第10話『ひかり』

 午後6時。

 直人先輩は記憶喪失のままだけど、意識が戻り、体調も快方に向かっているため、浩一さんと美月ちゃんは洲崎町に帰ることになった。

 ひかりさんだけは直人先輩が退院するまで月原市に残ることになり、直人先輩と私の家に泊まることになった。そのときの浩一さんがとても寂しそうだったけど。


「まさか、彩花ちゃんと2人きりで夜を迎える日が来るなんて。想像してなかったわ」

「私もです」

「でも、本当に良かったのかしら。私が泊まっちゃって」

「気にしないでください。それに、家に帰っても私1人で寂しかったですし」


 まさか、今日も誰かが家に泊まることになるとは思わなかった。しかも、その人がひかりさんだなんて。美月ちゃんの方がまだあり得そうだったけど。といっても、私から提案したんだけどね。


「彩花ちゃん、夕飯は私が作るわ」

「いいんですか?」

「もちろんよ。それに、お家ではきっと彩花ちゃんが食事を作っているんでしょう?」

「ええ、大抵は。たまに直人先輩が作ってくれるときがあるんですけど、それがとても美味しいんですよ」

「あら、そうなの。じゃあ、この1年の間に料理が好きになったのね。それまでは料理なんて授業以外ではほとんど作ったことがなかったんだから」

「そうなんですか」


 信じられない。あんなに美味しいのに。ひかりさんの言うとおり、直人先輩は料理好きになったかもしれない。そのくらいの出来映えの料理を作ってくれるから。


「こっちに来てから、やっと彩花ちゃんの楽しそうな笑顔を見られたわ。本当に直人のことが好きなのね」

「……ええ。今はもう広瀬先輩の恋人になってしまいましたけど」


 だから、この恋心を捨てなきゃ。それは分かっているのに、なかなか捨てられない。むしろ、直人先輩のことが好きな気持ちが増していく一方。


「今、直人への気持ちを無くそうとか考えていたでしょ」

「……凄いです。まさにそうです」

「恋する女子高生は私も経験しているから。人っていうのは、誰かに恋をしているとより輝くものだって思っているの。誰かを好きになるって素敵なことじゃない。直人への恋心は持ち続けていいと思うよ」

「そうでしょうかね?」

「もちろん」


 ひかりさんは可愛らしい笑顔を見せた。本当にひかりさんって高校生と中学生の子を持つ母親なのが信じられないほど若々しい。それって、浩一さんに今でも恋心を抱いているからなのかな?


「だって、出会ってから25年くらい経つけど、今も浩一さんに恋しているもの」

「ふふっ、そうですか」


 やっぱりそうだった。浩一さんとひかりさんは素敵なご夫婦だと思う。

 私もいつかお二人のような夫婦に直人先輩となりたかったけれど、それはもう叶わない夢になっちゃったからなぁ。でも、他の男の人では考えられない。そのくらいに直人先輩のことが好きなんだ。


「あっ、もうそろそろ着きます」


 気付けば、直人先輩と私の家のある月原高校の寮が見えていた。


「寮ってどんな感じかと思ったけど、普通のマンションみたいなのね。洲崎だとマンションもあまり見かけないけど」

「そう……ですね。直人先輩のように高校入学を機に上京する生徒も割といるので、しっかりとした寮があるそうですよ」


 高校案内のパンフレットにちゃんと書いてあった気がするんだけど。直人先輩のときのパンフレットにはあまり大きく描かれていなかったのかな。


「私、ここに来るのは初めてだから、どんな感じなのか楽しみだわ」

「そうなんですか」


 意外と親御さんって家に足を運ばないものなのかな。まあ、私の場合は実家に近いから、いつでも行こうと思えば行けるっていうのもあったけど。

 私はひかりさんと一緒に帰宅する。


「へえ、結構綺麗なところね。いかにも都会のマンションっぽい……」

「最初に来たとき、私も驚きました」


 今でも寮ではなくてマンションに住んでいる感覚だから。食事も普通に自分で作るし、門限だって月原市の条例に則った時刻なので、普通に生活していると寮という感じはあまりしない。唯一、寮らしいのはご近所さんが全て月原高校の生徒であるということ。月原高校の所有するマンションと考える方がいいかも。

 ひかりさんをリビングに通すと、彼女はリビングを見渡した。


「これなら2人で十分に暮らせるわね」

「そうですね。ちなみに、直人先輩は私が来るまでずっと1人で暮らしていたようです」

「あら、そうなの」


 1人では広すぎる気がするけれど、洲崎町での開放的な雰囲気に慣れていると、このくらいの広さが普通に思えてくるかもしれない。


「彩花ちゃん、冷蔵庫の中を見てもいいかしら。あるもので何か作るわよ」

「分かりました。私もお手伝いします」

「じゃあ、お願いしちゃおうかな」


 昨日は渚先輩との料理だったので私がメインで作っていたけど、今日はひかりさん。ひかりさんがメインで私はその横でお手伝いをした。

 ひかりさんの作った料理はとても美味しかった。どこか優しくて、懐かしい感じもして。母親の作る料理だからなのかな。


「……もしかしたら、直人先輩にも……」


 覚えている味があって、それを口にしたら懐かしく思うかもしれない。直人先輩が退院したら、大好きな卵料理を作ろう。もしかしたら、その味で記憶が戻るかもしれないから。

 後片付けをして、紅茶を飲んだ頃にようやく気持ちが落ち着いてきた。


「そういえば、彩花ちゃん。この後は直人とどうするつもりなの?」

「病院で渚先輩と広瀬先輩とお話しして、直人先輩の記憶が元に戻るまでは直人先輩と一緒に過ごすことに決めました。今までの同じ生活を続けることで、直人先輩の記憶が戻るきっかけが生まれるんじゃないかと考えているので」

「そうなの。直人のためにそこまでしてくれるなんて。本当にありがとう」

「……私達がそうしたいと思ったからです。直人先輩には笑顔でいてほしいから」


 記憶を取り戻すということは、柴崎さんの事件の記憶も思い出すことになるけど、それでも何も思い出せないよりはいいんじゃないかと考えている。


「直人は愛されているのね。安心したわ。月原にも直人を守ろうとしてくれる子がいる。彩花ちゃんや渚ちゃん、そして、咲ちゃん。他にもいる」

「それでも、今回のようなことがあると、直人先輩のことを傷つけてしまっているだけかもしれないと思うときがあるんです」


 私達がいるだけで、直人先輩を苦しめているかもしれない。ううん、きっと苦しめている。だからこそ、階段から落ちた際に記憶を失ったようも思える。


「それは違うわ、彩花ちゃん」

「どうして、そう言い切れるんです?」

「ゴールデンウィークに直人が帰ってきたとき、彩花ちゃん達と一緒にいる姿を見て楽しそうだったわ。守りたいものができたって言えばいいのかな。きっと、あなた達のことを愛しているのよ。記憶を失ってもね」


 確かに今日の直人先輩も、私達が悲しんでいると悲しくなって、私達が笑っていると嬉しそうだった。周りの人を大切にする直人先輩の気持ちは変わっていない。


「……お母さんって凄いんですね」

「自分の子供のことだからね。直人は周りの子を守ろうとする強い子だけど、その気持ちが強すぎることが原因で弱い部分もある」

「それが、決断できないということでしょうか」

「そうかもしれないわね。直人にとって唯ちゃんの亡くなった事件が今でもトラウマになっている。そのことによって、周りの人が傷付くことを何よりも恐れている。でも、誰一人も傷つけることのない決断なんて絶対にないと思うの」


 浩一さんも同じことを言っていたな。


「傷付いても人はそこから立ち直れることを直人に知ってほしいのよ。それはとても難しいことかもしれないけど」

「……私達にそれができるでしょうか」

「きっとできるわ。だから、私は安心しているの。彩花ちゃん達ならきっと、直人を本当に笑顔にできるってね」


 ひかりさんは優しい笑みを見せながらそう言ってくれた。信頼してくれていることはとても嬉しいけど、そんなに期待されていいのかと困惑してしまう。


「直人の記憶がなくなって混乱しているとは思うけど、これまで通りに直人と接してくれると嬉しいわ」

「もちろんです。直人先輩が広瀬先輩の恋人でも、直人先輩とはその……仲良く付き合っていきたいですから。それはきっと、渚先輩も同じだと思います」


 記憶を失ったままでも、広瀬先輩の恋人でも、直人先輩から離れるようなことはしない。その気持ちだけは絶対に変わらない。


「ありがとう、彩花ちゃん。直人のことをよろしくお願いします」


 そう言うと、ひかりさんはほっと胸を撫で下ろしていた。息子を想う温かな笑み。

 そんなひかりさんを見て、私の中にある広瀬先輩への罪悪感がほんの少しだけ消えたのであった。

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