第22話『"悩む"こと』

 早朝ということもあって、大浴場に行っても片手で数えるほどしか人がいない。それも、ご老人がほとんど。俺よりも若い人はいないと思う。

 髪と体を洗って露天風呂の方に行くと、そこには父さんが入浴していた。


「父さん」


 声をかけると、父さんは俺に向かって軽く手を上げる。


「おう、直人じゃねえか」

「父さんも入っていたんだ」

「ああ。早朝の温泉が旅行の醍醐味ってもんよ」


 そういえば、父さんは温泉とか大好きなんだよな。小さい頃、たまに朝早く起きたときは父さんと2人で大浴場に行ったっけ。そのときは決まって、部屋に戻る間にジュースを買ってもらっていた。


「後で金渡すから、風呂の帰りにコーヒーでも買えよ」

「お言葉に甘えてそうさせてもらうよ」


 俺は父さんの隣で温泉に浸かる。温泉がちょうどいい温かさなので眠気が出てきた。


「それで、昨日は彩花ちゃんと渚ちゃんと何かしたのか?」

「いきなり何を言うかと思えば……」

「お前、何もしなかったのか?」


 何やってるんだよ、と父さんは軽くため息をつく。というか、父親として俺にそういうことを推奨してはいけないだろ。美月がいるのに。


「俺は母さんと快楽な夜を過ごしたぞ。月明かりに照らされる母さんはとても可愛かったなぁ! ひさしぶりに新婚気分を味わった」


 ははっ、と父さんは楽しそうに笑っている。そんな父親の姿を見ると、昨日の夜は本当の楽しかったのだと思える。


「まあ、こっちは……プライベートの露天風呂に一緒に入って、夜は……一つのふとんに3人で寝たよ。それぞれが寝る間際にキスしたくらいだ」


 こんなこと、父親に報告してしまっていいのだろうか。


「……お前らしいな」


 そう言う父さんは納得しているようだった。


「直人」

「なんだ?」


 すると、父さんは真剣な表情をして、俺の目を見る。


「……直人。正直なところ、彩花ちゃんと渚ちゃんのどっちがいいと思っているんだ?」


 父さんの質問は俺の一番訊かれたくないことだった。彩花と渚のどっちの方が好きなのか。俺は決められずにいる。

 彩花と渚、それぞれに異なった魅力がある。甲乙はつけがたい。

 2人とも大切な存在だと言い切れる。

 2人とも愛しているとも言い切れる。

 それは2人のことが好きだという感情から生まれてきているのだろうか。そうだとしたら、怖い。どちらかにしなければいけないと考えるとなおさら怖い。


「まあ、唯ちゃんのことがあったからな。なかなか決められない気持ちは分かる」


 父さんにそう言われたとき、ふと、俺はとある疑問を抱いた。


「父さんはどうだったんだよ。父さんはどうして母さんを選んだんだ」


 学生時代、父さんの周りにはたくさんの女性がいた。そんな中、どうして母さんを選んだのか。いや、選ぶことができたのか。それを訊いてみたかった。

 父さんは空を見上げながら少しの間、黙っていた。


「……男の中にはハーレムを作るっていう夢を抱くヤツがいる。それで、作れそうには鳴るんだが……絶対に作れねえんだよ。俺もそうだった」


 父さんのことが好きな女性は多く、母さんもその中の1人だったことは聞いている。父さん曰く、母さんはその女子達の中では大人しい方だったそうだ。


「俺のことが好きな女に囲まれたい。そんな願望に対して、全ての女子を等しく愛し、女達の関係を壊さないように努める必要があった。だけど、男なんて不器用な生き物でさ、自然と誰か1人を愛するようにできているんだ。俺はそう思う」

「そこで俺が訊きたかったことだ。父さんは男が1人の女性を愛するものだと思うようになり、実際には母さんを選んだ。それはどうして?」


 その決め手が、この苦しみを脱するヒントになるかもしれないと思って。

 父さんはクスクスと笑った。


「……勘だよ」

「えっ?」

「俺は母さんのことも好きだし、他の女も好きだった。でも、なぜか……母さんのことが一番愛し抜けると思ったし、母さんと一緒に幸せになれる自信が自然と湧いてきたんだ。あとは母さんとなら大丈夫だっていう直感だな。それで母さんと付き合うことに決めて、今に至るってわけだな」


 父さんのその勘は当たっているな。昔のことを話しても、母さんと楽しく笑っていられるのがその証拠だろう。


「まあ、昨日の夜に母さんと色々として、やっぱり俺は母さんを結婚して良かったって思ったけどな!」


 ははっ、と父さんは再び楽しそうに笑う。本当に、2人きりで色々と楽しいことをしていたんだなぁ。父さんと母さんのことなので、何をしていたのかは容易に想像できてしまう……というか、想像してしまってはまずいな。


「直人。よく覚えておけ。誰も傷付かない決断なんてない。だから、時間がかかってもいいからとことん悩め。そして、いつか必ず決断しろ。あの2人のどちらかと付き合うとしても、どっちとも付き合わないとしても。決断するってことは、そのことで生じる責任を自分で取ることだからな。あの2人なら、お前の決断を受け入れてくれるだろう」


 父さんは真剣な表情をしながらそう言った。父さんの言うことに説得力が感じられるのは、父さんが実際にそういったことを経験してきたからだろう。


「でも、何が正解なのか――」

「ははっ」


 父さんは俺の言葉を遮るように快活に笑う。


「正解なんて誰が決めるんだよ。誰にも決められないだろ。第一に何が正解なんだ? 俺が母さんを選んで良かったと思っているけど、正解じゃないかもしれない。この先、何が起こるか分からないからな。そんなの死んでも分からない。でも、この判断が最良だったとは思いたいじゃないか。俺の場合は母さんを選んで良かったってな。だからこそ、とことん悩むんだ。少しでもそう思えるようになるためにな」

「……そう思えるように、か」


 今だって悩んでいるよ、俺は。2人の笑顔を見ると、苦しくなることがあるんだ。俺は何もできていないのに、2人は俺に好意を素直に見せてくれている。しかも、2人は優しいから互いのことを恨んだり、憎んだりしていない。

 そんな2人でも、今のままではいずれ、俺のことで恨み合ったり、憎しみ合ったりする関係になってしまうのかも。それはどうしても避けなければいけないと分かっているのに、今の俺は決断する勇気の欠片も持てないんだ。決断することも怖いから。


「苦しかったら、父さんに遠慮なく相談しろ。俺も直人と同じような経験はしてきたつもりだから、何かの助けになるかもしれない。母さんに相談するのもいいだろう。誰かに相談することは何も恥ずかしいことじゃない。一人で抱え込むようなことはするなよ」

「悩めって言っておきながら、何言ってるんだよ」


 父さんの言っていることが矛盾しているような気がしたから、少し皮肉っぽく言ってみた。

 しかし、父さんはいつものように笑った。


「俺が言った『悩め』っていうのは『しっかりと考えろ』って意味だ。今、直人が考えるべきことについて。ただ、どうしようもないくらいに苦しくなったり、先が見えなくなったりしそうになったら相談しろってことだ」

「……ああ、分かった」


 要するに2人のどちらかと付き合うか、どちらとも付き合わないかについてよく考えろってことか。でも、考えれば考えるほど、底なし沼に飲み込まれるような感覚に陥る。

 俺と父さんの違いはそこなんだ。

 父さんは最終的に決断できるけど、俺にはまだそんなことはできない。できるだろうという未来も見えない。俺も父さんのようになれるのだろうか。


「直人は俺よりも辛い想いをしてきた。だから、考えることでさえも怖いって思うかもしれないけどよ。……頑張れ。今、父親として直人に言えるのはそれしかない。情けない父親ですまないな」


 静かにそう言うと、父さんはゆっくりと立ち上がって露天風呂から出る。


「昔話以外で色々と語るのは、やっぱり俺らしくねえな。ちょっとのぼせちまった。俺は先に出る。一緒に出るなら後で飲み物でも買ってやるけど、どうする?」

「俺はもう少し、温泉に入ってるよ」

「そうか。分かった。何か飲み物を買ったら言ってくれ」

「ああ、ありがとう」

「じゃあ、俺は先に出るよ。朝食のときにまた会おう」


 父さんはそう言って大浴場の中に入っていく。その時の父さんの背中はとても大きく見えたのであった。俺の記憶の中で一番広かった。

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