第6話『Hug』

 6月24日、月曜日。

 直人先輩のいない夜は本当に寂しかったけれど、渚先輩がずっと側にいてくれたから、何とか眠ることができた。

 渚先輩が家に泊まったので、今日は早めに起きて、登校する前に渚先輩の家にお邪魔をした。

 渚先輩から事情を聞いていた美穂さんが、しばらくの間はここに住むかと提案してくださったけれど、丁重にお断りした。直人先輩が退院して、あの家で先輩が帰ってくるのを待つことを決めたから。

 私と渚先輩は学校に向かって歩き始めた。


「彩花ちゃん、決めたんだね。あそこで直人の帰りを待つって」

「はい。退院したときに誰も待っている人がいなかったら、それはとても寂しいことだと思って。それで、少ししたら実家から通おうと思います。普通に通える距離なので」

「そっか。彩花ちゃんが決めたことなら、私は賛成だよ」

「渚先輩がそう言ってくれると心強いです」


 広瀬先輩という恋人がいるのに、私が一緒に住んでいたら彼女に申し訳ない。浅沼の件のような理由があればまた別なんだろうけれど。


「それに、学校で会おうと思えば会えますしね。もしかしたら、引き続き、女バスのお手伝いをするかもしれませんし」

「そうだね。直人が広瀬さんの恋人になっても、直人と二度と会えなくなるわけじゃない。そう思っていかないとね」


 渚先輩の放つ言葉こそポジティブなものだったけれど、その儚げな笑みには「そう思わないとやっていけない」というネガティブな心情が隠れているように思えた。


「……直人先輩が目覚めたら何をしますか?」

「一緒にさ、卵を使ったお菓子を作ろうよ。直人、凄く好きじゃん」

「……それ、いいですね」


 広瀬先輩の恋人になったんだから、直人先輩から少しずつ距離を置いていかなくちゃいけないのに。直人先輩が意識を失っている今が一番、そのチャンスなのに。渚先輩との話題で一番盛り上がるのは直人先輩のこと。

 直人先輩への想いが今もなお膨らんでいく。好きだという想いが消えるどころか増していっている。だからこそ、直人先輩のいない家に戻ってきたときの喪失感は辛かった。れはきっと渚先輩も同じだろう。


「気付けば、直人のことばっかり話してるね」

「そうですね」

「……昨日の今日で直人のことが好きな気持ちがなくなるわけじゃないから。ただ、直人が意識を取り戻すまでは、きっと今のような気持ちのままなんだろうなぁ」

「私も同じことを思いました」


 気持ちにけじめをつけることができるのは、直人先輩と広瀬先輩が一緒にいて幸せそうにしている姿を見たときだと思う。それはあくまでも私の場合だけれど。


「直人が目を覚ましたときに、少しでも笑顔でいられるようにさ、今日からまた頑張っていこう。それに、今年はインターハイが待っているしね。彩花ちゃんにもこれからも手伝ってもらっていいかな?」

「もちろんです! インターハイ優勝を目指して頑張りましょう!」

「そうだね。できれば、インターハイで金崎高校にリベンジしたいな」

「もし、そうなったときには絶対に勝ちましょうね!」

「うん。そのためにも今日からまた頑張ろう」


 渚先輩はいつも通りの爽やかな笑みを見せてくれた。そんな先輩を見て、私も心が軽くなった。目標があるっていうのはやっぱりいい。気持ちが自然に前へと向かせてくれる。

 直人先輩の意識が戻るのを待ちつつ、私と渚先輩はまたいつもの学校生活を送っていこう。今日から再び、放課後には女バスのサポートをしていく日々が始まる。

 学校に到着すると、昇降口で渚先輩とは別れて、1年2組の教室に向かうと香奈ちゃんと真由ちゃんが私のことを出迎えてくれた。


「おはよう、彩花ちゃん」

「おはようございます、彩花ちゃん」

「おはよう、香奈ちゃん、真由ちゃん」


 友達の笑顔を見ると、いつもの日常なんだという安心感がある。それに、ここには元から直人先輩がいないから。


「彩花、意外と元気そうで良かった」

「私には浅沼のとき以上に心に傷を負っているように見えてしまったので。彩花ちゃんが今日、元気に学校に来ることができるのか心配だったんです。でも、良かったです」

「みんな、藍沢先輩が倒れたことを知って、藍沢先輩のことで彩花ちゃんががっかりしているんじゃないかって心配していたんだよ」

「そうだったんだ……」


 私の心配をしてくれるのは有り難いけれど、もうちょっとみんな直人先輩の心配もしてあげてほしいな。


「……まあ、藍沢先輩がこのまま広瀬先輩の恋人になったらさ、あたしが彩花ちゃんのことを嫁にもらってあげるよ」


 無垢な笑みを見せる香奈ちゃんからの素敵な冗談が飛び出す。冗談だとは分かっているけれど、ちょっとキュンとなって、温かい気持ちになる。


「……じゃあ、そのときにはお願いしちゃおうかな?」


 そう言って、香奈ちゃんの頬にキスをした。

 すると、香奈ちゃんは顔を赤く染めてまんざらでもない様子。私がこんなことをするとは思わなかったのかな。


「ええと、彩花ちゃんを元気づけるために言ったんだけれど、彩花ちゃんが本気でそう思っているなら、あたしはそれでもいいからっ!」

「もう、冗談だよ。まあ、香奈ちゃんが大好きなのは本当なんだけれどね。もちろん、真由ちゃんも」

「そうですか。私も彩花ちゃんと真由ちゃんのことは大好きですよ」


 真由ちゃんは優しい笑みを浮かべる。


「ですから、彩花ちゃん。今後、藍沢先輩のことで辛いことがあったら、香奈ちゃんや私に遠慮なく相談してくださいね」

「うん、ありがとう」


 私は香奈ちゃんと真由ちゃんのことをそっと抱きしめた。私も2人に抱きしめられる。2人の温かさが直人先輩のいない悲しみを和らげてくれた。

 私の心に寂しさが居座っていることを分かっているからなのか、今日は2人が直人先輩の代わりになろうと、いつも以上に一緒にいてくれた。時々、抱きしめてくれた。そのおかげか、今日1日は意外とあっという間に過ぎていった。

 また、直人先輩に何かあったときには、美月ちゃんが私と渚先輩に連絡をくれることになっているけれど、今のところ何も連絡はない。直人先輩の意識が戻らない状態が続いているということなのかな。



 放課後になり、私は香奈ちゃんや真由ちゃんと一緒に体育館へと向かう。真由ちゃんは昨日の決勝戦を見て感動したらしく、今日からインターハイまでの間、女バスのサポートをすることを決めたそう。直人先輩のいない分を少しでも埋めることができればとも言っていた。


「いやぁ、真由ちゃんもサポートしてくれるなんて心強いよ」


 香奈ちゃんはとても嬉しそうだった。


「一ノ瀬さんも手伝ってくれることになって嬉しいよ」

「藍沢先輩の代わりが少しでも務まればと思いまして」

「そっか。1人でも多くサポートをしてくれる人がいるのは有り難いことだよ。今日からよろしくね、一ノ瀬さん」

「はい、よろしくお願いします」


 渚先輩も真由ちゃんのことを歓迎していた。

 インターハイに向けて今日の練習が始まろうとしていたときだった。


 ――プルルッ。

「あっ、電話が来ました」


 スマートフォンを確認すると、発信者は『美月ちゃん』となっていた。

「美月ちゃんからです!」

 私がそう言うと、渚先輩達は真剣な表情をして私のところに駆け寄ってくる。

 スピーカーホンにして美月ちゃんからの電話に出る。


『大変なんです!』


 電話に出るや否や、美月ちゃんの声が轟いた。そんな声に乗って発せられた今の言葉が向こうの状況を物語っていた。


「美月ちゃん、直人先輩に何かあったの?」

『さっき、お兄ちゃんの意識が戻ったんです。でも、大変なんです!』


 直人先輩の様子を詳しく訊きたいところだけれど、美月ちゃんがかなり焦っているようだし、病院に行けば自ずと分かることだ。


「分かった、美月ちゃん。電話ありがとう。とにかく、今すぐにそっちに向かうから」

『お願いします!』


 そう言って、美月ちゃんの方から通話を切った。


「渚先輩、今から一緒に病院へ行きましょう!」

「そうだね、彩花ちゃん。香奈ちゃんと一ノ瀬さん、他の部員や先生にこのことを話してくれないかな。私は今日の部活を休むよ」

「分かりました。すぐに藍沢先輩のところへ行ってあげてください!」

「彩花ちゃんの分まで私が女バスのサポートを頑張りますので! 今は藍沢先輩のことだけを気にかけてください!」

「2人とも、ありがとう。直人のことは後で2人に連絡するから! じゃあ、彩花ちゃん、一緒に行こう!」

「はい!」


 その後、制服に着替えた渚先輩と一緒に第1体育館を飛び出し、急いで直人先輩の入院する病院へと向かう。

 直人先輩の意識が戻ったのに、美月ちゃんからは嬉しさが全然感じられなかった。美月ちゃんにとって予想外のことが起こったに違いない。


 直人先輩。いったい、あなたに何があったんですか。


 病院に到着し、直人先輩の病室に近づく度に、不安な気持ちがどんどん大きくなっていくのであった。

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