第9話『ニアゼロ-後編-』

 病室を出て、広瀬先輩を探し始める。どこかで渚先輩と一緒にいればいいんだけれど。勢いよく飛び出したから、病院の外に出ちゃったのかな。

「うっ、ううっ……」

 どこからか女の子の泣き声が聞こえる。

 耳を澄ますと、その声が広瀬先輩のものであると分かる。泣き声の中には「大丈夫」という渚先輩の声が混ざり込んでいた。

 声を辿っていくと、到着したのは昨晩、浩一さんと話した休憩所だった。そこのソファーには渚先輩に抱きしめられながら泣いている広瀬先輩がいた。


「彩花ちゃん……」

「お二人が近くにいて良かったです」

「広瀬さん、この机に突っ伏して泣いていて。広瀬さんもきっと分かっているんだよ。でも、直人が記憶を失ってしまったこと自体がとてもショックみたいで」

「そうですか……」


 私だって同じ。直人先輩が記憶を失っていることはショックで、気持ちの整理がなかなかできなくて。

 でも、私や渚先輩と違うのは、広瀬先輩は直人先輩の恋人であること。やっと恋人になれたというタイミングで直人先輩の記憶が無くなってしまった。広瀬先輩にとって道が閉ざされた感覚なのかもしれない。

 渚先輩の胸に顔を埋めていた広瀬先輩だったけど、ようやく気持ちが落ち着いたのか渚先輩から離れて私のことを見る。そんな彼女の目尻はとても赤くなっていた。


「……あたし、直人に酷いことを言っちゃった。本当は直人が目を覚ましたことが嬉しかったのに。記憶の無い直人なんて嫌だって。記憶を無くしたのは直人のせいじゃないのに。あたし、彼女失格だよ……」

「そんなことないですよ。私だって、記憶を失ったことを信じられなかったですから、広瀬先輩の気持ちは分かります。ですから、そんなこと――」

「そもそも、あたしがバスケを使って大切なことを無理矢理決めようって提案しちゃったのがいけなかったんだ。だから、そんな私に罰を下したんだと思う。あたしは直人の彼女になるべきじゃ――」


 ――パン!

 私は広瀬さんの左頬を思い切り叩いた。


「……いい加減にしてください、広瀬先輩。今の先輩の話を聞いていると、自分が一番苦しいんだって言っているようにしか聞こえません。そんな風に思っているなら、先輩は彼女失格だと思います」


 今の広瀬先輩の話を聞いているとイライラするよ。

 直人先輩は記憶がないというのに、広瀬先輩が恋人だと知ると広瀬先輩が大丈夫なのかどうか心配していた。ううん、恋人でなくてもきっと心配していたと思う。だって、実際に私達のことも気にかけてくれていたんだから。

 けれど、広瀬先輩には直人先輩を思いやる気持ちが感じられない。少なくとも今の広瀬先輩には。


「直人先輩が記憶を失ったのが広瀬先輩の罰? 何を言っているんですか。思い出してください。直人先輩の悲しそうな表情を。記憶を失って一番苦しいのは、直人先輩自身なんです。覚えていないことが人を傷つける。どうすれば、周りの人を……そして、広瀬先輩を悲しませずいられるのか悩んでいるんです。それでも、直人先輩は広瀬先輩を恋人であると知ってとても嬉しそうでした」


 直人先輩は広瀬先輩の立派な恋人だと思う。広瀬先輩が悲しそうだと、自分も悲しくなる。きっと、広瀬先輩が嬉しいなら、直人先輩も嬉しくなる。


「そんな素敵な人が広瀬先輩の恋人なんですよ。だから、恋人に至った経緯なんてもう関係ないんだと思います。大切なのはこれからどうしていくかではありませんか?」


 例え、記憶を失うことなくても、直人先輩は広瀬先輩と真剣に向き合って、素敵な恋人関係になっていたと思う。


「広瀬さんの気持ちも分かるけれど、彩花ちゃんの言うとおりだね。直人が記憶を失った事実を変えることはできない。そこをいつまでも悔やむんじゃなくて、どうすれば記憶の無い直人を笑顔にできるのか。そして、どうすれば記憶を取り戻すことができるのか。まずはそれを考えるべきじゃないのかな」


 渚先輩は落ち着いた口調で話す。

 直人先輩の記憶が無くなってしまった今、記憶がなくても笑顔になれる方法か、記憶を取り戻す方法を探すのが私達のすべきことだと思う。

 でも、何が正解なんだろう。何が直人先輩にとって一番いいことなんだろう。考えれば考えるほど、答えのない迷路に迷い込んでいるような感覚に陥ってゆく。


「……やっぱり、直人の記憶が戻ってほしいよ」


 広瀬先輩は消えゆく声でそう呟く。


「あたしの我が儘でもあるよ。直人の今までの思い出がなくなったままなのは嫌なんだもん。その中には、唯の事件のような辛い思い出もあるけれど。それに、思い出せないっていう辛さを直人には味わってほしくないの。だから、直人の記憶が戻ってほしい」


 それが広瀬先輩の本音であり、決意でもあることはすぐに分かった。こんなにも真剣な表情をして、真っ直ぐに私と渚先輩のことを見ているから。

 今の広瀬先輩の言葉で、私達は直人先輩の記憶が元に戻す方法を探す方向に決まった。もちろん、それまでの間も直人先輩がなるべく笑顔でいられるように。


「でも、直人の記憶を取り戻せるかどうか自信ないな。だって、あたしと直人は3年間も会っていなかったし……」

「長谷部先生は普段の生活を送ることで、直人の記憶が戻るきっかけが生まれるかもしれないって言っていたわよね」

「じゃあ、退院したらこれまで通りに宮原さんと一緒に暮らすべきね」


 可愛らしい笑顔でそう言われたのでドキッとする。


「えっ、そ、それでいいんですか……?」


 もう、直人先輩は広瀬先輩の恋人。

 それなのに、今までと変わらずに直人先輩と一緒に暮らしてしまっていいのだろうか。例え、記憶を取り戻すという理由があっても。


「あたしのことは気にしないでいいんだよ、宮原さん。みんなで直人の記憶を取り戻すんだから。そこに恋人であるかどうかなんて関係ないわ」

「……私が一緒だと、その……分かりませんよ。どうなるか……」


 直人先輩のことを抱きしめたり、口づけをしたりしてしまうかもしれない。だって、今でも直人先輩のことが大好きなんだもん。


「……それも承知の上よ。まあ、嫌じゃないって言ったら嘘になるけれどね。でも、口づけをすることで記憶が戻るかもしれないし。そこら辺は……感情の赴くままでいいんじゃないかしら。もちろん、直人の気持ちを第一に考えての話だけれど」

「そう……ですか。分かりました」


 もちろん、直人先輩の気持ちを尊重したい。けれど、そんな理性で欲情を抑えられる自信はない。

 元々、直人先輩が退院したら、あの寮から実家に戻るつもりだった。記憶を取り戻すという理由があっても、直人先輩と一緒に住めることは嬉しい。けれど、同時に罪悪感を抱いてしまう。広瀬先輩本人からの提案であっても。


「とりあえず、日中は私が直人の面倒を見るよ」

「お願いするわ、吉岡さん」

「もちろんだよ。あとは……放課後だよね。ここ1ヶ月半くらいは女バスのサポートをしてもらっているんだ。だから、直人さえいいって言えば、女バスの方に来てもらおうかなと思っているんだけれど」


 直人先輩と広瀬先輩の恋人になったんだ。放課後には2人で一緒に過ごしたいよね。それを考えると、これまで通り女バスのサポートを頼まない方がいいかも。


「全ては直人の気持ち次第だけれど、直人さえ良ければこれまでと同じように女バスのサポートをしてもらう方向でいいわ。直人に会いたい気持ちもあるけれど、こっちもインターハイに向けての練習があるからね。まあ、時々はあたしが月原の方に様子を見に行こうと思っているから」

「そっか、分かった。ありがとう」


 これからの予定を立てることや、意思確認の取り方はさすがに上手だなぁ。きっとバスケで培った賜物だろう。

 あくまでも、これまでと変わらない生活をしていくことを基本にするみたい。私も直人先輩が記憶を取り戻せるように頑張らないと。


「じゃあ、病室に戻りましょうか。さっきのこと、直人に謝りたいし」

「そうですね」


 私達3人は直人先輩の病室に戻る。

 広瀬先輩が酷い言葉を言ってしまったことを謝ると、直人先輩は広瀬先輩が元気を取り戻していて良かったと穏やかな笑みを浮かべていた。そんな直人先輩の表情を見て、広瀬先輩も嬉しそうに笑っていた。それは初めて2人が付き合っているように見えた瞬間なのであった。

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