第1話『悔し涙』

 私達を乗せた救急車は月原総合病院に到着した。

 到着して救急車の扉が開くと、直人先輩は入り口で待機していた病院の看護師さん達によって、ストレッチャーに移され、病院の中に運ばれていく。

 私と広瀬先輩はその後を追いかけていくものの、処置室の前で看護師さん達に待つように言われてしまった。そんな私達にできることは何もなく、すぐ側にあるベンチに腰をかけた。


「直人……」


 救急車に乗ったときからずっと、広瀬先輩は時折、直人先輩の名前を口にしてはため息をついている。目の前で直人先輩が階段から落ちてきたことがよほどショックだったのだと思う。


「広瀬先輩、直人先輩のことはお医者さんに任せているので、ひとまずは大丈夫だと思いますよ。救急隊員の方々も、命に別状はないだろうと言っていたじゃないですか」

「……そうだよね。ごめんね、ため息ばっかり付いちゃって」


 広瀬先輩は申し訳なさそうにして、精一杯の笑顔を作っていた。それだけショックを受けてしまうほど、広瀬先輩は直人先輩のことが好きなんだ。直人先輩の彼女として先輩のことを考えている証拠なんだと思う。


「そうだ、渚先輩に連絡しないと」


 後から来るとは言っていたけど、病院の名前を伝えないとここに来れないもんね。


「……じゃあ、あたしは楓に電話をかけるわね」


 私はスマートフォンを取り出して渚先輩に電話をかける。


「渚先輩、彩花です。先ほど、月原総合病院に到着して、直人先輩はお医者さんの処置を受けているところです。今は1階にある処置室の前に広瀬先輩といます」

『そっか、分かった。今のところ、直人の容体はどう?』

「救急車の中で特に体調が急変したということもありませんでしたし、救急隊員の方達も命に別状はないだろうとは言っていました」


 ありのままのことを伝えると、渚先輩のほっとした声が聞こえてくる。


『……良かった。じゃあ、ひとまずは安心していいってことかな。今から香奈ちゃんと一ノ瀬さん、北川さんを連れてそっちに向かうから。月原総合病院だね』

「そうです。では、処置室の前で待っています。何かあったらまた連絡しますね」

『うん、分かった。連絡ありがとうね、彩花ちゃん。じゃあ、また後で』

「はい」


 これで、今、私達のすべきことは終わったかな。あとはここで直人先輩の処置と、渚先輩達が来るのを待とう。


「楓にも連絡をしておいたよ。直人のご家族には楓の方から連絡をするって」

「分かりました。ありがとうございます」


 洲崎町から月原市までは特急電車で2時間はかかる距離。だから、直人先輩のご家族が来るのは夜になりそうかな。


「……あたしのせいだ」


 また、広瀬先輩は自分のことを責めている。


「直人を悩ませないようにしたいと思って、決勝ラウンドに直人を賭けた。でも、そんなことをしちゃいけなかったんだ。彼は彼なりに考えていたのに、あたしがそれを否定するようなことをしたから……」


 広瀬先輩は頭を抱えている。もっと、直人先輩のことを考えられれば……と思っているのかな。


「……広瀬先輩のせいではありませんよ。ここ数日、直人先輩は渚先輩の看病で一生懸命になっていて、寝不足気味だったので。きっと、そのことによる疲れが溜まったから倒れてしまったんだと思います。あとは、熱心に試合を観ていたので、それが終わった直後に倒れたのでしょう」


 広瀬先輩が悪いというわけではない。

 直人先輩は疲れた様子をあまり見せなかった。たぶん、私達に心配をかけさせないためだと思う。私達のことで悩んでいるはずなのに、目の前のことに一生懸命になっていた。本当に直人先輩は強くて、弱い人だ。


「それに、あの試合が終わったとき、直人先輩……何だかほっとしているように見えたんですよ」

「ほっとしていた?」

「……ええ。その理由は分かりません。もしかしたら、広瀬先輩が彼女になると決まって悩む必要がなくなったと思っているのかも」


 ゴールデンウィークに洲崎町で2年前の事件の真実を暴いてから、直人先輩は誰と付き合うかということで悩んでいるようだ。柴崎さんの死がトラウマになり、決断することで誰かが傷付いてしまうことに恐れているから。そんな先輩にとって、強引ではあるものの広瀬先輩の提案はいいと思っていたのかもしれない。


「それでも、あたしのしたことは間違っているよ。あのときは直人のためにこれが一番いいって思っていたけど。恋愛のことをスポーツの試合結果で無理矢理決めるなんて、いけないことだったんだよ」


 広瀬先輩の声が震えていた。


「……それでも、約束は約束ですから。広瀬先輩の提案に乗った結果、広瀬先輩が直人先輩の恋人になった。そのことに何も言うつもりはありませんよ」

「宮原さん……」

「広瀬先輩が直人先輩の恋人なのは揺るぎない事実なんです。直人先輩は本気で広瀬先輩を幸せにするそうでしたから」

「そうだったんだ……」


 広瀬先輩の頬がほんのりと赤くなる。直人先輩に罪悪感を抱いても、先輩のことを好きな気持ちは全く変わっていないみたい。直人先輩の恋人になった広瀬先輩のことが羨ましいし、悔しい。


「広瀬先輩は直人先輩のことでここまで悩んだり、泣いたりすることができるんです。直人先輩のことを幸せにできると思います。先輩のことを宜よろしくお願いします」


 直人先輩が元気になったら、もう、あの家にはいられないな。直人先輩には広瀬先輩という素敵な恋人ができたのだから。


「あれ……」


 いつの間に、涙を流していたんだろう。でも、そのことに気がついた瞬間、突然、悲しい気持ちや悔しい気持ちが湧き出てくる。


「うっ、ううっ……」


 こんなところで泣いちゃいけないのに。涙が止まらない。

 すると、私は広瀬先輩に優しく抱きしめられる。


「……直人のことは絶対に幸せにするから」


 その言葉は広瀬先輩の恋人としての決意のように聞こえた。

 直人先輩の恋人になるために広瀬先輩は間違ったことをしたかもしれない。

 けれど、こんなにも直人先輩のことが好きで、こんなにも強い気持ちを示されたら、私はそんな広瀬先輩のことを応援しないと。それは分かっているのに、涙が止まりそうな気配が全くなくて。


「直人先輩……」


 それでも、私は直人先輩のことが好きなんだ。誰かの恋人になっても、好きな気持ちを無くすことができなくて、この現実をなかなか受け入れられないんだ。


 ――直人先輩が好きな気持ちは渚先輩や私だって同じなのに。

 ――広瀬先輩と私達って何が違ったんだろう。


 様々な想いが頭の中を駆け巡った。

 渚先輩達が来るまでの間、私は広瀬先輩の胸の中で泣いた。そんな私のことを、広瀬先輩は何も言わずに抱きしめ続けてくれていたのであった。

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