第12話『欲に委ねる』

 午後6時半。

 直人先輩と私は3日ぶりに一緒に帰ってきた。記憶がなくても、家に直人先輩がいると落ち着く。


「ここが、僕の家ですか……」

「はい」

「……彩花さんと一緒に住んでいるからなのか、とても素敵なところに思えますね」


 直人先輩は優しい笑顔を浮かべながらそう言った。意外と記憶をなくしてからの方が笑顔を見せることが多くなったような。それに、胸がキュンとなるような言葉をさらりと言ってくる。


「別にそんなことありませんよ。……直人先輩が一緒だから素敵な場所なんです」

「……そうですか」


 リビングに直人先輩がいる光景。やっぱり、いいなぁ。直人先輩を見ていると温かい気持ちと切ない気持ちが交錯する。

 どうしよう。涙が出そう。何か先輩に話しかけないと。


「先輩、お腹は空いていますか? もういい時間ですし、そろそろ夕ご飯でも作ろうかなと思うんですけれど」


 直人先輩の好きな料理を振る舞って、先輩を元気にしたい。そして、少しでも記憶を取り戻すきっかけになればいいなと思っている。


「お腹、結構空いちゃっているんですよね。病院のお昼ご飯、あまり量がなくて。でも、彩花さんに作ってもらっていいんですか? 僕も一応、料理はできますけど。料理をした記憶はないんですけど、料理の知識はあるんですよ」

「お気持ちは嬉しいですが、直人先輩は退院したばかりなんですよ。そんな方に料理をさせるわけにはいきません。それに、私が先輩に夕ご飯を作りたいんです」


 私がそう言うと、先輩は笑いながらも少しがっかりそうにしていた。本人からの申し出でも、さすがに退院してきた日に料理をさせることはできない。あと、料理をした記憶はなくても、知識として頭の中に残っているんだ。先輩、1年生の間は一人暮らしで料理を覚えたって言っていたもんね。


「彩花さんの作る料理が楽しみです」

「今夜は直人先輩の好きな卵料理ですよ」

「そうなんですか!」


 直人先輩の表情がぱあっと明るくなった。子供らしくて可愛いな。どうやら、卵料理が好きなのは本能で覚えているみたい。


「すぐに夕ご飯の用意をしますから、直人先輩はソファーでゆっくり休んでいてください」

「……そうですか、分かりました」


 直人先輩はソファーに座ると、キョロキョロと周りを見渡している。記憶のない先輩にとって初めての場所だから落ち着かないのかも。

 私はキッチンへと向かって、夕ご飯の準備に取りかかる。この日のためにと卵はたくさん買っておいた。卵をふんだんに使って料理を作ろう。

「でも、何がいいかな……」

 しかし、いざ作ろうとなると、何を作ろうか迷ってしまう。ご飯ももうすぐ炊けるからやっぱりオムライスかなぁ。あと、洲崎町での同窓会で直人先輩は茶碗蒸しを食べたみたいだから茶碗蒸しもいいかも。オムライスにはあまり合わなそうだけれど。


「今日は直人先輩の退院祝いだし、ありったけの卵料理を作ろう! うん、そうしよう!」


 直人先輩の笑顔を思い浮かべながら、夕ご飯を作り始める。

「……うん」

 先輩の笑顔を思い浮かべたら、思わず声が漏れてしまった。その声は震えていた。それが全身に伝わるように、卵をかき混ぜる手が小刻みに震える。果てには涙が溶き卵にこぼれ落ちた。


 記憶を失う以前のクールな直人先輩がたまに見せてくれる笑顔が好き。

 記憶を失った今の直人先輩が見せてくれる柔らかい笑顔も好き。


 そんな直人先輩の笑顔が、すぐ側で見ることができなくなるのがたまらなく嫌だ。一緒に住んでいるこの距離感での笑顔じゃないと満足できない。そのくらいに直人先輩のことが好きになってしまっている。

「えっ……」

 気付けば、頭の上に何かが乗っていた。とても温かくて優しい感覚。

 振り返ると、そこには直人先輩が立っていた。とても優しい笑顔をして。直人先輩は私の頭を優しく撫でてくれる。


「何だか悲しそうな感じがしたのですが、やはりそうでしたか」

「直人、先輩……」

「その原因はやっぱり、僕なんですよね」


 そうは言いつつも、直人先輩は優しい笑顔を崩さない。その優しさに涙がまた溢れてしまう。直人先輩の前でこんな姿を見せちゃいけないのに。


「違い……ます。私は直人先輩のせいで泣いているわけでは……」

「……それならいいのですが」


 直人先輩は私の頭を優しく撫でて、


「たとえ、僕が原因であったとしても、僕の前で泣いていいんですよ。どうも、彩花さんは僕に気を遣って泣かないよう頑張っているように見えましたから。そこは頑張らずに泣いてもいいと思います」


 追い打ちをかけるようなその言葉に、涙腺を刺激される。

 直人先輩を苦しめたくない。その一心で例え、作ってでも直人先輩にできるだけ笑顔を見せたいと頑張ってきた。それを直人先輩に見透かされていたんだ。かえって、心配させちゃったのかもしれない。

 自分が直人先輩のことが一番好きだと思っていたけれど、先輩のことを分かっていなかったのかな。そんな私が恋人になれなかったのは当然だったのかな。

「直人先輩……」

 それでも、本能がそうさせるのか、無意識に私は直人先輩のことを強く抱きしめていた。


「……私は直人先輩のことが大好きです。広瀬先輩の恋人になってしまった今でも、直人先輩のことが好きなんです!」


 ごめんなさい、広瀬先輩。

 あなたから許されてはいたけれど、直人先輩を思い切り抱きしめて好きな気持ちを伝えてしまいました。

 見上げると、そこには直人先輩の笑顔が目の前にあった。


「そうですか。でも、僕は咲さんの恋人ですからね。その気持ちには応えることができないんですよね」


 分かっているよ、そんなこと。それでも、言わずにはいられなかった。胸にしまっておくことがとても苦しかったから。


「……ごめんなさい。先輩に恋人がいるのに、告白なんてしちゃって」

「いいんですよ。それに、何だか……彩花さんに対して、咲さんに抱いているような温かい気持ちがあるんです。それは渚さんに対しても……」

「温かい気持ち……」


 温かいという言葉からして、直人先輩が口にする気持ちは決して悪いものではないと思う。それに、渚先輩、広瀬先輩にも抱いているってことは、それは――。


「……っ」


 言葉に出せなかった。たとえ、記憶を失っている状態でも、それを言ってしまったら直人先輩を苦しめるような気がしたから。


「なぜか、この家に彩花さんと一緒にいると落ち着くんです。咲さんと一緒にいるよりも落ち着くっていうか。自然な感じがして。咲さんが僕の恋人なのに、そんなことを思ってしまうなんて彼氏としてダメかもしれませんね」


 直人先輩は苦笑いをした。

 でも、今の言葉がとても嬉しく思ってしまった。広瀬先輩よりも私の方がいいって言ってくれたから。


「……きっと、今まで私と一緒にここに過ごしてきたからじゃないでしょうか。それに、広瀬先輩とは半月ほど前に3年ぶりの再会を果たして、3日前に恋人同士になったんですから」

「そうだから、でしょうかね……」


 ははっ、と直人先輩は小さく声に出して笑った。


「……直人先輩。先輩も私のことをぎゅっと抱きしめてください」

「彩花さん……」

「大丈夫です。広瀬先輩にはちゃんと許可を頂いていますから。それに、何か言われてもこれは私の我が儘です。だから、抱きしめて……」


 そう言って、私は直人先輩の胸に顔を埋めた。

 直人先輩はそんな私に返事をするかのように、無言でぎゅっと抱きしめる。とても温かくて、優しくて。ずっと、このままでいたい。

 直人先輩とこの家で一緒に暮らすことができるんだったら、記憶なんて戻らなくたっていい。そんな自分勝手気持ちを抱くほど、直人先輩のことが好き。記憶があっても、なくても……私の好きな直人先輩であることに変わりはないのだから。

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