エピローグ『好敵手』

 4月28日、日曜日。

 目を覚ますとベッドに彩花の姿がなかった。部屋の中はうっすらと明るくなっているし、朝ご飯でも作ってくれているのかな。

 スマートフォンで今の時間を確認すると、


「じゅ、11時かよ……」


 午前11時3分と表示されている。昨日は色々あったから、疲れてぐっすりと眠ってしまったのかな。日曜日だからこの時間まで寝ていても問題ないけれど。

 寝間着から着替えて自分の部屋を出ると、リビングの方から何やら話し声が聞こえる。複数人の女の子の声が聞こえる。


「彩花、誰が来ているんだ?」


 そう言ってリビングに入ると、彩花と渚が紅茶を飲みながら談笑していた。彩花は赤色のワンピースを着ていて、渚は7分丈のベージュのパンツに白い長袖のワイシャツを着ている。

 今までのことがあったからか、この光景が嘘のように思える。頬をつねってみると痛いので、これは現実のことなのか。


「おはようございます、先輩」

「おはよう、直人」

「ああ、おはよう。渚が来たなら起こしてくれて良かったんだけど」

「昨日は色々とあったので疲れていると思って、直人先輩にはぐっすりと寝てもらいました。それに、渚先輩とは2人きりで色々と話したいこともありましたし」


 2人きりで何を話したのかが気になるけれど、わざわざ俺を起こさないのだから秘密にしておきたいんだろう。訊かないでおくか。


「そういえば、どうして渚は家に来たんだ?」

「学校のバッグを取りに来たの。あと、直人が私の家に持ってきた荷物を返しにね。結構重いからお母さんに寮の前まで送ってもらったんだ」


 渚の指さす先には俺が渚の家へ持っていった荷物が置かれていた。そして、ソファーの上には渚のスクールバッグもある。


「そういえば、昨日は学校から直接ここに来て、それで浅沼から電話あって……」

「ルピナスの花畑で浅沼達と決着をつけたら、警察に行ってそのまま帰っちゃったから。だから、今日ここに来たってわけ」

「なるほど」

「それに、彩花ちゃんが直人のことで話したいって言ってきたから」


 俺のことで話したいこと?

 あと、気付けば互いに下の名前で呼び合うようになっていた。2人の仲が良くなった証拠かな。とても嬉しいことだ。


「私、渚先輩とはちゃんと向き合いたいんです。このまま私が直人先輩を独占していいのかなと疑問に思って」

「私も正直、昨日の直人を見て直人と彩花ちゃんの強い結びつきを感じたの。だから、もう私が何をしたってどうにもならないって正直諦めてた」


 そういえば、昨日……警察署の前で別れるときは笑顔だった。そのときはもう、俺のことを諦めて吹っ切れていたのか。


「でも、一晩経ったら、このままでいいのかなって疑問を抱いてきて。そんなときに彩花ちゃんから電話がかかってきたの。2人で直人のことについて話さないかって」

「それで、ここで話して……正々堂々と直人先輩を巡って戦うことに決めたんです。私が直人先輩と一緒に住んでいることには変わりありませんけど」

「俺が言うのは何だけど、それじゃ渚に不利なんじゃないか? 学校では渚と一緒にいられるけど、学校外だとほとんど彩花の方が一緒だから有利になる」

「それでもいいんだよ、直人。学校ではずっといられるし……それに、そんな状況下で戦う方が、普段から直人に対して強い気持ちを持っていられるもん」


 渚は爽やかに微笑みながら言う。

 さすがに、女子バスケ部のエースとなると、相当なスポーツマンシップを持っているようだ。勝つことにとても貪欲というか。それも、相手が彩花だから言えることなのかもしれない。


「それに、時々は私が2人の家に泊まろうかなって思うし、直人が私の家に泊まり来てもいいし。お母さんも直人のことは気に入っているから。あんなに素敵な男の人はお父さん以来だって」

「そ、そうなんだな」


 そういえば、美穂さん……俺のことをかなり気に入った様子だった。2人きりになると腕を絡ませてきたり、俺の隣で横になっていたり。まあ、俺のことをからかっているだけだと思うけど。


「だからさ、直人……私も彩花ちゃんと同じスタートラインに立ちたい」

「えっ、どういうこと?」


 俺がそう言うと、渚はムッとした表情を見せる。


「だから、その……私も直人と口づけしたいって言ってるの! 私も直人のことが好きなんだから! 彩花ちゃんとはもう口づけをしたんでしょ?」

「……しました」


 なるほど、同じスタートラインというのはそういう意味だったのか。彩花は俺との口づけを経験済みだから、平等にするために自分も一度口づけをしたいと。

 渚は彩花に負けず劣らずの魅力を持っている女子だ。そして、彩花と同じくらいに大切な女子だと思っている。そんな女子が口づけをしたいと言うなら答えは決まっている。


「じゃあ、渚からしてくれないかな。彩花も自分から口づけをしたんだから」


 俺は渚の前に立って渚が口づけをしてくるのを待つ。

 すると、渚は両手を俺の頬に当て、唇を重ねてきた。

「んっ……」

 唇を重ねただけでは終わらず、渚は小さく喘ぐような声を出すと、強引に舌を絡ませてきた。渚の口から甘い風味が伝わってくる。

 唇を離すと、渚の口との間に唾液が糸のように引いていた。


「直人と口づけしちゃった……」


 恍惚とした表情をしながら渚はそう呟いた。

 彩花と渚は対称的な女の子だと思う。彩花は俺や渚の前になると急に大人しくなって、渚は急に大胆なことをしてくる。


「ううっ、渚先輩でなかったら直人先輩の顔を叩くところです……」


 彩花は右手を拳にしながら悔しそうにそう言った。幾らライバルでも口づけをしている場面を見ると嫉妬心が芽生えるのだろう。


「でも、これで同じスタートラインに立ったことになるね、彩花ちゃん」

「そうですね。渚先輩」


 そう言って彩花と渚は笑い合う。俺が言うのも何だけど、良きライバルとして互いを認め合ったってことかな。


「あっ、そういえば直人先輩にお手紙が届いていましたよ。差出人の方の住所が直人先輩の地元だと思うのですが……」


 俺は彩花から白い封筒を受け取る。

 差出人は……ああ、俺の地元の親友だ。それじゃ、住所も地元の方なわけだ。


「俺の中学時代の親友からだ。手紙でわざわざ送ってくるなんてどうしたんだろう?」


 さっそく封筒を開けて中身を確認すると、1枚のベージュのカードが入っていた。そこに書かれていたのは、


「……中学校の同窓会か」


 中学3年生のときのクラス同窓会の招待状だった。ここまで立派なカードで送らなくてもメールやメッセージで十分だったのに。

 そういえば、高校生になってから1度も地元には帰っていないから、これはちょうど良い機会かな。それに、地元に帰ってやりたいことがあるし。


「彩花、渚。中学のときの同窓会に参加するから、来週のゴールデンウィークに帰省するよ。2人さえ良ければ一緒に来るか? 2人のことは俺の家族に紹介したいし、2人くらいなら実家に泊まれると思うから」

「直人先輩がそう言うのであれば、是非行ってみたいです!」

「私も行くわ。ゴールデンウィーク中は多分、部活はなかったと思うから」

「そうか、分かった。じゃあ、後で実家には連絡しておくよ」


 彩花と渚が一緒に来てくれるのは心強いな。


「直人先輩の実家、今から楽しみです」

「直人には妹さんが1人いるんだって」

「へえ、そうなんですか! きっと可愛いんでしょうね……」


 彩花と渚の2人が楽しそうに話しているのを見ると、本当に幸せな気持ちになれる。

 だけど、時々思うんだ。



 俺は彩花と渚に対して、物凄く酷いことをしているんじゃないかって。



 それは浅沼が彩花にしようとしたこととは比にならないくらいに。

 今もなお、俺は彩花と渚の心を傷つけているんじゃないだろうか。2人に対して俺は好きか嫌いかをはっきりと答えたことが1度もない。


『2人のことを大切に思っている』


 俺は本心でその言葉を言っているけれど、時々……逃げている感覚に陥るんだ。

 そして、こうも思う。この言葉は2人を傷つけないように言っているけれど、本当は2人の心を逆に傷つけているんじゃないかって。はっきりとどっちが好きで、どっちが嫌いだと言った方がいいんじゃないかって。

 しかし、それを考えると、あのときの記憶が蘇る。灰色の空の下で寂しそうに微笑んでいた彼女の姿が。その度に人を好きになることや、嫌いになることがとても怖くなる。


 今となっては人を好きになる感覚がどういうものなのか分からなくなってしまった。だから、愛している気持ちは持つことができるけれども、好きになる気持ちを持つことができない。


 だけど、もし、2人が他の男に取られることを考えると怒りを覚える。多分、それは嫉妬しているんだと思う。それが好きという感情なのか? 今の俺には分からない。

 もしかしたら、今まで俺がしたことに対する神様からの試練なのかもしれない。今の状況は、どっちも大切だと思っている俺に課せられた問題だろう。いずれはどちらかに決めなくてはならないから。それでも、決めることがとても恐ろしいんだ。

 それでも今は、この2人を俺に守らせてほしい。俺はもう、大切な人を誰一人として失いたくないから。特に自分に好意を持ってくれた人を。


「どうしたんですか? 顔色が悪いけど」

「昨日の疲れがまだ取れていないんじゃない?」


 気付けば、視界には俺のことを見上げている彩花と渚の顔があった。こうして見るとどっちもかなり魅力的な女の子だ。


「たくさん寝たから疲れは取れたよ。ただ、寝過ぎたから逆に眠いだけだよ」

「それならいいですけど……」

「無理はしなくていいからね、直人」

「ありがとう。2人の気持ちはとても嬉しいよ」


 俺は彩花と渚の頭を優しく撫でる。

 すると、2人の顔が見る見るうちに赤くなっていく。本当に俺のことが好きなんだな。そこまで素直にいられることが俺は羨ましいよ。


 一連のことで彩花や渚はいい方向に変わったけれど、俺は何一つ変わっていない。


 俺もいつかは素直になって、誰かを好きだと言えるときが来るのだろうか。嫌いだと言えるときが来るのだろうか。

 いつかは、そのときを必ず迎えなければならないことは分かっている。けれど、誰かを傷つけてしまいそうだから、そんなときは一生来なくていいとも思ってしまう。

 はっきりとした気持ちを持たない限り、この苦しみは永遠に続くだろう。その苦しみから解き放たれるためにも、まずは来週のゴールデンウィークに地元へ帰ったとき、俺のやりたいことを必ずやり遂げなければならない。

 そんな俺の悩んでいる姿を嘲笑うかのように、普段とは違ってルピナスの花の香りがとても嫌に思えた。


「やっぱり、顔色が悪いですよ。寝ていた方がいいんじゃないですか?」

「彩花ちゃんの言う通りだよ。私達が側で看ていてあげるから」

「いや、大丈夫だよ。それよりもお腹が空いた。何か作ってくれると嬉しいな」

「分かりました。渚先輩、早いですけどお昼ご飯を一緒に作りましょう」

「う、うん。料理は苦手だけど……頑張ってみる」


 彩花と渚は楽しそうにキッチンへと向かった。

 そう、俺には今……守りたい人が側にいる。それは幸せなことなんだ。俺は2人の笑顔を守っていきたい。今は自分のできることを精一杯頑張っていこう。そんな中で、自分の気持ちと向き合っていければいいな。

 そう思うと少しだけ、ルピナスの花の香りが心地よく感じるのであった。




第1章 おわり




第2章に続く。

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