第29話『道のり』

 直人の提案によって、宮原さんと吉岡さんと一緒に彼の家に行く。

 あたし達が側にいることが安心できるのか、直人は穏やかな笑みを絶やさなかった。これが彼の願いだったということが分かる。

 直人の家に帰ると、宮原さんと吉岡さんが夕ご飯を作り始めた。

 料理があまりできないのもあったけれど、直人の側にいた方がいいと思って、あたしはソファーに直人と隣同士に座って、夕ご飯ができるのを待った。直人の方からあたしに寄り添ってきたときは可愛いなって思った。

 2人の作った夕ご飯はとても美味しかった。卵を使った料理が多かったことが気になったけれど。直人が満足そうにしていたし、彼の好みに合わせたのかな。

 夕食が終わってから少し経って、あたし達は直人の淹れた紅茶でゆっくりとした時間を過ごす。

 あたし達は直人の淹れてくれた紅茶を飲むけれど、直人だけは俯いたままで、ティーカップに口を付ける気配が全くなかった。


「どうかした? 直人」


 そうは訊いてみるけれど、直人が物思いにふけている理由は分かりきっていた。

 直人はあたし達に作り笑いを見せて、


「僕は咲さんのことが好きですし、咲さんの恋人でいたいです。でも、なぜなのか……僕は紅林さんにどのような回答をすればいいのか分からないんです」

「それはやっぱり、振ると死んじゃうって言われたから?」

「……ええ」


 直人は視線をちらつかせながら、そう答えた。直人にとって、たとえ杏子でも人が死んでしまうことが嫌なんだ。ましてや、自分の決断が死へと誘うと言われてしまったら。直人の想いが揺らぐのは仕方ない。あたしも直人と同じ立場だったら、きっと……とても悩んでしまうと思う。


「僕はどうすればいいのでしょうか。考えれば考えるほど分からなくなってきました」


 俯く直人の姿を見て、彼が相当思い詰められていることが分かる。まさか、ここまで杏子の計算の内だとしたら、本当に許せない。


 あたしが恋人であるという真実を貫くのか。

 杏子が恋人であるという彼女の作り上げた話に乗せられてしまうのか。


 あたしが直人の恋人になれなくても、もちろん死ぬつもりなんてない。それを直人に伝えたら、デメリットを考えて杏子のことを選んでしまうのではないか。直人の優しい性格ならそんな展開になってもおかしくはなかった。

 あたしも考えれば考えるほど分からなくなってきた。直人にどんな言葉をかけてあげればいいのか。その言葉に重い責任が乗っかると思うと、言葉を口にできない。

 しばらくの間、リビングは静寂の空気に包まれる。しかし、


「……自分の想いをそのまま伝えればいいんだと思います」


 意外にもその空気を変えたのは宮原さんだった。


「とても辛くて苦しいとは思いますけど、大切なことですからよく考えた方がいいと思います。それを紅林先輩に伝えるだけだと思います」

「彩花ちゃんの言うとおりだね。それと、私達は相談には乗れるけれど、答えは出せないよ。少なくとも彩花ちゃんと私にはね」


 宮原さんと吉岡さんは爽やかな笑みを浮かべながらそう言った。

 確かに、どのような結論に至ったとしても、よく考えた末で答えることが一番いいのかもしれない。中途半端な気持ちで結論を出してしまうことが、一番いけないのかもしれない。


「でも、一つだけアドバイスをするのであれば、最終的には直感もありなのかもしれません。ふと思ったことが本音と言えるでしょうから」

「本能の赴くままにってやつだね、彩花ちゃん」

「そうとも言いますね」


 よく考えろと言った直後に、直感だなんて。何だか両極端な気がするな。

 でも、宮原さんや吉岡さんの言っていることは間違っていないと思う。ううん、むしろそういう気構えでいた方が心も軽くなる。

 気付けば、直人も少しだけ表情が柔らかくなっていた。


「……そうですね。自分でよく考えた方がいいかもしれません。僕、凄く不安で、答えが欲しいと焦ってしまって、みなさんに訊いてしまいました」

「気にしないでください。それに、直人先輩が悩んでしまっているのは紅林先輩があんなことを言ったからですし」

「逃げるんじゃなくて、悩んで向き合おうとしている直人は強いと思うよ」

「……そう言ってもらえると、少し心が軽くなります」


 直人の口角が僅かに上がった。

 凄いな、直人を元気づけられる言葉が言えて。しかも、ちゃんとしたアドバイスまでして。直人の恋人に相応しいのはこの2人のどちらかなんじゃないかと思う。


「直人、あたしは……直人の答えを尊重するから。だから、答えを出すことに何も恐れないでいいからね。それだけは覚えていて」


 たとえ、杏子が死んでしまうとしても、あたしを選んでほしい。そんな欲望があたしの体中を駆け巡った。

 ただ、それよりも強く願うのは、は直人の納得する答えを杏子に伝えること。その答えがどんな内容でも、それがいいと思った答えであるのなら、あたしはその答えを尊重したいと思っている。


「ありがとうございます、咲さん」

「うん。よく考えることも大切だけれど、今日は一度、学校で体調を崩しているからね。何も考えずにゆっくりと休むことも大切だよ。疲れていると考えられることも考えられなくなるから」


 考えすぎたら、また激しい頭痛に見舞われる可能性だって捨てきれない。直人の健康を第一にしないと。考えるのはその次でいいと思う。


「そうですね。とりあえず、お風呂に入って気分を落ち着かせます。それで、少しの間、僕一人で考えさせてください」

「うん、分かった。あたし達はいつでも相談に乗るからね」

「ありがとうございます。では、ちょっと失礼しますね」


 そう言って、直人は静かにリビングを出て行った。

 直人がいなくなったと同時に、宮原さんと吉岡さんはあたしの側までやってきて、吉岡さんがあたしの肩をポンと叩いた。


「……強いね、広瀬さんは」

「えっ?」

「だって、親友の紅林さんが振ったら死んじゃうって言ったから、直人はあんなに悩んでいるのに、広瀬さんはそっと直人の背中を押したんだもん。本当に強いと思うよ」


 広瀬さんがあたしのことを褒めてくれていることは分かった。それに対して嫌な気持ちはないけれど、罪悪感は生まれる。


「そんなことないよ。だって、あたしは直人の彼女でいたいんだもん。直人の恋人でいられるなら、多少の犠牲はかまわないって思っちゃったんだもん」


 それは杏子の考えと重なっているところである。自分の欲望のためなら、他の人がどうなってもいいと思ってしまったところが。


「それでも、どんな答えであろうと、直人先輩のことを応援すると決めたじゃないですか。だから、強いんだって渚先輩は言っていると思いますし、私も広瀬先輩は強いなって思っています。さすがは恋人さんって感じで」

「だって、直人の顔を見たら、応援したくなるじゃない。自分の欲なんてどうでもよくなって。直人が満足のいく決断をして笑顔でいられるなら、それが一番いいなって」


 直人が後悔したり、苦しい想いをしたりするようなことをさせたくない。もう、直人は十分に悩み、苦しんできたのだから。直人にはずっと笑顔でいてほしい。


「……まあ、あたしが側にいることができればいいなっていう願いがないと言ったら、嘘になっちゃうんだけれどね」


 次第に視界が揺らめいていく。何かがこぼれ落ちているような気がした。


「でも、あたしが側にいるから、直人が苦しい目に遭っているのかな」


 宮原さんか吉岡さんが直人の恋人だったら、杏子がこんなことをすることはなかったんだと思う。杏子が直人に抱く想いは本物だろうけれど、今回のことだってあたしが直人と付き合っているから、脅迫じみたことを言ったわけなんだし。


「そんなことないよ、広瀬さん。あの時も言ったけれど、直人は広瀬さんと一緒にいるとき、とても幸せそうに見えたんだ」

「直人先輩はきっと、広瀬さんと付き合って後悔したとは思っていないはずです。だからこそ、あなたが自分の答えを応援すると言ったとき、嬉しい表情を見せてくれたんじゃないんですか?」

「……そうだよね」


 応援する、と言ったときの直人の優しげな笑顔はいつもと変わらなかった。それはきっと、直人はあたしのことを信じてくれている証拠なんだ。


「……あたしも、直人のことを信じないとダメだよね。そうじゃないときっと、直人の決断が彼にとって納得のいくものにならない気がするから」


 これまで通りにあたしと付き合い続ける。

 杏子という女の子と付き合い始める。

 そのどちらの決断をしたとしても、それが直人の納得がいく答えなのだと信じないと。それが今、直人と付き合っている彼女としてすべきことなんだ。


 直人がどんな決断をするのか。


 それを早く知りたくて。心のざわつきをすぐにでも抑えたくて。直人に訊きたかったけれど、彼が最善の決断を下せるよう特に問いかけるようなことはしなかった。

 こんなときにはさっさと寝るのが一番だと思ったけれど、こんなときほど眠れるはずがなかったのであった。

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