第18話『御子柴香苗』

 御子柴香苗。

 その名前を聞くのは初めてだった。入学直後に剣道部を見学してから、剣道そのものに関心を持たなくなってしまったからかもしれない。


「へえ、御子柴さんっていうのね」

「はい」


 母さんは御子柴さんのことを見ながらくすっと笑った。


「……御子柴さん。直人は今、誰かと一緒にいないといけない決まりになっているの。ちょっとの間、直人のことをお願いしてもいいかしら。それに、私みたいなおばさんがいるよりも2人きりの方が話しやすいでしょ?」

「そんなことないですけど、藍沢君とお話ししたかったのは本当です」

「ふふっ、そうなの。じゃあ、あとは若い2人で」


 そう言うと、母さんは手を振って病室の方に戻ってしまった。


「すまないな。何か母さんが変なことを言って……」

「ははっ、僕はかまわないよ。可愛らしいお母さんだね。お姉さんかと思ったよ」

「……本人に言ったらきっと喜ぶと思うよ」


 まあ、そんな母さんは御子柴さんのことを考えて、わざと2人きりにさせたんだろう。話しやすい空気を作るために。


「御子柴さん、とりあえずそこに座ろうか」

「うん」


 俺と御子柴さんは隣同士の形でソファーに座った。

 もしかしたら、どこかで聞いたことがあるかもしれないと御子柴さんのことを思い出してみようとするけど……やっぱり、彼女の名前に心当たりはなかった。剣道部に入っているから、これまでに剣道関連のニュースとかで見たことがあるかと思ったんだけど。


「……前から、藍沢君と話してみたんだけどな。前にここにいたときは、何だか会えない雰囲気だったから」

「……色々とあって。どっちかっていうと精神的な方かな」


 前にというのは、月原と金崎のバスケの試合直後に倒れたときかな。それとも、記憶を取り戻して金崎総合病院からここに移ったときのことだろうか。

 そんなことを考えたら、記憶を取り戻した瞬間のことを思い出してしまった。今でも、罪悪感や背徳感に襲われそうな気がして恐ろしくなる瞬間がある。

 それにしても、寝間着姿ってことは御子柴さんも何らかの理由で入院していると思われる。前から、という一言から、快復に向かうまで時間がかかる病気なんだろうけど。


「御子柴さんはどんな理由で入院しているんだ?」


 俺がそう訊くと、御子柴さんは苦笑いをして、


「……心臓の病気になっちゃってね。今月末に手術を受ける予定なんだ」


 とてつもなく重いことをさらりと言った。

 心臓に関わる病気か。御子柴さんの今の様子を見ている限り、とてもじゃないけどそんなに重い病気を患っているようには見えない。驚いた。


「……そうか。心臓の……」

「うん。部活をしているときに、急に胸が苦しくなってきて。吐き気が物凄くて。その場で倒れちゃって。救急車でこの病院に搬送されて……拡張型心筋症って診断された」

「拡張型心筋症……」

「うん。思い返せば2年生になってから、時々胸が苦しかったり、激しい息切れをしたりするときがあったんだ。きっと、その間も病気が進行していたんだと思う」

「……なるほど」


 病気の兆候があったのか。でも、剣道部に所属していたら、練習の疲れが溜まっているとしか思えなかったんだろうな。


「手術をすれば、完治に向かう予定なのか?」

「……うん、僕はそう聞いてる。それまでは薬を使った治療をしてる。でも、それって逆に考えれば、手術をすれば確実に治るってことだろう?」

「……そうだろうね」


 御子柴さんはにっこりと笑った。手術をすれば、また日常を取り戻すことができる。剣道を再びすることができると信じているからだろう。


「倒れた瞬間、もう何もかもができなくなるのかなって不安になったんだ。僕の病状、結構深刻みたいで、もう少し遅かったら完治する可能性はゼロだったみたいで。でも、手術をしたら治るって聞いた瞬間に安心したんだ」

「……体がちゃんとこれ以上は危険だってサインを出せたからな」


 痛い、辛い、苦しい……それは人が生きるために必要な感覚だ。御子柴さんの場合は手遅れになってしまう一歩手前でちゃんと機能したんだ。


「病気が治ったら、また剣道がしたいな」


 御子柴さんのその言葉を聞いて、針を刺さったかのように胸がチクリと痛む。

 彼女は困難な状況に陥っても、ちゃんと前を向いている。俺はどうなんだろう。あの日からずっと、逃げてばっかりだ。


「大丈夫? 藍沢君、顔色があまり良くないけど」

「いや、何でもない」


 気持ちを落ち着かせるために、飲みかけの缶コーヒーを一気飲みした。


「……いいな。気にせずに飲み物を飲めて」

「水分も制限されているのか?」

「うん、心臓に負担をかけないために。喉が渇いても、ちょっとしか飲めないのは辛いかな。まあ、病院の中は涼しくて快適だからいいけど」

「そうか……」


 1年の中で一番暑い今の時期こそ、水分補給をしっかりとしないといけないのに、それを制限されてしまうのは想像しただけで辛そうだ。例え、1日中涼しい病院の中にいたとしても。


「すまない。普通にコーヒーなんて飲んじまって」

「気にしないでいいさ。それに、僕はコーヒーよりも紅茶派だからね」

「だから、あまり羨ましいとは思わないって?」

「ああ。コーヒーの苦みが苦手なんだ」


 なぜかドヤ顔で言われてしまった。苦手な飲み物だから、俺が目の前で飲んでいても全然気にならないってか。

 御子柴さんが剣道をしているからかもしれないけど、彼女と話していると懐かしい気分になってくる。


「あらあら、すっかりと仲良くなって」

「母さん、どこに行っていたんだ?」

「病室に戻って掃除とお花の水の入れ替えをね」

「そうか」

「早めに終わったから2人の様子をこっそり見ていたの。楽しそうに話しているのを見たら、お父さんと出会ったときのことを思い出したわ。もしかして、御子柴さんは直人のことが気になってたりする?」


 自分と重ね合わせたからって、御子柴さんにそんなことを訊くかい?

 すると、御子柴さんは胸に右手を添えて、


「気になっていますよ。彼は剣道経験者ですからね」

「剣道部に入っているって言っていたものね」


 ふふっ、と母さんは穏やかに笑った。


「あっ、すみません。僕、そろそろ検査の時間なので、病室に戻らないと」

「1人で大丈夫?」

「大丈夫です。病室は結構近いですから。じゃあ、また話そうね、藍沢君」

「ああ、分かった」


 御子柴さんはソファーから立ち上がると、ゆっくりと歩きながら休憩スペースを後にしたのであった。

 懐かしさもそうだけれ、御子柴さんと気兼ねなく話すことができた。まるで、以前からの知り合いのように。


「彼女、明るくて元気そうだったけど、どこか調子が悪くて入院しているのよね」

「ああ、拡張型心筋症っていう心臓の病気で入院しているんだ。今月中に手術を受けるらしい」

「そうなの。心臓の手術だと不安もあると思うのに、あんなに明るいなんて。まるで、唯ちゃんみたいな女の子ね」

「……そうだな」


 そう、唯に似ている部分があったから。明るくて、元気で、どんな状況でも笑顔を絶やそうとしないところが似ているんだ。

 唯が生きていたら、御子柴さんと出会って試合でもしていたのだろうか。そんなことを想いながら、母さんと一緒に病室に戻るのであった。

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