物語を操りし女房
これは、俗に言う平安王朝の時代――最初にその姓を
時の帝であらせられる一条天皇のもとに、御息女の
それは同じく藤原北家の出身で、
男尊女卑が当たり前だったこの時代、人前にて本名を名乗ることを禁じられていた彼女ではありましたが、周りからは
道長殿がその女人――藤式部と初めて顔を合わせたのは、御婚姻の時でした。奥方となった
「この者は、わたくしが一番信頼を寄せている女房なのでございます」
倫子様がそうおっしゃる横で、その女房は道長様に向けて恭しく、けれどほんの少し緊張気味に頭を下げました。まるでそのように紹介されることは我が身に余る光栄であると、そして同時に恐縮であるとでも言うかのように。
「藤式部と申します。以後、お見知り置きを」
深々と頭を下げた後、ゆっくりと顔を上げ道長様の方をじっと見据えた藤式部。その顔にはもう、先ほど垣間見えた緊張も戸惑いも、何も感じることができなくなっておりました。
そんな彼女の視線を、道長殿はしっかりと受け止めてみせました。
――女でありながら、切れ者の男貴族のような強い目をしている。
それが、道長様の彼女に対する第一印象でした。
当時口に出すことはしませんでしたが、実はその頃から道長殿は彼女に目をつけておりました。その辺の道楽貴族よりはるかに聡く、芯がしっかりしていて、なおかつ容貌もなかなかのものであった彼女でしたから、時の権力者であらせられる道長様が興味を持たれるのも当然であったかもしれません。
倫子様や彰子様をはじめとした、この時代の男が好むであろうたおやかでなよやかな女人とは、どこか一線を画している――それが、藤式部という女の本性なのでした。
やがて時が流れ、御息女である彰子様が入内したのをきっかけに、道長殿は藤式部を女房として仕えさせました。一条天皇のもとに入内した他の女人たち――特に、藤式部と対等に渡り合えるほどの才能を持つ女房を携えている中宮・
その代わり道長殿は藤式部に、自由に使ってよいからという
その至れり尽くせりの状況と、道長殿に頂いたありがたいお言葉に甘えるかのように、藤式部はある一篇の壮大な長篇物語を書き始めました。時の帝と身分の低い女人の間に生まれた、光り輝くほどの美しさを持った青年が経験する、数多の恋と苦悩を描いた物語――そう、後の時代にも伝わる、かの有名な『源氏物語』です。
主である彰子様や一条天皇はもちろんのこと、話を聞きつけた他の女房や貴族たちまで、屋敷内の誰もが彼女の物語に耳を傾け、その続きを浮き浮きとした気持ちで待ちました。
もちろん、その評判は道長殿の耳にもすぐに入ってくることとなりました。その間に定子様の御崩御や、待ち焦がれた彰子様の御懐妊といった重大な報せも多くありましたものの、そのような中でも道長様は、藤式部に関するお噂に関しては特に耳をそばだてておりましたので。
「どうやら、帝の御心をもうまく掴んでおるらしい。彰子は今や帝にとって唯一無二の妃、無事懐妊もしたことであるし……ふむ。あの女をつけたのは、やはり正解だったようだな。結構結構」
道長殿は満足したように、ふくふくとお笑いになられました。
その後、彰子様が男御子を御出産になられたことで、道長殿の権力はさらにお強いものとなられました。その後は彰子様以外にも御息女を天皇家へ嫁がせ、天皇家との繋がりを確固たるものとすることで、徐々にその地位を高めてゆきます。
何年後かに彼は、このような句を詠んだと言われています。
『この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』
――この世はもはや、我が物のようなものだ。今夜のこの望月(満月)のように、もはや足りない(欠けている)物など何もない。
さて。そんな折のこと、都ではとある奇妙な噂がまことしやかに囁かれ始めていました。
『女人の姿をした怨霊が、夜な夜な都内を彷徨い、自らより気高く美しく愛されていると判断した女人を次々と呪い殺している』
実際その噂に比例するように、とある貴族の御正妻が変死したとか、御出産を控えていたとある貴族の御側室が死産の挙句亡くなったとか……とにかくそういった奇妙な事件が頻繁に起こっているというのです。
「馬鹿げている。そのようなことがあるものか」
家臣からその噂についてお聞きになった道長殿は、鼻を鳴らして一蹴されました。
「まるで、源氏物語の筋書きをたどっているようではないか。そのようなこと、にわかに信じられるわけがなかろう」
――そう。道長殿は何でもない事のように言いましたが、その点が一番奇妙なのでした。
もはや屋敷内だけでなく、都中に広まっている源氏物語。その内容を知る者は皆一様に、こう言って怯えているのです。
「六条の仕業じゃ。あの者も、あの方も、みな六条の呪いによって殺されたに相違ない」
六条――源氏物語の登場人物である
今回の事件は多少の相違点があるものの、まさにその筋書きをなぞっているかのようにも思えて……。
「まぁ、そのようなことが」
訪ねてこられた道長殿に例の噂について伺った紫式部――源氏物語が世に広まってからは、藤式部という名よりもこの名で呼ばれることが多くなりました――は、十二単の袖で口元を隠しながらホホホ、と小さく声を上げて笑いました。
「まったく、阿呆らしいと思わぬか」
思いの外あっけらかんとした相手の反応を見て、ふぅ、と呆れたように――どこか安堵したように、道長殿は溜息を吐かれました。
「都の者は皆、六条の呪いじゃと口々に噂しておるそうじゃ。怨霊騒ぎなど別段珍しいことではないというに、何でもこじつけるのは如何なものか。のう、式部よ」
「こじつけなどではない、と申しあげましたら?」
道長殿は訝しげに眉根を寄せました。
「どういうことじゃ」
紫式部はおもむろに筆を取りました。たっぷりとふくんだ墨が、ぽたり、と一滴紙の上に落ち、黒く滲んだ染みを作ります。
「源氏物語として描いた筋書きを、現実世界にそっくりそのまま起こして御覧に入れる……それが、わたくしにはできるのです」
紅をさした唇を愉快そうに歪めた彼女は、ぞくりとするほど妖艶な、不敵な笑みを浮かべました。
「わたくしには、物語を操る力があるのでございますよ」
「……」
道長殿は、ご自身の心臓がどんどんと早鐘を打っていくのを感じました。紫式部の浮かべた笑みが、あまりに
では、二人の女人を殺したのは……。
額に冷や汗がじんわりと浮かぶのを、直衣の袖で拭おうとした時。
「なんて、ね」
突如聞こえたのは、気の抜けるような明るい声。反射的にそちらを見れば、先ほどまで恐ろしささえ感じるような表情を浮かべていた紫式部は、まるで別人のようににっこりと笑っておりました。
呆然とする道長殿に、紫式部はあっさりと言ってのけます。
「冗談ですわ、道長様」
単なる一介の女房風情に、そのような大それた力が備わっているわけなどございませんでしょう?
再びホホホ、と控えめに――けれど可笑しそうに笑う紫式部につられ、道長殿もハハハ、と笑い声を上げました。
「そうじゃな。よく考えたら、誠に非現実的な噂じゃ。いくら怨霊騒ぎが日常的にあるとはいえ、さすがに物語を操るなど……」
「そうでございますわよ」
フフ、と未だに抜けきらないような笑い声を零したあと、文机から離れた紫式部は畳に手を突き、恭しく頭を下げました。
「此度のこと、道長様におかれましては誠にお気の毒なことでございました」
「うむ……」
「偶然にも、御不幸が重なっただけでございますわ……倫子様も、御側室の
「そうじゃな」
頭を上げた紫式部を一瞥し、道長殿は立ち上がられます。
「そなたと話したおかげで、少し気が紛れた」
「それはようございました」
「……また、来る」
「いつでもお越しくださいませ。道長様ならば、御歓迎いたしますわ」
立ち去って行く道長殿の後姿を、紫式部は柔らかな笑みを崩さぬまま、見えなくなるまでいつまでも見送っておりました。
◆◆◆
「儼子様は葵の上、倫子様は夕顔の君……筋書き上立場は逆ですが、死に至らしめられただけでも良しといたしましょう」
文机に向かいながら、紫式部は一人、満足げな微笑みを浮かべていた。かつて主人であった女が亡くなったというのに、その表情にも服装にも、何故か悲しみの色は少しも現れていない。
「けれどわたくしは、決して六条などにはなりませぬ。わたくしが六条になってしまったら、あの方と結ばれぬまま伊勢に下らなければならなくなるではございませんか」
誇り高く美しく、皆を惹きつけてやまないあの方に釣り合う女は、同じくらい誇り高く美しくなければならない。幼少時に光源氏に引き取られ、彼の理想通りに育てられた女――紫の上のように。
だから……。
「葵の上も、夕顔の君ももういない。六条は自らのしたことを心から反省し、娘が
それでも、花散里や明石の方など、あの方の寵愛を受ける者は他にたくさんいるのだけれど……。
「けれど最後は、わたくしが勝つのです」
最終的に源氏の君にとって最愛の女性となるのは、紫上であると最初から決まっている――……。
そう、それはわたくしが全て決めたこと。
この物語の書き手であるわたくしだけが、全ての筋書きを、我が思い通りに決められるのです。
わたくしには、そうするだけの力が――神様より賜った力が、ある。
歌うように呟きながら、真っ白な紙を広げ、筆を取る。新たな物語の続きを――自らの人生の筋書きを、書き綴っていくために。
「源氏の君に――いいえ、道長様に生涯愛されるのは、このわたくし」
だってわたくしは――『紫』式部なのだから。
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