第7話『ニアゼロ-前編-』
直人先輩の病室に行くと、そこには先輩のご家族と長谷部先生がいた。病床には体を起こした状態の直人先輩がいて、先輩はぼうっとしていた。
「彩花さん、渚さん……」
「美月ちゃん、電話をありがとう」
「いえ。連絡をすることになっていましたし。咲さんにも連絡して、30分ぐらいでここに到着するみたいです」
「そっか。分かった。それで、直人先輩は……」
すると、みんな黙り込んでしまった。さっきの美月ちゃんの焦りようといい、直人先輩が意識を取り戻したのに、どうしてここまで重い空気なんだろう。
「宮原さん、吉岡さん。藍沢さんに声をかけてあげてください」
長谷部先生によって沈黙が破られるけど、彼の言葉も今のこの状況がいいものではないと匂わせる。
でも、直人先輩と話したい気持ちでいっぱいなので、私と渚先輩は直人先輩の側に立つ。
「直人先輩、体調はいかがですか?」
「気分はどう? 直人」
私達が直人先輩にそう言葉をかけると、先輩はこちらを見て、
「ありがとう……ございます」
小さな声でお礼を言った。
何だろう、この違和感。敬語でお礼を言われたからかな。でも、それだけなのに直人先輩が直人先輩じゃないように聞こえる。どうして?
「あの……」
「ん? どうかした? 直人」
渚先輩が落ち着いた声でそう言うと、直人先輩はちょっと困った表情をして、
「さっきから、みなさん……僕のことを直人って呼ぶんですよね」
その一言に私は何も返答できない。
そして、今になってようやく分かった。どうして、直人先輩が意識を取り戻したのに、さっきの電話で美月ちゃんがとても焦っていたのか。この病室に入ってからずっと、暗い雰囲気に包まれているのか。
「藍沢さんは記憶を失っているんです」
長谷部先生ははっきりとそう言った。やっぱり……記憶喪失なんだ。
「藍沢さんは今までの記憶を無くされています。ご家族、ご友人……自分自身のことさえも覚えていないようです」
「そ、そんな……」
渚先輩の目からは一筋の涙。
意識を取り戻したと思ったら、次は記憶がなくなっていたなんて。どうして、直人先輩は次々と奪われてしまうのか。
「彩花ちゃんや渚ちゃんなら、もしかしたら覚えているかもしれないと思ったんだが、2人のことも直人の記憶から消えちまっているみたいだな……」
「浩一さん達のことも何も?」
「……ああ。俺達の顔も名前も一切覚えていなかった。初対面の人間のように、深くお辞儀をして敬語で挨拶されたよ。本当に初対面の人間なら俺も普通に挨拶するんだが、相手は息子だからな。どう返事をすればいいのか分からなくなっちまって、言葉を失ったよ……」
浩一さんはそう言ってもあまり表情を変えなかったけれど、きっと心の中ではかなり悔しい気持ちがあると思う。
記憶喪失の影響で私達に対しても敬語を使っているんだ。それに、自分のことを「俺」ではなくて「僕」と言う。直人先輩じゃないと感じたのも無理はないんだ。だって、直人先輩自身が直人先輩だとは思っていないんだから。
「先ほど、藍沢さんとお話ししてみて分かったことですが、高校生としての知識はしっかりと残っているようでした。しかし、ご自身のことも含め、人に関する記憶だけがごっそりと抜け落ちているみたいですね」
長谷部先生が事実を淡々と述べる。
人に関する記憶だけが直人先輩から抜け落ちてしまった。それはきっと、直人先輩が私達のことで悩んでいたからに違いない。そんな中で体調を崩して、階段から転げ落ちたから記憶が抜けちゃったんだと思う。
「私のせいだ……」
下唇を強く噛む。痛いけれど、悔しさが溜まっているからなのか、痛みに反してさらに強く噛む。
「先生。直人の記憶が戻ることはあるんですか?」
渚先輩が涙ながらに問いかけるけど、長谷部先生は難しそうな表情をしている。
「意識を取り戻すことと一緒ですね。5分後に戻るかもしれないですし、明日かも戻るかもしれません。一生戻らないことも考えられます」
「そんな……」
「ですが、僅か1日で藍沢さんは意識を取り戻しました。同じように、記憶もすぐに戻ると信じましょう」
確かに、先生の言うとおりだ。直人先輩は僅か1日で意識を取り戻した。だから、記憶も取り戻すことができる。そう信じるのが一番かもしれない。
「それに、記憶を取り戻す方が可能性は高いと私は考えています」
「どうして、ですか?」
「周りの人や環境によって、彼に記憶を取り戻すきっかけを与えられるかもしれないからです。例えば、藍沢さんに記憶を失う以前の普段通りの生活を送ることで、徐々に記憶が蘇ってくるケースもあるんです」
「では、記憶を取り戻す兆しが分かるということですか」
「そういうことです。あとはリラックスした状態になったとき、ふと全ての記憶を思い出すケースもあります」
「そうですか」
浩一さんはちょっと安心しているようだった。
意識を取り戻すことよりも可能性は高い。確かにそれはほっとする。けれど、意識を失っているときよりも今の方がショックは大きい。目の前に直人先輩はいるのに、直人先輩が遥か遠くに去ってしまったような感じがしたから。
「藍沢さんの場合、17歳としての知識はしっかりとあります。なので、体調さえ良くなれば以前と同じ生活ができるようになりますよ」
「では、直人は退院次第、高校生活を送ることができるんですね?」
「そういうことです」
「……良かったです」
ひかりさんはやんわりとした笑みを浮かべていた。
直人先輩の御両親はどうして、記憶を失ってしまったのに笑みを浮かべることができるんだろう。今の私には到底、2人のような反応はできない。
「直人先輩、本当に何も覚えていないんですか? ささいなことでもいいんです」
何か覚えていれば、それが記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないから。
直人先輩は少しの間、無表情のままで口を開かなかった。
「……ごめんなさい。何も覚えていません」
「そうですか……」
「……強いて言えば」
その言葉を聞いた瞬間、爆発的に期待が膨らんだ。
「……部屋に入ってきたときよりも、お2人が悲しそうにされていると思いました。それはきっと僕のせいですよね。本当に……ごめんなさい」
直人先輩は私達のことを見て消えゆく声で謝った。
謝りたいのは私の方なのに、今の陳謝で悲しさや悔しさがさらに増していく。記憶を失ったのに、私は今でも苦しめてしまうのか。
「ごめん、直人……」
「……どうして、あなたが僕に謝るのですか? 悲しい気持ちにさせているのは……僕なんですから」
初めて……直人先輩は笑みを見せた。それは口角を僅かに上げるだけのささやかなものだったけれど。
記憶を失っても、周りの人のことを考えようとする優しい性格はそのままなんだ。でも、今くらいはわがままを言ってほしい。何でも叶えさせますから。
「やっぱり、お二人は凄いですね。私達の前ではお兄ちゃんは全く笑わなかったんですよ。本当に……凄いです」
美月ちゃんの笑顔も……昨日からでは初めて見せてくれる。どんな経緯であれ、直人先輩の笑みを見ることができたことがとても嬉しいんだと思う。
「でも、本当に何も覚えていないのかな……」
「……まだ、可能性残っていると思います。渚先輩」
「えっ?」
「広瀬先輩です。彼女を見たら何かを思い出すかもしれません」
恋人になった広瀬先輩の姿を見れば、直人先輩の記憶がほんの少しでも蘇るかもしれない。そうなったらちょっと悔しいけれど、記憶が全くないよりはよっぽどいい。
さっき、美月ちゃんが言っていた通り、30分ほどで到着するんだったらそろそろ来てもいい頃。広瀬先輩、早く来ないかな。
「美月ちゃん! 直人に何があったの?」
そんなことを考えていると、広瀬先輩が病室に入ってきた。走ってきたのか、彼女は息苦しそうにしていて、肩を揺らしていた。ベッドに座っている直人先輩と顔を合わせる。
恋人の広瀬先輩の顔を見て、何かを思い出してほしい。互いの顔を見つめ合う2人の傍らで、私はただそう願うのであった。
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