第32話『絶壁』

 見覚えのある景色だ。ここは――。


「灯岬か」


 東、南、西の方向に広がる海は降り注ぐ太陽の光によって照らされている。何度も見てきたはずなのに、こんなにも綺麗だったのかと驚いてしまう。


「あの日とは違って、綺麗な海ね」


 振り返ると、そこには最後に会った日と同じ服装をした唯が立っていた。汗が出るほど暑いのに、春先の服装の唯は汗一つ流していない。


「唯……」

「……あなたは逃げた。御子柴さんから。だから、御子柴さんは危うく死んでしまうところだった」

「また逃げることになる。それって御子柴さんのことだったんだな」

「……そうだよ」


 今の唯の笑みは、俺の知っていた彼女の笑みではない。性悪そうで……人を嘲笑っているようで。

 唯は一歩ずつ俺に近づいてくる。

 今の唯は何だか怖くて、俺は一歩、一歩と後ずさりしていく。


「ほら。直人は今も逃げている」


 唯の言葉を耳にして、俺はその場で立ち止まる。


「俺は、逃げて……」

「逃げてるよ。……いや、もう逃げられないか。直人は自分への告白に対して決断しても、決断しなくても大切な人を失ったり、危うく失ってしまったり。もう、直人には逃げ場なんてないよね?」

「そ、それは……」


 今の俺は八方塞がりってことなのか。俺にはもう為す術がないってことなのか。俺はどうすればいいんだ。


「ふふっ、悩んでる。じゃあ、あたしが教えてあげようか。これから、直人はどうすればいいのか」


 すると、唯は一歩、俺に近づいてきて、


「死んじゃえばいいんだよ。それで、あたしと幸せになろうよ」


 そして、俺は唯に両手で思い切り突き飛ばされる。

 突然のことだったので、後ろに蹌踉めいて柵に手をかけたけれど、

 ――ミシッ。

 えっ、どうして? 今はもう、柵は白い鉄製のものでできているはずなのに、どうして木が軋むような音が聞こえるんだ?

 柵を見てみると、そこには腐った木でできた柵があった。ただ、それに気付いたときにはもう遅かった。


「うわああっ!」


 柵が壊れ、俺は海の方へと投げ出される。

 段々と遠ざかっていく唯の笑みはどこか寂しそうに見えた――。




*****




「はあっ、はあっ……」


 夢か。

 昨日、唯の夢を見たときと同じように、凄く息苦しい。灯岬から落ちていく夢を見たせいか体がすっ、と落ちていく感覚が今でも体に残っている。

 カーテンの隙間から日光が入り込んでいる。もう、朝なのか。

「うん……」

 すぐ側には椅子に座り、ベッドに突っ伏して寝ている美緒と美月がいた。御子柴さんの手術が終わったのは日付が変わる直前だったので、家には帰らず俺の病室で泊まることになったのだ。


「今日くらいは家でゆっくり休めよ」


 そう口にはしたけれど、今日から女子バスケのインターハイが始まる。月原高校は今日から試合があるから、2人も応援に行くんだろうな。


「みんな、自分のすべきことを頑張っているんだよな……」


 俺がすべきことは何なのか分かっている。

 でも、それをするには心に住み着いている怖さをどうにかしなければいけない。向き合おうとしても、逃げたい気持ちの方が勝ってしまって。


「だから、こんなことになっているんだよな」


 決断しても、しなくても。必ず誰かを傷つけ、時には失ってしまう。それがとても嫌なのだ。どうにかして、誰も傷つけない選択肢を見つけたくて。


「……追い詰められているな、俺」


 少しでも後ろに下がれば、もうそこには地獄へと続く絶壁しかない。そんなところに俺は自分で立ってしまったのだ。

 これからどうすればいいのか。それを見つけるにはまだまだ時間がかかりそうだ。今の俺に分かるのはそれだけなのであった。

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