赤いネクタイ、甘い執着

 ――どうして?

 問い掛けても、同じ答えしか返ってこないのは分かってる。あなたはまた、哀しそうに笑ってこう言うんでしょう?

「ごめんな、千尋ちひろ……」


 ベッドの上、仰向けに寝転がっているわたし。首に巻きつけられているのは、赤いネクタイ。

 そんなわたしの上にまたがって、わたしのことを絞め殺そうとしている――幼馴染だったはずの、彼。

 こんな状況だというのに、わたしの頭は酷く冷静で……。どうしてこうなってしまったのかと、今までの出来事を全て反芻する余裕さえまだ残っているようだった。


    ◆◆◆


 わたし――永山ながやま千尋と、彼――高遠遼介たかとおりょうすけ

 幼い頃からずっと一緒だった。一緒に登下校したり、悪戯して怒られたり……楽しい思い出もそうでない思い出も、わたしたちは全て共有してきた。所謂幼馴染で、親友とも言える関係。

 喧嘩もしたし、何日も口をきかなかったことさえある。それでもいつの間にか仲直りして、またもとの関係に戻って……。

 学校を卒業してからはそれぞれの道を進むことになったけれど、今でも変わらず交流は続いていた。


 少なくともわたしはこの関係に不満なんかなくて、むしろ心地よいとさえ感じていたの。側にいられるだけで、わたしは幸せだった。


 そう……あの日までは。


 あの日わたしは告白を受けた。わたしの就職先でカッコイイと評判の、同期の本条ほんじょう君。彼のこと、好きなのかどうかは正直いって分からなかったけれど……彼は誠実でいい人だし、付き合っていくうちに自然に好きになっていくだろうと思ったから、結局告白を受けて付き合うことにした。

 当然、そのことは遼介にも報告した。幼馴染には一番に聞かせたい、ハッピーなニュースだからね。

 遼介は一瞬だけ顔を歪めた。

 心が、ざわついた。

 だけど次の瞬間にはもう嬉しそうに笑って、「おめでとう、千尋」と言ってくれたから、その時は気のせいだろうと思ってあまり気にしなかった。


 それからだ。わたしたちの関係が――遼介の様子が、おかしくなったのは。


 それまで当たり前のように繋がっていたはずの連絡が突然途絶えた。どうやら携帯電話自体を変えられたらしく、メールも電話も繋がらない。たまに街で会っても、それとなく避けられるようになって……。

 どうして? わたし……何か嫌われるようなことしたかな?

 避けられて以来いつも――本条君と一緒にいるときでさえも、遼介のことが気になって仕方なかった。いつの間にか辺りをきょろきょろ見回して遼介のこと探してたり、今度遼介に会ったら有無を言わさず捕まえて文句を言ってやろうとか考えたり……。

 そんな状態が、今までずっと続いていた。


 そして……ほんの数十分ほど前のこと。

 前触れもなく、いきなり遼介がわたしの家にやってきた。赤いネクタイを――社会人になるときわたしが遼介に贈った、その品を手に持って。

「久しぶり! 入って入って」

 警戒もなく、わたしは笑って幼馴染を家に入れた。

 遼介は何も言わなかった。ただ追いつめられたような表情で唇を噛んで、ネクタイをしわになってしまいそうなくらい強く握り締めたまま、俯いていた。

「まったくもう、一体どうしたの? いきなり連絡は途絶えるし、会ってもわたしのこと避けるし……てっきり嫌われたのかと思っちゃったよ」

 そんなことを言いながら部屋へ入れると、遼介はいきなり口を開いた。

「千尋……」

「ん、なぁに?」

 笑ったまま振り向いた。

 私はただ純粋に嬉しかったのだ。遼介が久しぶりに家に来てくれたことも、久しぶりにわたしと口をきいてくれたことも。

 だけど遼介は、そんな油断しきったわたしの首に手際よくネクタイを巻きつけて、そして――……。


 ベッドに、押し倒した。


    ◆◆◆


 そうして、現在にいたる。


「どうして……」

 何度目になるか分からない問いを、遼介に投げ掛けた。遼介はやっぱり哀しそうに笑った。

「ごめんな、千尋」

「わたしのこと……殺すの? この、ネクタイで」

 そんなことは聞くまでもなく確信していた。けれど聞かずにいられなかったのは、きっとその事実を信じたくなかったからなんだろう。

 案の定、遼介はちょっと茶化したように「まぁ……そうなるな」と頷いた。

「どうして……!」

「なぁ、千尋」

 私の訴えを途中で遮るように、遼介は明るく、それでいて何処か切なげな声でわたしを呼んだ。

「……お前から本条と付き合うって聞かされた時、底のない真っ暗な落とし穴にでも突き落とされたような気持ちになった」

 わたしは、本条君と付き合うことになったと報告した時の遼介の表情を思い出した。あの時は全く気にすることなどなかった……遼介が見せた一瞬の深い絶望と、何処となく寂しそうな笑み。

 そして今、目の前の遼介は狂気に満ちた哀しい――あの日とよく似た笑みをわたしに向けていた。

「俺は、お前に執着してる。多分自分が思っている以上に、自制なんて効かないくらいに。友情だとか、愛情だとか、恋心だとか……そんな単純で綺麗な言葉じゃ言い表せないし、片付かない。この気持ちはもっと深くて、醜くて、ぐちゃぐちゃなんだよ」

 傷つけてでも、息の根を止めてでも。どんな姑息な手を使ってでも、お前を俺だけのものにしたかったんだ。絶対に逃がさないように……この赤い紐でお前のこと、縛り付けておきたかったんだ。

「……ごめんな、そんなことしか考えられなくて。好きな奴の幸せを素直に喜べないなんて。俺……最低だよな」

 突然ぐにゃりと歪む遼介の顔。潤んだ瞳から零れる透明な雫が、幾度もその青白い頬を滑り落ちていく。

 あぁ、こんなになるまで気が付かなかったなんて。わたしは幾度もそうやってあなたのことを苦しめてきたんだね。どうして、その想いに気付いてあげられなかったんだろう。わたしはいつも、あなたの一番近いところにいたつもりだったのに。どうして……。


 目の前にいる、哀しいひと。甘く彩られた、その瞳。

 彼を、狂わせたのは……。


「わたしの、せいだね」

 遼介はハッとしたようにわたしを見た。わたしは微笑んで遼介の頬を両手で包み込むと、指を動かしてその瞳からこぼれ落ちる雫を拭ってあげた。

「ごめんね、遼介。苦しんでるのに気付いてあげられなくて。わたしの方こそ、駄目な女だよね……本当に、ごめんね」


 わたしね……考えたんだよ。あなたを見捨てて本条君のところへ戻るか、それともこのままあなたの手にかかるか。


「ねぇ、遼介」

 二人を天秤にかけるなら、どちらが幸せかと問われれば。

 わたしは……。


 首に巻かれた赤いネクタイの両端を握り締めている、震える青白い手。わたしは遼介の涙で濡れた自らの手で、それを包み込んだ。


「これでわたしのこと、一生縛り付けてよ」


 ――わたしを永遠に、あなたのものにして。


 わたしの突然の言葉に遼介は、え……と小さく声を漏らした。唇をわななかせ、確かめるように恐る恐る尋ねる。

「……千尋……本当に、いいのか?」

 わたしはただ、笑って頷いた。

 本条君を裏切る行為だということは、十分に分かっている。

 でも……狂おしいほどの執着心に身を委ね、彼にがんじがらめに縛られることを、わたしは今、何よりも望んでいる。そう悟ってしまったから。ここにきてようやく、わたしが心から愛しているのは本条君じゃなく遼介だって、気づいてしまったから。

 もう後戻りはできない。ならば……。

 わたしは愛しさを含んだ声で、遼介に囁いた。

「遼介。途中で、力を緩めちゃダメだよ」

 遼介は頷いて、両手でしっかりネクタイを握り締める。目を合わせて合図を送ると、それを思い切り左右に引いた。もともとわたしの首に巻きついていた赤いネクタイは、遼介の強い力で容赦なくわたしの首を絞っていく。同時に、狂おしいほどの圧迫感がわたしを襲った。

 苦、しい――……。

 だけどそう思ったのはほんの一瞬で、すぐに心地よい眩暈がやってきた。そうして、目の前が段々と暗くなっていく。

 今、わたしの人生は終わろうとしている。

 それなのに、幸せだと思っているわたしは……この時間がずっと続けばいいなんて思っている今のわたしは、単に酸欠のせいでうまく思考回路が働いていないだけなのか。それとも、そんなこと関係なくて――その前から、わたし自身がとっくに壊れてしまっているのか。


 ねぇ、遼介。わたし……今が人生で一番しあわせだよ。

 愛しいあなたの大きな愛を、全身で感じることができているんだもの。

 この時間が本当に、ずっと……ずっと、続けばいいのにね。


 ――最後に見た遼介の幸せそうな、とろけそうな微笑みに、わたしも精一杯の……人生で一番の、幸せな笑みを返した。

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