第7話『めぐみ』

「ずっと正座なのも辛いだろうから、こっちに来て」


 そう言って、めぐみさんはソファーをポンと叩く。

「分かりました」

 立ち上がろうとするけれど、脚が痺れていてなかなか立ち上がることができない。部活で剣道をやっていたから正座には慣れているはずだったんだけど、2年以上も剣道から離れているとここまで鈍ってしまうものなのか。


「大丈夫?」

「すみません。脚が痺れちゃったみたいで、なかなか力が入らなくて」

「……ほら、手を貸してあげるから」


 ニコニコして手を差し出されると逆に恐いんですけど。しかし、ここで断ってはいけない気がしたので、ご厚意に甘えさせていただこう。

 めぐみさんのおかげで、ようやく彼女の横に座ることができた。


「彩花はこうして、藍沢君の隣に座っているのね」

「ええ。食事以外でリビングにいるときは割とこうして過ごしています」

「そうなのね。男の子とそういう風に過ごすのが自然になるなんて。藍沢君も知っていると思うけれど、彩花は中学のときに浅沼君達に襲われたことをきっかけに、男の人のことを恐がってしまっていたの。最初はお父さんにもね」

「ご家族にも恐がっていた時期があったんですか」


 男性のことを恐がっていたことは知っていたけれど、まさかそこまでだったとは。浅沼達によって傷つけられた彩花の心の傷は相当なものだったんだ。


「同級生のおかげで中学校にも行くようになって、笑顔を見られるようになったけれど、それでも、どこか恐がっているように見えたの」

「その同級生って一ノ瀬さんのことですよね。彼女から聞きました。浅沼達は彩花が高校に入学した頃には自由の身になっていたと。そのことを知っていたから、彩花は恐がっていたのではないでしょうか」

「その通り。共学の月原高校に通うことも反対したけれど、真由ちゃんが一緒だったから月原高校へ受験することを許したの。家族としては寮のある女子校にしたかったんだけど」


 男性を恐がる彩花にとっては、それが一番安全だろう。もし俺が親だったら、めぐみさんと同じことを考える。


「月原高校に進学しても彩花は変わらなかったんだけど、ある日を境に彩花はとても楽しそうな笑顔を見せるようになったの。藍沢君、あなたが彩花を不良達から助けてくれたからよ。あんなに男の人を恐がっていた彩花が、あなたのことをとてもお楽しく話すの。あなたのことが好きだってすぐに分かったわ」

「俺と一緒に住むということについては、すぐに賛成されたんですか?」

「お父さんや茜は難色を示していたけれど、私はすぐに賛成したわ。彩花には守ってくれる男の人がすぐ側にいた方がいいと思って」

「そうでしたか……」


 さすがに彩花のお父さんは同居の件についてすぐに賛成しないよな。これまでの経緯を考えると、彩花を男と一緒に住まわせる気にはなかなかなれないよなぁ。それでも許可したってことは、彩花が俺のことを好きだって何度も伝えていたんだろうな。あとはめぐみさんの後押しもあったのかも。


「ただ、一緒に住んでから、彩花があなたに迷惑をかけてしまったみたいで。本当にごめんなさい」

「浅沼の件を聞いたときに、それは仕方ないと思いました。時々、過激という一言では済ませることができないほど過激なことをしていましたけど、本当は心優しい女の子であると信じていたので」


 だからこそ、彩花が本音で俺と向き合ってくれるまで、ここを離れたんだ。渚の家だったのは、彼女のことを守るためだけれど。


「藍沢君が彩花を浅沼君達から救ってくれた話を、彩花本人や茜から聞いていたけれど……本当に心から救われたのか確かめたくて、今日ここに来たの。浅沼達のことがあってから1ヶ月半くらい経って落ち着いた頃だと思って。でも、今日の彩花を見て安心したわ」

「……ようやく、ありのままの姿を見せてくれるようになってきました。一緒に生活している人間として、それがとても嬉しいです」


 浅沼の件が解決するまでは、彩花の笑顔には冷たさを感じた。本当の笑顔じゃないだろうと疑ってもいた。

 でも、今は違う。今の彼女の笑顔にはとても温かさがあって、そのおかげで心が救われたことが何度もあった。それは彼女の笑顔が心からのものだったからだと思う。


「彩花はとても魅力的な女の子だと思います。でも……」

「渚さんのことや、藍沢君がこれまで体験してきたことは彩花から大まかに聞いているわ。辛いよね」

「……すみません。俺がちゃんと決断できればいい話のことなんですけど、どうしても友人を失ったトラウマでどうしてもできなくて。彩花と渚はとても仲がいいということに甘えてしまう自分がいて。時々、こんな俺と一緒に住んでいて、彩花は苦しい想いをしているんじゃないかと思うことがあるんです」


 本当に苦しいのは俺の決断をひたすら待っている彩花と渚なんじゃないかって。今もまだ決めることができていないけれど、それを考えると咲の決めたリミットまでにどうにか決断しなければいけない気がしてくるんだ。


「本人じゃないとはっきりと分からないけれど、私には彩花が苦しんでいるようには見えないわね。苦しんでいるなら、さっきみたいに顔を赤くしてあんなに恥ずかしそうにはしないんじゃない? あなたと一緒に住んでいて幸せだから、あんな感じになるんじゃないかしら」

「そうですかね」


 でも、浅沼の一件が終わってから、彩花の笑顔を見る機会が一気に多くなったのも事実だし、一緒に寝ることも少しずつ増えている。苦しんでいるなら、そんな風にはなっていかないかな。


「今の彩花の笑顔は以前のような可愛くて優しい笑顔に戻った。それは母親である私が保証します。だから、今度は藍沢君の決断で彩花をもっと素敵な笑顔にしてくれると嬉しいな。ただ、彩花の母親として我が儘を言えば、藍沢君が彩花を選んでくれるという決断をしてくれるとより嬉しいけれど」

「……渚のお母さんにも同じようなことを言われました」

「あらあら、向こうの母親に先手を打たれちゃったのね。じゃあ、彩花を選んでもらうために一肌脱いだ方がいいのかしら。まあ、実際に脱ぐのは服とか下着だけれど」

「彩花を応援する気持ちだけで十分じゃないでしょうか。まあ、俺がそう言うのも何なんですけど」


 紅林さんもそうだったけれど、どうして自分の応援する人と結ばれるためにそこまでしようとするのか。応援する気持ちだけで本人は十分勇気づけられると思うけど。美穂さんは俺と添い寝をした過去があるから、彼女も渚のために一肌脱ぎそうな気がする。


「藍沢君、ふつつかな娘ですが、これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。もしかしたら、色々とご迷惑をかけてしまうことがあるかもしれませんが」

「ええ。……こういう挨拶を、違う意味でまた交わしたいわね」


 めぐみさんはさりげなく彩花のことを推してくる。こういう風にできるのが大人なのかなぁと思う。

「ただいま~」

「ケーキたくさん買ってきたわよ」

 彩花と茜さんが買ってきたケーキで、再びティータイムが始まるのであった。



 その夜、彩花は俺と一緒に寝たいと言ってきた。今回は俺の部屋のベッドで一緒に寝ることになった。


「直人先輩。私とお姉ちゃんがケーキを買いに行っている間、何を話していたんですか?」

「……彩花が本当に俺のことが好きだってことかなぁ」

「あうっ」


 彩花は恥ずかしげな様子を見せてくる。


「お母さん、そんなことを話していたんですか」

「ああ。俺と一緒に住んでいる彩花を見て安心したって」

「直人先輩のおかげですよ。大好きな先輩が私を守ってくれて、今もこうして一緒に住んでいられるんですから。今、こうしていることもとっても幸せなんです」


 そう言う彩花の顔は言葉通りの幸せな笑顔だった。


「前はそれで十分でしたけど、今はもっともっと直人先輩との幸せを感じたいです。もちろん、それは私だけではなくて先輩にも感じてほしい」

「……優しいな」

「私は直人先輩のことに関しては貪欲です。だから、改めて直人先輩には私の気持ちを確認してほしいんです。先輩、口づけしても……いいですか?」

「いいよ」


 ベッドの明かりだけで照らされる彩花は普段よりも艶やかで。彩花が俺のことを抱きしめるときに感じる甘い匂いが、俺の体の中を刺激していく。


「直人先輩、好きです。……大好き」


 そう言って、彩花は俺と口づけをする。最初こそは唇を重ねるだけだったけれど、声を漏らしながら舌を入れてくる。彼女の貪欲さを唇と舌で受け止める。


 唇を離したとき、彩花は恍惚な表情を浮かべていた。

「やっぱり、好きな人との口づけっていいですね。もっともっと直人先輩のことが好きになりました」

「……そうか」

「これからはもっと先輩と一緒に寝てもいいですか? ご迷惑でなければ」

「迷惑なんかじゃないよ。一緒に寝よう」

「ありがとうございます。とても嬉しいです」


 彩花は腕枕をしてくる。そのときに彼女の柔らかな体が当たってくるけれど、きっと彼女はそういうことを気にしないのだろう。好きな人が相手だから。

「眠くなってきちゃいました。直人先輩、おやすみなさい」

「おやすみ、彩花」

 眠りに落ちてゆく彩花の顔は天使のようだ。

 決断できないことに苦しむときが多いけれど、今はそんなことはなくて彩花のおかげか温かい気持ちになっている。

「今夜はいい夢が見られそうだ」

 彩花の可愛げな寝息が聞こえる中で、俺は眠りにつくのであった。

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