちゃったよ。宮原彩花の体の影響なのかな。あなた達を信じて正解だった」

「そう言うってことは、やっぱり彩花と遥香さんの体を入れ替えたのは水代さん……あなたの仕業だったんですね」

「そうよ。私が味わった苦しみを誰かに知ってほしかった。悠子ちゃんにも自分がしたことの重さを分かって欲しかったし……」

 2人の体を入れ替えさせたのは、やはり自分が味わったような辛さを知ってほしかったからなのか。相良さんに対しては……相良さん本人が言ったように、彼女への復讐なのかな。自殺直前に自分を突き放したことを言ったことに対する。

「……相良さんはあなたが自殺したことを知った瞬間から、あなたの言う『罪』の重さは分かっているのではないのでしょうか。それに、彩花も遥香さんも……楽しく接しているように見えますが、実際には入れ替わったことによる戸惑いや苦しみがあるかもしれない」

「そうかな? 坂井遥香はあなたに恋をしていて、宮原彩花だって原田絢に恋をしているように見えたわよ。今頃、2人きりになってイチャイチャしているんじゃないかしら」

「仮にそうだとしても、俺は彩花のことを嫌いになったりしませんよ。もし、あなたが俺と彩花の関係、遥香さんと絢さんの関係を断ち切ろうとしているなら……それは、氷高さんがやったこととさほど変わりないと思います」

 自分のされた苦しみを分かって欲しいという理由だとしても、関係を断ち切ろうとしているなら、水代さんのことを許すわけにはいかない。

 すると、水代さんは鋭い目つきをして、


「あんな女と一緒にしないでよ!」


 そう言って、俺をベッドの方へと思い切り投げる。物凄い力だ。そのことで俺はベッドの上に仰向けになってしまい、水代さんが俺のことを跨ぐ形となる。

「あの女に告白したのに、フラれて、気持ち悪いって言われて、いじめられて……挙げ句の果てには、あの日にそこの海で私達のことを見つけたのよ! その時の冷たい笑みは絶対に私や悠子ちゃんを地獄に落としてやるっていうサインだった!」

「……しかし、その夜にあなたは相良さんに別れを切り出されてしまい、ホテルのバルコニーから投身自殺をした。しかし、相良さんは……近くの港でじっくりと考えて、一緒に乗り越えようと決断してホテルに戻ったんですよ!」

「えっ……」

 水代さんは目を見開いた。

 てっきり、20年もあれば相良さんの真意は知っていると思っていたのに。幽霊だから人の心まで分かっていると思いきや。そういえば、彩花や遥香さんのことも「そう見えた」と言っていたな。

「水代さん……どうやら、あなたは幽霊としてこのホテルやその周辺を彷徨っているだけなので、誰の真意も分かっていないようですね。だから、遥香さんは俺に、彩花は絢さんに恋をしているように見えたと言った」

 彩花の真意は定かではないけれど、遥香さんは俺に恋をしてしまいそうだと言っていた。2人の感情が表情や言葉に出ていたから、水代さんは恋をしていると推測したんだろう。

「……そうよ。見たことや聞いたことからしか分からない。だから、悠子ちゃんのことを見守り続けた。そうしたら、10年くらい前……あの女が、私が自殺した事件をネタに悠子ちゃんのことを脅迫してきた。悠子ちゃんも反論すればいいのに。ホテルのことや、私の家族のことを心配してなのか今まであの女のいいなりになってた。だから、最近は悠子ちゃんに協力してくれそうな人を探していたの」

「……やっぱり、そうだったんですか。そして、俺と彩花、遥香さんと絢さんというカップルを見つけ……入れ替わりを起こそうと決めたんですね。俺達なら20年前の事件や相良さんに辿り着くと考えたから。遥香さん達の方は彼女の兄と幼なじみというカップルも同伴していますからね」

「……ええ」

 俺達の想像通り、彩花と遥香さんの入れ替わりは相良さんへの復讐ではなく、むしろ彼女のことを助けるためにしたことだったんだ。

「あの女が、悠子ちゃんが傷付くよう真実を世間に公表しようとしているんだから、こっちだってあの女がしたことを世間に公表し、孤独に追い込むの。そして、あの女を自殺へと導いてやるのよ」

「氷高さんのしたことは世間に公表し、何かしらの裁きを受けるべきだと思います。しかし、自殺へと導くようなことをしては……!」

「私の受けたいじめは集団による精神的な殺人行為なんだよ! その殺人集団の中心にいた人物を死に導いて何が悪いの! 目には目を、歯には歯を、死には……死を! 場合によっては私があの女を殺すつもりでもいるの」

「あなたの気持ちも分かります。しかし、死に導いてはいけません! いかなる理由であっても、直接手を下したり、死に導いたりような行為は許されません」

「……それは生きている人間が殺人を犯すことについてでしょう? 私は既に死んでいるの。何をやっても裁かれない。私が氷高裕美を殺しても、どんな罰も与えられないの」

 そう言う水代さんは冷たい笑みを浮かべていた。

 殺人という行為を禁止し、罰する法律があっても、既に亡くなっている人間にはどんな罰を与えることができない、か。死者だからこそ言える言葉だな。

「……あなたが氷高さんのことを殺したいほどに憎んでいることはよく分かりました。しかし、それなら何故……今、俺とこうしているんでしょうね? 氷高さんを死に導きたいなら、もっと確実な方法もあるでしょうに」

「そ、それは……」

「あなたはその確実な方法をしてしまうと、相良さんや自分の家族に辛い想いをさせてしまうのではないかと考えている。だから、死者であるからこそできる方法で、第三者にこの現状を伝えようとした。違いますか?」

 氷高さんのことを殺害したいほどに憎んでいることは本当だろう。しかし、殺害してはいけないと分かっているからこそ、別の方法を考えた。そして、自身の自殺から20年経った今になって思いついたのが、信用できる人達の体を入れ替えることだったんだ。


「……もういい。あの女を殺しちゃいけないなんていう直人君には相談しない!」


 水代さんはそう怒号を放つと、意識を失ったかのようにゆっくりと目を閉じて俺の胸に顔を埋めた。彩花の体から抜けたのかな。

「……このことを4人に伝えないと」

 夕食の時に、まだ連絡先を知らない人とスマホの番号やメールアドレスを交換したんだった。もちろん、LINEのアカウントも。また、その時に6人のグループを作っておいた。


『今さっきまで、彩花の体に水代さんの霊が入り込んでいました。

 特に彩花は気をつけて』


 グループトークにそうメッセージを送っておいた。4人の中で水代さんが入り込むとしたら、おそらく遥香さんの体だろう。

 すると、すぐに既読の数が増えていき、


『ご忠告ありがとうございます。しかし、既に遥香の体に水代さんの霊が入り込んでしまいました。藍沢さんに対して物凄く怒っていて、絢さんを抱きしめながら泣いてますね』


 という坂井さんからのメッセージが。

 さすがに心霊だけあって、一瞬のうちに絢さん達が泊まっている部屋まで移動したんだな。そして、予想通り……遥香さんの体に入り込んで、俺に言われたことに対して泣いていると。これは絢さん達の部屋に行かない方が良さそうだな。それに、遥香さんも意識を失っている状態だし。


『分かりました。水代さんと話をし終わったら、電話でも直接会ってでもいいので話を聞かせてください』


 俺がそうメッセージを出すと、


『分かりました。とりあえず、絢さんと奈央と俺の3人で水代さんから色々と話を聞き出します。終わったら連絡しますね』


 4人を代表するかのように、坂井さんがそんなメッセージを送ってきてくれた。

 とりあえず、こっちは向こうからの連絡を待つしかないな。あと、遥香さんのことをベッドで寝かせないと。

「すぅ……」

 遥香さん、気持ち良さそうに眠っているよ。体はしっかりと拭かれており、バスタオルをきっちりと巻いている。遥香さんにとっては湯船が気持ち良くて眠っているようにしか思っていない……ということは、彼女がゆっくりと浸かっているときに水代さんが入り込んだのか。きっちりしている性格なのかな。

 バスタオルを巻いた状態のまま、遥香さんをベッドの上で横にさせる。布団も掛けたからとりあえずは大丈夫かな。

「コーヒーでも飲むか……」

 水代さんと色々と話したことで、主に精神的に疲れてしまったから。温かいコーヒーを飲んでリラックスすることにしよう。

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