第28話『彼方の彼女』

 歩けるくらいに直人の体調が回復したので、あたしは宮原さんや吉岡さんと一緒に直人を体育館の隅まで連れて行く。


「直人、一緒に保健室に行こうか?」

「……大丈夫です。少し息苦しいだけですから」


 そう言いながらも、直人の肩は上下に大きく動いていた。


「……ごめん、直人。直人を苦しめることになっちゃって」


 あたしがもっとしっかりとしていれば、直人がここまで苦しむことはなかったのかもしれない。そう思うととても悔しかった。

 しかし、直人はあたしに精一杯の笑顔を見せる。


「……咲さんは、何も悪くありませんよ。それに、死んじゃうって言われたら辛くなっちゃいますよ。ただ、それだけです」


 まったく、直人はどれだけ優しいの。優しいことはいいとは思うけど、杏子みたいな人にまでも優しくしなくてもいいんだよ。


「でも、直人の苦しみはそれだけではないように見えたよ」

「ええ。直人先輩が退院した日のようでした。あのときも突然、激しい頭痛に見舞われましたよね」


 そういえば、宮原さんは以前に言っていた。直人が退院した日の夜、柴崎という苗字を彼女が口にしたら、直人は頭を抱えて苦しんだと。

 今回の場合は死んじゃう、という言葉がきっかけだったけれど、どちらも2年前に亡くなった唯が関係している。


「……ええ。あのときと同じような頭の痛みでした。以前も頭の中で突然、映像が映ったんですけど、今回は……女の子がいたんです」

「女の子?」


 もしかして、その女の子っていうのは、


「ねえ、直人。その女の子ってさ、髪の色が焦げ茶色じゃなかった?」


 焦げ茶色。それは唯の髪の色だった。もしそうだとしたら、直人は少しずつ記憶を取り戻している証拠だ。直人にはまた辛い想いをさせてしまうかもしれないけど、これは確かめておきたいことだった。

 すると、直人はゆっくりと頷く。


「……そうです。その女の子の髪は焦げ茶色でした。咲さんがそう訊くということは、咲さんや僕はその女の子と会ったことがあるのですか?」


 直人の放つ質問にどう答えればいいのか分からなくて、口を噤んだ。答え方によってはまた直人を苦しめてしまうから。

 でも、答えなければならない。


「……うん。直人とあたしはその子と会ったことがあるよ」


 事実は事実でも、当たり障りのないことを伝えた。これが正しかったのかは分からないけど、2年前に亡くなった真実を伝えるよりはいいと信じたい。


「彩花さんや渚さんは会ったことがないんですか?」


 直人は静かにそう訊く。


「……ありません」

「私も、ないわ」


 宮原さんも吉岡さんも複雑な表情をし、視線をちらつかせながら答える。2人が唯に会ったことがないのは事実だけど、亡くなっていることを伏せているので2人とも辛いと思う。


「そうですか。いつか、その人と会ってみたいですね」


 口角を上げながらそう言う直人を見て、胸が張り裂けそうになった。早々に、彼に真実を話した方が良かったんじゃないかと後悔し始める。

 しかし、直人はすぐに切なそうに微笑む。


「……でも、死んじゃうって言われた瞬間にその人の顔が思い浮かんだので、もう彼女はこの世にいないのかもしれませんね……」


 まさか、直人の方から、唯の死を示唆するような言葉を言うなんて。驚きもあったけど、同時にゾクッとした。


「……うん。その女の子は亡くなっているんだよ」


 気付けば、唯が亡くなっていることを直人に話してしまっていた。もう、今しか話すタイミングがないと本能で考えていたのかな。

 宮原さんと吉岡さんは目を見開いていた。2人とも、唯の死だけは今の直人には絶対に言わないと考えていたからだと思う。

 当の本人である直人は複雑な表情を見せる。さっきのように苦しんでしまうだろうか。そう考えると、気付かぬままのことであっても、今度は唯が亡くなった事実を言ってしまったことに後悔をする。

 直人がどんな反応を示すのか。思わず息を呑む。


「……それは悲しいですね」


 頭を抱え込むこともなければ、息苦しい様子を見せることもなく、直人はその言葉通りに本当に寂しそうな表情を見せる。


「でも、頭に彼女の顔がよぎるということは、その子は僕にとって大切な方だったんでしょうね」


 直人はどこか遠くを見ながら呟いた。


「……そうだよ」


 大切に想っているからこそ、直人は2年前の事件の真実が分かっても、苦しみ続けているんだ。記憶を失っても、激しい頭痛として体が反応してしまうほど、直人にとって大きな存在なんだ。


「そうですか。……僕は大切な人を失っていたんですね」

「……うん」


 さすがにこれ以上の真実を今の直人に伝えては酷だと思う。唯の死を穏やかに受け入れたのだから、この話は一旦、終わらせた方がいい。唯の死の真実については、後々話していくことにしよう。


「直人、顔色は良くなったけれど、体は大丈夫?」

「……ええ、さっきよりは良くなりました」

「良かった。でも、無理はしないでね。どうする? 今日はもう家に帰ってゆっくりしてもいいんじゃないかな」


 今の直人に女バスのサポートをさせるわけにはいかないし。今日は家に帰ってゆっくりと体を休めたほうがいいと思う。


「……みなさんが一緒にいてくれるなら」

「えっ?」

「咲さんだけではなくて、彩花さんや渚さんにも側にいてほしい。咲さんには申し訳ないんですけど。ただ、亡くなった女の子のことが頭によぎってから、3人が……僕の側から離れてしまうことが凄く嫌に思ってしまいまして。不安で仕方なくて。今夜でいいですから、僕の側にいてくれませんか」


 その声は震えていて、その震えは全身へと広がっているように見えた。

 きっと、直人はあたしだけでなく、宮原さんや吉岡さんのことも、死んだ唯と同じくらいに大切に想っているんだ。だからこそ、離れることこそが一番の不安であり、離れないでほしいと願う。

 宮原さんも吉岡さんも戸惑っている様子だった。でも、それはあたしという恋人がいるからだと思う。


「……私はいいですけど」

「でも、直人は広瀬さんの……」


 チラッと吉岡さんはあたしのことを見た。やっぱり、あたしに気を遣ってくれているんだ。


「……あたしは宮原さんと吉岡さんにいてほしいなって思っているわ。だから、今夜は直人の家に行こう。……ね?」


 そりゃ、恋人だから……直人が他の女の子が側にいることに嫉妬しないって言ったら嘘になるけれど、今は直人を不安な気持ちにさせることが一番嫌だった。

 それに、思ったんだ。

 あたし達3人が側にいて欲しいことが、記憶を失う以前からの本音なんじゃないかと。あたし達のことを大切に想い過ぎるが故の、彼の抱く何よりの願いであると。

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