第10話『裏切り』
強い雨音が聞こえてくる。この音の中に、咲が流した涙の音も混じっているのだろうか。
自分の応援をしてくれたはずの紅林さんが、自分自身の最終演説と称して俺に告白をし、自分の目の前でキスをした。それを一言で言えば――。
「裏切ったの? あたしのことを……」
声を震わせながら、咲は紅林さんに向かって言う。
そんな咲の言葉に対して、紅林さんは咲に申し訳なさそうにするどころか、彼女のことを嘲笑ったような態度を取る。
「簡単に言えばそうなるねぇ。咲、覚えておいた方がいいよ。恋ってそんなに綺麗なことじゃないって。3年間も直人君の話をされれば、私だって彼のことが気になって当然なの」
「……だけど、杏子はあたしを応援するって言ってくれた。あれも嘘だったの? そんなの、信じたくないよ」
自分にとってとても悲しい現実を目にしても、咲は紅林さんのことを信じようとしているんだ。応援すると言ってくれたときの彼女の心は優しいものだったと。
「咲を応援する気持ち? そんなの抱いたことすらない」
紅林さんは咲の気持ちを一蹴する。
「最初こそは一途だなって思ったわよ。でもね、そんな話をされ続けると普通にウザいだけっていうか。直人君の話を聞いている時間が無駄だと思うくらい」
「……嫌な想いさせちゃったんだね。ごめんね、杏子」
咲が涙を流しながら謝るけど、紅林さんは聞く耳を持たないという感じだ。
「過ぎた時間は決して戻らない。咲に嫌な想いをさせたくてたまらなかった。それで真っ先に思いついたのが、咲の好きな人である直人君を先に取っちゃうこと。実際に会って話してみたら、とても魅力的で咲が好きになるのも分かった。私も彼のことが好きになった。好きな人に告白して何が悪いの?」
好きな人に自分の想いを告白する。それは何も悪くないことだ。
でも、紅林さんは告白の裏に咲を傷つけるという思惑がある。だから、彩花、渚、そして咲からの告白に比べて、紅林さんの告白は全然心に響かなかった。
紅林さんは再び俺のことを見つめる。
「直人君、私と付き合って。付き合ってくれないと、私、死んじゃうかもしれない」
その言葉にドクッ、と嫌な鼓動が体中に響き渡る。妙な寒気を感じ始め体が震えてくる。
「そうだよね。2年前に、自分のことが好きな女の子を振ったら、その直後にその子が死んじゃったんだよね。怖いよね。自分のせいでその子が死んだのかもしれないし」
「それは違う! 彼女は本当に事故で亡くなって、亡くなる直前に助けようと頑張った友達に、直人を諦められないって言っていたの! まるで、直人が振ったせいで彼女が亡くなったように言わないで!」
「……だったら、どうして直人君の顔色が悪くなったのかな。それって、自分のせいで彼女が亡くなったと認めているようなものでしょ?」
紅林さんの言葉は俺の心を容赦なく抉ってくる。そのせいで冷や汗を掻き、段々と息苦しくなってくる。
「もう二度と同じ想いはしたくないでしょ。私はあなたなしでは生きていけないくらいに好き。愛してる。だから、私と付き合うって決断を下して。今日までだよね。咲の設定した決断のリミットは」
俺の気持ちを自分に向けたいがために、紅林さんは俺にキスしてくる。それはとても冷たくて、気持ちがどんどん沈んでいく。
「やめてよ……」
「……嫌な想いを存分に味わいなさい。彼は私の告白に断れない。どう? 自分の恋を応援してくれると思っていた人が、自分の好きな人のことを奪ってゆく様を見て」
「いやっ、いやっ……!」
「藍沢君の恋人でもない癖に、何を言っているんだか。嫌だって言う権利ないでしょ」
ふふっ、と紅林さんは咲のことを嘲笑う。
恋人になってほしいという気持ちを断ることは今でも怖い。そのせいで誰かが傷付いてしまうような気がして。
けれど、今は……俺が紅林さんの恋人になることで、傷付いてしまうことの方が大きい気がするんだ。
そんなことを考えていると、紅林さんはまた俺にキスしてきて、その流れで首筋を舐めてくる。
「いやあああっ!」
咲の叫びを聞いて俺の心は決まった。
「……ならない」
「えっ?」
俺は紅林さんの体を離して、彼女を席に座らせる。
「俺は紅林さんの恋人にはならない」
そう、紅林さんの恋人にはならないことだ。彼女を振ることに対する怖さよりも、咲の心を傷つけた怒りの方が勝ったから。
「私の恋人にならない? 断ったら私がどうなるか……」
「俺の恋人にならなきゃ死ぬって堂々と宣言するような子は、本当にそんなことしないと思うよ。本当に死ぬような人間は、そんなこと言わない」
例えば、そう……唯のように。必死に涙を堪えながら、精一杯に笑って見せたりするような。あの笑みを見たから、俺は2年前の真実を知っても、唯は自分のせいで死んだのかもしれないと思ってしまうんだ。
「それに、紅林さんを付き合うことで傷付く方がよっぽど大きいから。君の思い通りにさせられて、俺のことを一途に想ってくれた人を傷つけたくない」
そんなことを考える紅林さんはとても醜く見えた。俺のことが好きな気持ちが本当だからこそ尚更だ。
「俺みたいな人間が言えるようなことじゃないけど、例え親友の好きな人が自分も好きになったとしても、好きな気持ちを悪いことに使うべきじゃない。好きな気持ちはとても純情で真っ直ぐなものなんだから」
だからこそ、俺のことが好きだという気持ちを、咲を傷つけることに利用することがとても愚かに見えたんだ。
「……今の紅林さんとは付き合う気にはなれない」
俺がそう言っても、紅林さんは俯いているだけで無言のままだった。そして、何も言わずに彼女は教室を後にした。
「……咲、そういうことだから。安心しろ」
咲の嫌がるような流れにはならなかった。
しかし、それでも咲の心には大きな傷が刻み込まれてしまったに違いない。今まで信じていた紅林さんに裏切られたのだから。
咲は無表情で俺に何も言わぬまま立ち去っていく。彼女の後ろ姿からは悲しみ、怒りなどの感情がひしひしと感じたのであった。
俺以外には誰もいない教室には、先ほどよりも強くなった雨音が無情に響き渡っていたのであった。
紅林さんの告白を断る決断はできたものの、彩花、渚、咲の誰を恋人にするのか。それとも、誰とも付き合わないのか。咲の設けたリミットである今日中に決断を下すことはできなかったのであった。
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