君は知らない
いつもの帰り道を、当たり前のように二人で歩く。
道すがらは大体、互いの身に起こった出来事とか、今流行ってることとか、『すべらない話』なんて銘打った馬鹿みたいにくだらない話とか……そういうホントに取り留めもないことをぺちゃくちゃ喋りながら帰っている。
でも今日は、そういう気分なのだろうか。隣を歩く彼は、さっきからずっと黙ったまま、前を向いていた。
いつも口火を切るのは彼で、こっちから彼に話しかけることはほとんどないから、必然的に沈黙が流れる。
けどこういう沈黙も別に苦じゃないくらい、彼とは長い時間を一緒に過ごしてきた自信がある。
でもなぁ……いつもと違うことされると、調子狂うんだよな。
この空気を持て余し、さっきからどうしていいか分からないまま、何となく彼の横顔を眺めている。
少し背が高い彼を自然と見上げる形になって、段々と首に鈍い痛みが溜まってくるのが分かったけど、目を逸らす気はなかった。
閉じられていた薄い唇が、軽く開く。その隙間から、唐突に綺麗な旋律が零れた。歌を、口ずさみ始めたのだ。
どうして彼が黙っていたのかは分からないし、彼の気持ちは推察できないけれど、もしかして彼の方も、慣れない沈黙に耐えかねたのだろうか。
それともただ、そういう気分だったのか。
歌の上手い彼は、カラオケでいつも注目を集める。その時だけは、ちょっとしたアイドルみたい。ちなみにいつもは面白い人だから、周りにとって芸人みたいな存在だったりするのだけれど。
軽く口ずさむだけでも聴き惚れてしまうほどの美しい声が、ゆったりとした調子で紡ぐのは、彼が前から好んでよく聴いているラブソングだった。
何故か彼は、この歌だけはカラオケで歌ったことがない。
いつも聴いているのだから、当然歌えるはずだし、一番好きな曲としても挙げているくらいなのだから十八番でもおかしくないはずだ。それなのに、どうしてそうしないのか。
一度尋ねてみたことがあるけれど、彼はその時、いつもの彼らしくない曖昧な笑みを浮かべて、歯切れ悪く答えたのだった。
――難しい曲だから。
多分……ううん、きっと、本当の理由は違う。
何も言わない彼の心中を、察することは難しいけど、幼馴染だから何となくは分かるつもりだ。
彼には、好きな人がいる。
それは隠しておくにはあまりに大きすぎて、容易く口にするにはあまりに脆すぎる。そんな、ガラス玉みたいに澄んだ恋心。
彼はその歌に、自分の想いを重ねているのだろう。だからこそ、人前で安易に歌えないのだ。
その事実について、彼は一度も口にしたことはない。
それでも、その歌を聴いている時。その歌について、彼が語る時。
そして今、口ずさんでいるこの時も……彼の目には、とても優しい色が宿る。とろけるような、夢見るような。
それはまるで、乙女のような……なんて言ったら、本人は怒るかもしれないけれど、事実なのだから仕方ない。
歌声も、ふわりと包み込むように暖かい。
カラオケで気持ちよさそうに歌う時の、力強いそれとは違う。ずっと聴いていたら泣いてしまいそうになるような……切ない想いが、伝わってくるような。
ねぇ。その歌を、君は誰に向けているの?
誰を想って、そんなに優しい……けれど胸が締め付けられるような顔をして、歌っているの?
何か言おうと口を開くけど、結局知りたいことの一つも尋ねられぬまま、立ち止まらない彼の隣を歩く。
肩同士も、だらりと垂れさがった手同士も、触れそうで触れない。互いが自分以外の他人に対して無意識に引いている線の内側へは、決して踏み込まない。柔らかな部分へは、刺激を与えない。
このままの距離感で、ずっといられればいい。今日も、それでいい。
これ以上を求めてしまいそうになる自分を奮い立たせるかのように、心の中で幾度も言い聞かせながら。
(自分ではない誰かを想う歌を、隣で黙って聴いている)
(他の誰でもない君を想う歌を、隣でひっそり歌っている)
((この想いを、君は知らない))
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