第4章

プロローグ『緊急搬送』

第4章




 鈍い音を響かせながら、直人先輩が階段の下へと倒れていった。

 私も渚先輩も気付いたときにはもう、手の届かなそうなところにいて。それでも頑張って手を伸ばしてみたけれど、やっぱり届くことはなかった。

 階段の下には広瀬先輩がおり、直人先輩のことを受け止めようとしたけれど、上手くできずに直人先輩の下敷きになってしまう。


『きゃああっ!』


 上からも下からも主に女性の叫び声が聞こえ、周囲はざわつき始める。

 私と渚先輩はすぐさまに階段を駆け下り、直人先輩と広瀬先輩が倒れているところまで向かう。


「直人先輩! 広瀬先輩!」

「しっかりして!」


 私達の声に反応したように、広瀬先輩が目を覚ます。すると、彼女の側にいた北川さんが彼女のことを抱きしめる。


「良かった……」

「……ごめん、楓。とっさに直人のことを受け止めようとしたんだけれど、やっぱりダメだった」

「藍沢君のことを助けたい気持ちは分かるけれど、無茶なことはしないでよ……」


 そう言う北川さんの目には涙が浮かんでいた。


「私、救急車を呼ぶから、彩花ちゃん達は直人のことを見てて!」


 そう言って、渚先輩は制服のポケットからスマートフォンを取り出し、119番通報をしてくれる。


「とりあえず、私は洲崎の方に連絡するわ。まずは美月ちゃんと美緒に連絡すればいいかしら……」


 北川さんもスマートフォンを取り出して、洲崎町関連の人に電話をかけている。


「直人先輩、目を覚ましてください……」


 意識を失っている直人先輩の顔は赤くて、額を触るととても熱かった。

 そういえば、さっきも観客席を立つときにふらついていた。もしかして、今日はずっと体調が悪い中で試合観戦をしていたのかな。

「直人先輩……」

 どうして、そこまで無理をしてまでみんなに優しくしてくれるんですか。具合が悪いなら無理をせずに家で休んでいてほしいのに。


「……あたしのせいだ」


 広瀬先輩は直人先輩の顔を見ながらそう呟いた。彼女の目からは涙が溢れ出し、その涙は直人先輩の顔に落ちてゆく。

 広瀬先輩のせいじゃない。私のせいだ。直人先輩の側にいたのに、試合のことばかりに気を取られて直人先輩の異変に気付くことができなかった。私が気付けていれば、こんな状況になるまで直人先輩が辛い想いをしなかったはず。


「直人。どんな状態でもいいから、目を覚まして。お願い……」


 広瀬先輩の切実な願いが私の心に突き刺さってくる。もしかしたら、私が広瀬先輩の心を痛み付けているんじゃないかって。


「救急車を呼んだよ。すぐにこっちに駆けつけてくれるって」

「洲崎の方にも連絡したわ。美月ちゃんに連絡して、藍沢君の家族が車で急いでこっちに来るそうよ。あとは美緒に連絡して、笠間君達には彼女が連絡をしてくれるみたい」

「それで、直人の方はどうかな。彩花ちゃん、広瀬さん」

「……意識が戻る気配がありません。ただ、体が物凄く熱くて……」


 もしかして、熱中症だったりしたら、このままだと直人先輩が死んじゃうかもしれない。どうしよう、そうなったら。……どうしよう!


「2人とも落ち着いて。不安だったり、焦ったりする気持ちも分かるけれど、咲も宮原さんも落ち着くの」

「直人は今も苦しんでるんだよ! そんな人を前にして落ち着けるわけがないじゃん!」

「……ごめん」


 広瀬先輩の悲痛な叫びに、北川さんもさすがにその一言しか言えなかったようだ。北川さんだって広瀬先輩の気持ちは痛いほどに分かっているはず。

 そんな中、いつの間にか階段の上に行っていた渚先輩が、タオルとうちわを持って私達のところに降りてきた。直人の額に手を当てる。


「かなり熱いわね。熱中症かもしれないから、直人の体から余計な熱を逃がさないと。彩花ちゃん、シャツの袖やズボンの裾を捲って、うちわで仰いで」

「は、はい! 分かりました!」


 私は渚先輩の指示通り、シャツの袖とズボンの裾をめくり、渚先輩から渡されたうちわで仰ぐ。


「直人先輩、頑張ってください……」


 とにかく、私にできることはこうして直人先輩から余計な熱を取ることと、声をかけることだけ。それでも、直人先輩のためにしっかりやらないと。


「広瀬さん、ちょっと直人をいいかな」

「え、ええ……」


 渚先輩は直人先輩の頭を広瀬先輩から自分の膝の上まで動かして、湿らせたタオルを直人先輩の首筋に当てた。


「すぐに温かくなっちゃうわね。やっぱり、常温に近くなっている水で湿らせてもダメなのかな……」

「私、救護室行ってくるわ! 氷水を貰ってくる!」

「うん! お願い! あっちの方にあるから!」


 北川さんはそう言うと、広瀬先輩が指さした方向へと走っていく。


「私達に何かできることはありませんか?」

「このまま何もしないのは嫌だよ!」


 真由ちゃんと香奈ちゃんは、直人先輩のために自分達に何かできることはないのか考えてくれている。その気持ちはとても嬉しいけれど、今の状況で2人にできることって何かあるのかな。


「じゃあ、2人は入り口のところで救急車が来るのを待ってて。それで、救急車が来たら救急隊員の方達をここまで連れてきてくれる? もうすぐ来るはずだから」

『分かりました!』


 真由ちゃんと香奈ちゃんは渚先輩の指示で入り口の方に走って向かった。確かに私達のことを見ているだけの人が多いから、救急隊員の人達の案内役は必要だと思う。


「凄いですね、渚先輩は。こういうときでも落ち着いて対処ができるなんて。どうすればいいのか、他の人に指示までできるなんて」

「前にもバスケの練習中に倒れた子がいて、そのときの先生の対応を覚えていただけだよ。私は特別に凄いことなんて全然してない」


 渚先輩は私や広瀬先輩を元気づけるために笑顔を見せてくれるけれど、その笑みの中には悔しさが混じっていることはすぐに分かった。凄い事なんて全然してないという言葉がそこに表れているんだと思う。


「それにさ、直人は私のことを看病してくれたからね。そのお礼をまずはここで返したいんだよ。きっと、直人も私が倒れたときに一生懸命してくれたと思ってね」


 そう言うと、渚先輩の顔から徐々に悔しさのようなものが消えていくのが分かる。渚先輩ってやっぱり優しくて、強い人だな。私もこういうところを見習っていかないと。

 その後も私はうちわで仰ぎ、渚先輩は湿らせたタオルを体に当て、広瀬先輩は直人先輩に声をかけることを続ける。


「氷水を貰ってきたわ。救護室の人も連れてきたわよ!」


 北川さんと救護室のスタッフの方が来たと同時くらいに、


「救急隊の方が通ります!」

「みなさん、壁の方に寄ってください! お願いします!」


 会場の外の方から、真由ちゃんと香奈ちゃんの声が響き渡っていた。

 担架を持った救急隊員の方が2人やってきて、直人先輩は担架に乗せられて救急車に運ばれてゆく。

「どなたか2名、救急車に乗って病院まで同行願います」

 2人までか。こういうときは誰が同乗すべきなのかな。


「恋人である咲と、一緒に住んでいる宮原さんが一緒に行って。私達は後からそっちに向かうから、あとで病院の名前を教えて」


 すぐさまに北川さんが冷静な口調でそう言った。その意見に渚先輩も、真由ちゃんや香奈ちゃんも賛成しているようだった。

 一刻を争う事態。だから、ここで悩んでいては……ダメ。


「広瀬先輩、一緒に行きましょう」

「う、うん……」


 必死に涙を拭い取り、目元が赤くなっている広瀬先輩の手を引いて、私は彼女と一緒に救急車に乗る。

「お願いします」

 私達の乗った救急車はサイレンを鳴らして試合会場を後にする。


「直人先輩、頑張ってください」


 直人先輩、絶対に死なないでください。広瀬先輩の言うとおり、どんな状態でもいいから、目を覚ましてください。他の方の恋人であっても、先輩がいなくなってしまうのは絶対に嫌なんです。

 どんなことを願っても、直人先輩からの反応は息苦しそうな呼吸だけなのであった。

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