第30話『僕の決断』

 7月2日、火曜日。

 今日の空は鉛色の曇り空に覆われていて、梅雨らしく雨がしとしとと降っている。

 学校にいる間、直人のことが気になって仕方なかったけれど、昼休みに杏子からメッセージがあり、午後5時に、直人からの返事をあたしがいる前で聞くとのこと。おそらく、直人が自分のことを選ぶ瞬間を見せつけたいという魂胆だと思う。



 今日も授業が終わるとすぐに月原高校へ向かった。体育館に行くと、昨日と同じように直人と宮原さん、吉岡さんがいた。ただし、杏子のことがあるからなのか、女バスの練習には参加しておらず、入り口付近に立っていた。

 杏子の姿がまだなかったので、あたしも一緒に待つことに。その間、あたし達は一言も言葉は交わさなかった。

 約束の午後5時を迎える。


「お待たせ」


 杏子が校舎の方から姿を現した。直人がもうすぐ自分の彼氏になると思っているのか、どこかワクワクしているようにも見えた。

 ついに、このときが来たんだ。直人の答えを聞く瞬間が。

 直人は今、どんな考えを持っているんだろう。色々なことがあたしの中に駆け巡っていくけれど、その答えは間もなく直人の口から明かされることになる。


「……さっそく、直人君の答えを聞かせて。まあ、どんな答えをするのかは分かっているけれどね」


 自分を彼女にすることを念押しするように、杏子は穏やかに微笑みながら言う。抜け目なく直人を自分の方へと引きずろうとしている。

 直人は落ち着いた表情をして杏子のことを見る。彼が一度、深呼吸をしている中、あたしは一度、唾を飲んだ。

 ゆっくりと直人の口が開き、


「僕の彼女は……咲さんです。これまでも、これからも咲さんと恋人として付き合っていきます」


 真剣な表情をして、はっきりとした口調で直人は杏子に答えを伝えた。それが彼の納得している答えであることは一目瞭然だった。


 あたしと恋人として付き合っていく。


 その言葉を聞いたとき、とても嬉しい気持ちになった。今までずっと直人のことを好きで良かった。彼氏が直人で良かったと一番に感じた瞬間だった。

 ただ、いつまでも浮かれた気持ちのままではいけない。杏子は振られたら死んでしまうと言っているから。あたしを選んだということは、杏子を選ばなかったと言い換えることだってできる。

 当の本人である杏子は少しの間俯いた後、


「酷いよ! 私は直人君のことが大好きなのに!」


 大粒の涙をこぼしながらそう叫ぶと、直人の方に駆け寄ってその流れで直人に口づけをした。あたしと同じように舌を絡ませている。


「私はこんなに直人君のことが好きなんだよ……?」


 甘えた声でそう言って、甘えた目つきで直人のことを見つめている。何としてでも直人の気持ちを自分の方に惹き付けたいということか。


「……その気持ちは嬉しいですが、僕は咲さんと付き合っていくことに決めたんです。本当にごめんなさい」


 直人は申し訳そうな表情をして、杏子に謝罪の言葉を口にした。きっと、直人も相当悩んだんだと思う。杏子が向けている好意が本物であると分かっていたから。

 杏子はゆっくりと首を振り、


「咲を選ぶなんて信じない。私を振ったら死んじゃうって釘を刺したのに。それでも咲を選ぶなんて。信じない。……信じられない!」


 直人に向かって罵声を浴びせる。


「咲のどこがいいのよ! 咲はバスケの試合を利用して、無理矢理に直人君のことを彼女にさせたんだよ! そこから始まった関係をこれからも続けるつもりなの?」


 バスケの試合を利用して、直人と無理矢理に付き合い始めた。何度も言われても心を抉られる。宮原さんと吉岡さんは許してくれても、そのことに関しては今も後ろめたい気持ちでいっぱい。

 杏子の粘りの説得によって、直人の気持ちは変わってしまうのだろうか。


「直人先輩……」

「……直人が彼女の気迫に負けないと信じよう」


 吉岡さんは落ち着いた様子で宮原さんの肩を掴む。すると、2人は頷き合った。直人のことを見守るつもりか。

 あたしはどうすればいいんだろう。直人の彼女として彼の助言をした方がいいのかな。それに、直人の出した答えを応援すると決めたんだから。

 けれど、杏子に指摘されたことに対する後ろめたい気持ちが、喉まで出かかっていた言葉を押さえ込む。そんなことを言う権利はないというように。


「……きっかけは間違っていたのかもしれません」


 直人は落ち着いた口調でゆっくりと話し始めた。


「ただ、今も……僕の心には咲さんのことが好きな気持ちと、咲さんとこれからも付き合っていきたい気持ちが大きくなっているんです。その気持ちを僕は無理矢理に抑えるようなことはしたくないんです。だから、僕はこれからも咲さんと付き合うと決めたんです。たとえ、あなたから振られると死んでしまうと言われても」


 一度も杏子から目を逸らさずに直人は言い切った。

 彼の決意の理由を聞いて心が温かくなった。あたしが抱いている後ろめたさもほんの少しだけ薄れた。

 宮原さんも吉岡さんも今の直人の言葉に納得している様子だった。今すぐでなくてもいいから、杏子も2人のように直人の考えに理解を示してくれると嬉しいんだけれど。

 杏子は何も言わずに直人から2、3歩離れて、


「……ふうん、そうなんだ」


 さっきとは打って変わって、低いトーンでそう呟く。


「私が死んじゃうって言っているのに、それでも咲のことを選ぶんだ。直人君は。本当に訳が分からないよ」


 はあっ……と杏子は深いため息をついた。


「でも、僕はあなたに死んでほしいとは思っていません!」

「それならどうして私を選ばないの! 私を選んでも咲はどうせ死なない! 私は直人君に選ばれなかったら死ぬ覚悟でいるんだよ! そんな私の気持ちを踏みにじった!」

「僕はそんなつもりで咲さんと付き合うと決意をしたわけでは……!」

「今更、言い訳をしてもムダだよ」


 そんな杏子の表情からは、全く温かさを感じられなかった。あたしと付き合うことが本当に気に入らなくて。本当に杏子は死ぬつもりかもしれない。それだけは何としてでも止めないと!


「杏子! あなた、本当に……」

「……咲は黙ってなさいよ。本当に咲には最後までイライラさせられるなぁ。今は直人君と話してるの」


 そう言われて、杏子から鋭い視線を向けられた瞬間、背筋が凍った。悔しさ、虚しさ、殺気……彼女の抱く全ての負の感情をあたしにぶつけているように感じたから。

「ねえ、直人君」

 冷たい笑みを浮かべた杏子は再び直人の方を向いた。


「私を振るとどうなるか、思い知らせてあげるから」


 そう告げると、杏子は早足で体育館を立ち去ってしまう。

「杏子!」

 あたしはすぐさまに彼女を追いかけに体育館の外に出るけれど、そこには杏子の姿はなかった。

 スマートフォンで彼女に電話をするけれど、電源を切っているのか通じない。


「どうしよう、本当に死んじゃうかもしれない……」


 何をするのかは明言しなかったけれど、杏子は直人に復讐をするために自らの命を絶つかもしれない。


「咲さん」

「直人……」

「すみません。僕のせいでこんなことになってしまって……」

「直人は何も悪くないよ。それに、ありがとう。あたしを選んでくれて。とても嬉しいよ」


 そんな気持ちがあるからこそ、今のこの状況に何とか耐えることができている。もちろん、宮原さんや吉岡さんの存在も大きい。


「今は敢えて1人にさせた方がいいのでしょうか……」

「直人が広瀬さんを選んだことに動揺して、あそこまで過激になった可能性も十分にあり得るからね。紅林さんが落ち着くのを待った方がいいかもしれない」

「でも、直人先輩に振られたら死ぬという決意は昨日から既に固そうでした。もしかしたら、彼女の言葉通り、直人先輩に振ったらどうなるかを思い知らせるために……」

「……難しいところではあるよね。私達が動いたら、そのことで気持ちがざわついて自らの命を絶つかもしれないし……」


 動いた方がいいのか、動かない方がいいのか。そもそも、杏子を死なせないために何をするのが一番いいのか。あたし達には分かるはずもなくて。

 結局、今日は何もできなかった。それがとても悔しくて、直人と付き合える嬉しさの中に大きな影を落としたのであった。

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