第4話

 天空城に夜明けが来ようとしている。東方に黄金の光が現れ、空を紅く燃え上がらせようとしていた。

 そして、ガルンの眠る棺桶の蓋がゆっくりと開く。その漆黒の液体に天使の放つ光の矢のような朝日が差し込むと同時に、立ち上がった闇である狂王ガルンが出現した。

 破滅していく恒星のように凶暴に輝く瞳で、ガルンはあたりを見回す。闇色の獣のようにしなやかに天空城の庭へ降り立ったガルンは、フレヤにロキ、そしてマグナスが揃っているのを認めた。その唇を邪悪に歪め、ガルンは楽しげに語り出す。

「さて、最後の招待客であるヴェリンダもようやく間近に迫ったようだ。天使たちが歓迎のために出かけているようだが、とりあえずおれの用は済んだ。待たせたな、フレヤ。ラフレールの元へ行こうじゃないか。やつもそろそろ待ちきれず、そわそわしだすころだろうさ」

 フレヤは女神の美貌に皮肉な笑みを浮かべる。

「ヴェリンダが、ここへ着くのを待たなくていいのか?」

 ガルンは苦笑する。

「あんたぁ、巨人のくせにおれの都合を考えるってのか?馬鹿いえ。なんにしてもヴェリンダとはこっちの用事を済ませてから会うほうが、おれとしては都合いいんだ。さあ、いこうぜ」

 ガルンは手招きして歩きだそうとする。ふと、歩みを止めた。

「いっとくけどな、おれがラフレールに会わせるのは巨人だけだ。ロキよ、あんたはここで待て」

 黒衣のロキは無表情のまま言った。

「好きにするがいい、狂った魔族よ。待たせてもらうよ、ここで」

 ガルンは頷くと朝日に包まれつつある天空城の庭を歩き出す。光に満たされてゆくその庭園で、邪悪な動く闇であるガルンはそこだけ切り取られて夜が残っているように見えた。

 純白のマントを翻し、フレヤはガルンの後に続く。ガルンは、城の下層部へと向かう階段へ歩いて行った。

 ガルンは、地下へと続く階段へ入り込む。フレヤもその後に続く。階段は奈落の底まで続いているかのように長い、螺旋階段である。

 薄暗い螺旋階段を、漆黒のガルンは静かに下ってゆく。その様は、影が薄暮の世界を冥界へ向かって、静かに降りてゆく様のようだ。白衣のフレヤは死神を追う天使のように、その後に続く。

 フレヤは階段を降るうちに、ある種の幻惑を感じた。それはある程度馴染み深いものになった、次元界を超える時の感覚である。その感覚は平衡感覚を失わせ、自分が向かっているのが地下なのか天上なのか判らなくさせた。

 無限に続く螺旋状の階段を異世界に向かって、漂っていくような気持ちになって降ってゆく。それは、何度も繰り返し味わってきた感覚のような気がする。

 時間感覚も次第に麻痺してゆき、自分がどれほど深いところまで降りてきたのか、よく判らなくなっていた。ただ、薄闇を渡る影のようなガルンを追い続けるだけである。

 一つだけ間違いないのは、闇がどんどん濃くなってゆくことであった。その闇には一つの意志が潜んでいる。凶悪な破滅への意志とでも言うべきもの。

 フレヤはその意志に覚えがあった。かつてアイオーン界の奥で対面したもの。つまり、ウロボロスの輪が纏う闇であった。

 天空城の地下、奈落の底のように深い闇の世界は、凶暴な殺戮と憎悪の情念が暴風のように吹き荒れる世界と化している。それは今まさに終末を迎えようとする世界の様であり、全てが死滅の運命を免れないことの啓示でもあった。

 フレヤは螺旋状に異世界を貫く通路をとりまく、巨大な輪の存在を感じる。ガルンは炎に引き寄せられる蛾のようにその凶悪な暗黒の輪を目指す。フレヤもその後に続き、ウロボロスの輪へ踏み込んで行った。

 唐突に全ての想念が途切れる。目の前を歩んでいたはずのガルンの姿も消えていた。気がつくと、フレヤの前後にあるはずの螺旋階段も消え去っている。

 フレヤは閉ざされた螺旋状の輪である、ウロボロスの内部へと入り込んでいた。

そこはしんとして、闇のみが存在する空間である。おそらくはここが世界の終わりであり、全ての死滅を内在する場所なのであろう。

 フレヤは気配を感じて振り向く。赤銅色の肌に金色に輝く瞳を持った若者がいた。

魔族のように強烈な気を発しているその頑強な肉体の持ち主は、間違いなく魔導師ラフレールであった。

「再び会えるとは思わなかったな、ラフレールよ」

 フレヤの呼びかけに対して、ラフレールは少し笑みを浮かべる。

「おまえを封じるのに失敗した後、私は考え続けた。私が誤ったのはなんであり、私はどうすべきであったのかということを」

 フレヤは不敵な笑みを見せた。

「もう一度、私を封じ込むつもりか?それともここで、私と一戦交えるのか?」

 ラフレールは穏やかといってもいい笑みを浮かべて、フレヤに応える。

「今では無い。私は、答えをえた。足りなかったのは私のほうではなく、おまえのほうだったよ、フレヤ」

 フレヤは挑むような瞳でラフレールを見つめている。対するラフレールは、死そのもののような静けさを身に纏ったままだ。

「フレヤ、おまえに問う。おまえは、世界をどう見ている?というより、おまえは自身をどう思っている?自分が世界にたった一人残った巨人だと思っているのか?世界に属することを許されない特異な存在だと思うか?」

 フレヤは哄笑した。

「何を問いたいのか判らないが、私は私だ。世界に真理があるのなら、この私だ。誤りがあり歪みがあるのであれば、それは世界のほうにある」

 ラフレールはやさしい笑みでフレヤを見る。

「おまえは正しいよ、フレヤ。しかし、それでは人間として不全であることも確かだ。おまえを全き存在にする必要がある。でなければ、おまえを封印することができない。おまえは、おまえ自身を正しく理解しているが、おまえがおまえ自身を完全に理解できていないがゆえの正しさだ」

 フレヤは苦笑する。

「何がいいたい、ラフレール」

 ラフレールは静かに笑みを浮かべたまま、フレヤに語りかける。

「私は二つのものをおまえに与える。第一に、黄金の林檎との一体化。そして第二に、おまえ自身の真の記憶。第一のものは今この場で与える。第二のものは、デルファイにておまえに与える。デルファイへはガルンが案内する」

 フレヤは怪訝な瞳でラフレールを見る。

「黄金の林檎を私に与えるだと?」

「そうだ。私が犯した過ちは、おまえと黄金の林檎が別々の状態で封印できると考えたことにある。まず、黄金の林檎を与える。後はガルンの導きに従って、デルファイへと行くがいい」

 ラフレールは左手を突き出す。黄金の光がそこから放たれた。光はフレヤの中へ吸い込まれる。

 フレヤは全身が燃え上がっているように、金色の光に包まれたのを感じた。自分が太陽と化したように強力なエネルギーがフレヤの中で渦巻き、燃えさかっている。

フレヤは思考が次第に白熱した力に呑み込まれてゆくのを感じた。意識が白熱した光の中へと呑み込まれる。それはある意味で至福の瞬間ですらあった。


 ミカエルは、天空城に降り立つ。立ち向かってきた天使たちは、全て撃ち落とした。ガブリエルとラファエルがその後方に降りる。ウリエルはバスターランチャーを構えたまま、上空で待機していた。

 黄金のジェノサイダを覆っていた青い光は消えている。ブーストモードは解除されていた。

 ミカエルはジェノサイダの視点で天空城を見回す。静かな森に囲まれた、円筒形の城が聳えるその場所は地上とそう大差が無いように思われた。

 ミカエルの背後からガブリエルが声をかける。

「何かおかしいわね、この場所は」

 ミカエルは頷いた。

「魔道が酷く不安定になっている。ジェノサイダのコンディションが悪化する程ではないが、通常の魔道は使えないようだな」

「天空城のせいだと思う?」

 ミカエルは首を振った。

「いや、これはむしろブラックソウルが言っていた、妖精城でウロボロスの力が開放された時の状態に似ているようだが」

「気をつけたほうがいいよ、ミカエル」

 連射砲を構えたラファエルが声をかける。

「もっとやばい力が潜んでる。というか、もうすぐそこに来てるぞ」

 ミカエルも感じていた。とほうもなく強大なエネルギーを持つ存在が、身近に隠れていることを。

 次元界を隔てて強大なエネルギーが潜在していることはそう珍しいことでは無い。

魔神といった強力な魔力を持った存在が降臨した場所は、場の性質が変質しアイオーン界のエネルギー場と繋がってしまうことがある。そうした場所は聖地となったり、禁忌の地となったりした。

 しかし、今感じられるエネルギーはそうしたものとは較べものにならないほど、強力なものだ。喩えるならば、巨大な恒星がそこに潜んでいるように思える。

 ガブリエルとラファエルが連射砲を構えた。エネルギーがさらに高まっている。

ミカエルが叫ぶ。

「来るぞ」

 空気が透き通った静かな森の中。

 そこに突然、巨大な光の柱が出現する。それは天空を貫く巨大な黄金の柱となり、あたりを光で覆った。ミカエルたちはあまりの衝撃に、一瞬視界を失う。黄金の光は突如天空に現れた光の洪水となり、天空城を覆い尽くした。

 巨大な光の柱は出現した時と同様に、唐突に消失する。ミカエルが焼け付くような光の圧力に奪われた視界を、再び取り戻した時には、光の柱は既に無かった。そこに立っていたのは一人の巨人である。

 輝く純白のマントで身を覆った巨人。青い瞳は晴れ渡った空のように明るく輝く。

金色の炎のような髪が、森を渡る風にゆらぐ。

 巨人の身の丈は、ほぼミカエルたちのジェノサイダと同じくらいである。巨人は長大な剣を抜く。ガブリエルとラファエルは真冬の風のような殺気に撃たれ、反射的に連射砲の引き金を引いていた。

 砲身から青白いプラズマ光が迸り、ガラスの破片のように微細な光の欠片が巨人の顔面めがけて放たれる。一瞬、赤い飛沫を散らせ巨人の頭部は粉砕された。純白の鎧とマントに赤い血糊がつく。

 そこに立っているのは首の無い死体である。血で汚れた白い墓標だ。

「あっけないな」

 ラファエルはそう呟くと、巨人の死体に向かって歩きだす。ガブリエルも連射砲の狙いはそのままにして、巨人へと歩き出した。

「待て!」

 ミカエルが全身の血が凍り付くような、本能的危機感から叫んだ時には、既に遅かった。ロスヴァイゼがミカエルの意志を感じ取り、ブーストモードへと移行する。

 黄金の光が巨人の死体に走ったのは、一瞬だけだった。瞬きする間も無い時間で、巨人の頭部が再生する。ブーストモードに移行したミカエルはかろうじてラファエルが斬られたことを知ることができた。

 ラファエルの漆黒のジェノサイダは頭頂から鼠径部まで一直線に切り裂かれている。ブーストモードに移行しているミカエルの意識ですら、巨人の太刀筋を見ることはできなかった。中に乗っていたラファエルも見事に身体を両断されている。ジェノサイダは人間の死体のように、龍の血を放ちながら大地に墜ちた。大地にまき散らされた龍の血は、青白いプラズマの火花を走らせる。

 龍騎士と意識の繋がっていた龍本体もおそらく龍騎士の死の衝撃で、死を迎えているはずだ。アイオーン界を、龍の幼生の死体は永遠に彷徨うことになるだろう。

 ガブリエルは本能的な動作で連射砲を放っていた。その狙いは正確であったが、巨人の速度には全くかなわない。

 ミカエルにできたのは、ブーストモードでその場を離脱することだけであった。

連射砲の射程より巨人を見失ったガブリエルも、ラファエルと全く同様に一瞬にしてその身体を縦に断ち切られる。

 ミカエルは目の前が昏くなるような無力感を感じた。全く歯がたたない。巨人の強さは、この世の理から外れたものとしか思えなかった。

 上空に離脱したミカエルはブーストモードを解除し、叫ぶ。

「ウリエル、バスターランチャーだ。巨人を撃て」

 ウリエルは長大なバスターランチャーの照準を巨人に合わせる。巨人は無言のまま、ミカエルとウリエルを見つめていた。そのサファイアのように輝く瞳からは、なんの感情も読みとることができない。まだ、殺戮の意志を明白に放つ天使たちのほうが、その考えを読みとりやすいと言えるだろう。その巨人は、完全にこの世界から解き放たれた存在と、化していた。

 バスターランチャーの砲身を何重もの虹が取り巻く。空を巨獣の咆吼のような轟音が覆う。煌めく光の破片が無数に巨人へ降り注いだ。

 夜空を駆けるはずの彗星が、地上へと落下したようなものである。天空城の森は白熱する光の球に包まれた。

 狂った雷雲が無数の稲妻をうち下ろすように、轟音と火花が地上を埋める。断末魔の火龍が放つ苦鳴のように、火焔が大地を舐め回した。

 光と爆煙が消え去った後、大地に穿たれた巨大な縦穴が姿を顕わす。大きな戦船がまるごと一隻入ることができそうな穴だ。

 その眼球を刳り抜かれた後の眼窩のような昏い穴に、巨人の死体の欠片すら見いだすことはできない。巨人の身体はおそらく熱と衝撃で分子レベルにまで分解されたはずだ。

 地上を見下ろすウリエルが呟くように言った。

「何があったんだ?ガブリエルとラファエルが斬られたのか?」

 ミカエルは呆然として呟き返す。

「まだ終わってない、気をつけろ」

 黄金の閃光が走ったのは、ほんの一瞬のことである。光が消えた時そこには、巨人の姿が再生されていた。穴の縁に巨人は立っている。身に纏ったマントや純白の鎧も再生されていた。

「位相をずらせて、バスターランチャーをさけた?しかし、呪術的に照準を定めた以上、逃れられるはずがない。どういうことだ?」

 ウリエルの言葉に、ミカエルが掠れた声で応える。

「あれは巨人では無い。巨人の姿をとった時空の歪みだ」

 ミカエルは一瞬、光が奔るのを見た。それはほんの一瞬のことである。その瞬間、ミカエルは本能的にブーストモードへ移行していた。視界の片隅に、ウリエルがゆっくりと墜落してゆくのが見える。

 ウリエルはその胴体を、巨大な剣に貫かれていた。貫かれた胴から青白いプラズマの火花が発せられているのが見える。ブーストモードに移行したミカエルの意識の中では、まるでウリエルがゆっくりと沼地へ沈んでゆくように感じられた。

 ミカエルは全身に震えが走るのを感じる。恐怖とも絶望ともつかないどす黒い思いが、心を覆っていくのを感じた。

 黄金に輝く剣を抜く。その輝きに反して、ミカエルの心は萎えていった。巨人の存在は聞いている。しかし、それがこれほどのものとは、全く予想していなかったことだ。

「りいーらぁーらぁーうぃらぁああーりぃあぁああ」

 突然、ミカエル自身が忘れていた雄叫びが口をついて出た。もう、六百年もの昔、ミカエルが別の名を持つ草原を駆ける戦士であったころの戦いの雄叫びである。

 ミカエルは、ブーストモードを全開にし、龍のエネルギーを最大限に使った加速で地表へ向かう。再び戦闘の雄叫びが口を裂いて出た。

「ありるぅーるぉーおらぁーあありぃあああーっうりぃぁああー」

 ミカエルのジェノサイダは音の壁を超え、全身を軋ませながら速度を上げてゆく。

ミカエルの頭の中は、白熱する高揚で真っ白になった。

 ジェノサイダの身体は、限界を超え炎につつまれる。広げられた両翼は、燃え尽き灰となっていった。ジェノサイダは天空より墜ちてゆく、星となる。

 なぜかミカエルは遠い昔、自分が人間だったころのことを思い出す。自分の中にそんな記憶が有ったこと自体が驚きであった。草原を馬を駆って走り抜け、王国の都市を略奪していたころ。人間としての恐怖や不安、戦闘の高揚があったころ。

 白い巨人めがけて降下してゆきながら、自分が戦う一人の個と化してゆくのが判る。

ミカエルは、燃え上がる意識の果てで巨人を見た。巨人は笑っている。それは、侮蔑や挑発の笑みではなく、慈母のように穏やかな笑みだった。ミカエルの意識は戦闘へのエクスタシーの中で白い闇へと呑み込まれる。

 ミカエルが気がついた時には、青い空が見えた。ジェノサイダの中ではなく、生身の身体が森の中にほうりだされている。

 身を起こそうとして、自分の身体が両断されていることに気付いた。下半身は、切断され見あたらない。再び、ミカエルは大地に横たわり空を見上げる。もう何も考えることができない。ただ、意識が深く昏い闇へと沈んでゆくのを待つばかりだ。

 視界の端に巨人が見えた。巨人はゆっくりと、森の奥へと向かう。


 飛空船の船室で、ヌバークが呟く。

「なにかが、おかしい。空間が安定していない」

 ヌバークは自分の額につけられた封印の刻印に手をあてる。その魔法文様が発する呪力は明白に衰えていた。

「始まったな」

 バクヤがにんまりと笑って、ヌバークに言った。

「ウロボロスの輪が封印を解かれたんや」

 ヌバークは邪龍ウロボロスについて大体のことは知っているつもりだった。ウロボロスは、かつて女神フライアの死体ごとグーヌ神を封じていたものだ。その内側では時空間自体が安定を失い、魔法は正しく動作しなくなるという。

 そしてウロボロスが封印を解かれると、魔法だけではなく因果律や物理法則自体が狂いだし、世界の安定性が消失するということを聞いていた。今、ウロボロスが解き放たれたのであれば、世界が崩壊してゆくということになる。

 ヌバークは自分の魔力を試してみた。魔力とは魔法を駆動する力であり、要するに自分が契約している精霊とコミュニケーションをとる力である。

 それは呪文といわれるものを通じて行う。呪文は言語ではあるが発音することは不可能であり、文字として描くことも完全な形では不可能である。それは思念の形として脳内に蓄積されるものだ。それは、言語というよりも、脳内に生き物を飼っている感覚に近い。

 呪文は魔導師の思念に応じて働く疑似生命体のような存在だ。その呪文が動作することによってヌバークの意識のチャネルが切り替わる。通常の意識では感じ取ることのできないアイオーン界がリアルなものとして認識できるようになり、次元界の位相を通常の風景を見るように感じ取ることができるようになった。

 ヌバークは呪文を作動させてみる。封印の魔法によって魔法は封じられてはいるが、呪文を作動させること自体は問題ない。封印の魔法とは、ようするに精霊の存在する次元界に意識の位相を転移させることを防ぐものだが、単に次元界を感じ取るだけであれば封印されていても可能である。よって、いつものように意識は切り替わってゆき、精霊の存在を身近なものとして感じ取れるようになった。

 ただ、今回はそれだけでは無い。いつもなら整然として感じ取れる各次元界の位相は、暴風に呑まれた海のように混乱している。精霊は怯えているようだ。ヌバークの呼びかけに、正しく応えることができない。

「どう?」

 エリウスが無邪気な顔で、ヌバークに問いかける。

「よく判らない。魔道が動作するかは試してみないと」

「それより」

 エリウスは笑みを浮かべて再度問いかける。

「その魔法の封印ははずせるの?」

「やってみよう」

 ヌバークはエリウスに応えると、魔道を作動させて魔法文様にアクセスしてみる。

封印の魔法とはようするに、場の性質を変化させるもので魔法としては簡易なものであった。ただ、魔法を解くことができるのが魔法をかけた術者だけに限定するようなロックがかけられている。

 本来その封印魔法にはその魔法を仕掛けた術者の属性が付加された。付加される情報は時空間に電磁気的場の性質として保存され、その表象として魔法文様が生じる。

この封印魔法にはヴェリンダの属性が付与されており、本来なら他の術者から読みとれないように、隠されているものだ。

 しかし、今は時空間が混乱しているため、その属性そのものが歪んできている。

ヌバークにとって封印魔法を解除するのはそう難しいことではなかった。

 バクヤが感嘆の声を上げる。ヌバークの額にあった魔法文様が消えた為だ。

「よっしゃ、こっちも頼むで」

 バクヤはヌバークの前に闇色の左手を差し出す。ヌバークは頷くと、闇色の腕に浮かんだ魔法文様を見つめる。こちらもあっさりと消えていった。

 バクヤはにんまりと獣の笑みを浮かべる。

「これでようやく、ブラックソウルの野郎と戦うことができる。さてと」

 バクヤの漆黒の左手は、一瞬鞭のようにしなやかな動きを見せた。鋭い音の後、錠前を破壊された船室の扉がゆっくりと開いてゆく。

「いこうか。ブラックソウルのやつを殺して地上へ帰るぞ」

 ヌバークたちは、船室から通路へと出た。船内に人の気配が無い。ひどく無防備に感じられる。歩きだしたヌバークへ、バクヤが声をかけた。

「おい、甲板に出る通路は、こっちとちがうんか?」

「その前にすることがあるだろう」

 ヌバークは無造作に船室のひとつに入り込む。出てきた時に、その手には一振りの剣が提げられていた。

 ヌバークはその剣をエリウスへ渡す。それはノウトゥングであった。エリウスは美しい顔に笑みを浮かべる。

「有り難うヌバーク」

 その様を見届けたバクヤ走り出した。飛空船の甲板へ向かって。その後にヌバークとバクヤも続いた。


 甲板へと出たバクヤたちの目の前には、壮大な光景が広がっていた。それは碧き天空に浮かぶ巨大な大地である。地表から見る空とは違う、澄んだ青さを持った空に、深緑の森林に覆われた島が浮かんでいた。それが天空城エルディスである。

 甲板から次々と小型の飛行機械が飛び立ってゆく。その飛行機械は卵形で4人乗りの飛行機械であり、尖ったほうを下にして音もなく空中を移動し、天空城へと向かっていった。飛空船の兵士たちはその飛行機械によって天空城へと移動していっているようだ。

 甲板の舳先には二人の人物が立ちつくし、天空城を見つめている。バクヤたちはその二人の後ろに立つ。ゆっくりと二人は振り向く。ブラックソウルとヴェリンダであった。

 バクヤはブラックソウルの瞳を見た瞬間に跳躍する。いっきに間合いをつめようとしたが、闇色の水晶剣がバクヤの行く手を阻んだ。

 黒い左手が水晶剣を弾く。ブラックソウルは数歩前にでる。バクヤとの距離は、後一歩踏み込めば手が届くところまで近づいていた。

 バクヤはブラックソウルの瞳を見て、その意識がほとんどトランス状態といってもいいほど深い集中の中にあることを理解していた。ブラックソウルの精神は凄まじい高速で働いている。

 同時にバクヤもまた、ラハン流格闘術でいうところの想の思念を呼び覚ましていた。ブラックソウルとバクヤは通常の世界から切り離された、二人だけの世界へと入り込んでゆく。その世界では全てが鮮明で、全てのものが無数の光彩を放っており、あらゆる存在が自分の心の中にあるように克明に把握できる。

 バクヤは、自分の周囲を四枚の水晶剣が舞っていることを知っていた。片手で二つづつの剣を操るブラックソウルは、四枚の剣を飛翔させバクヤに斬りかかる期を窺っている。

 ブラックソウルは剣の軌道を予測できないように、不思議な文様をなぞるかのごとく動かしていた。バクヤの想の意識ですら、その剣は凄まじく速く感じられる。

まるで空気が液体と化してしまったかのような高速の世界の中で、ブラックソウルの闇水晶剣は漆黒の稲妻のように飛翔していた。

 バクヤはゆっくりと自分の中の気が高まるのを待つ。策を弄するつもりは全くない。

 速さだけでブラックソウルに戦いを挑むつもりであった。

 ラハン流格闘術には意という概念がある。体内にある全ての筋肉の力を意識によってコントロールし、爆発的に強大な力を発生させる技であった。

 バクヤは意によって全身の力を蓄えていく。その力が臨界に達したとき、彼女は一本の矢となってブラックソウルに向かうつもりである。

 たとえブラックソウルの剣が自分の身体を切り裂いたとしても、魔弾のように加速された自分の身体はブラックソウルに激突し、拳が相手の身体を貫くはずであった。バクヤの脳裏に、陶酔といってもいいほどの激しい高まりが生じる。力が満ちる寸前まできていた。

 燃えさかる太陽が自分の身体の内に呑み込まれたように、意識が白熱する。バクヤは、自分を構成する全ての欠片までが戦闘の為に再編成されたと思う。

 同時に死をもたらす闇水晶の剣が漆黒の閃光となり、バクヤへ襲いかかろうとした。全てが最後の瞬間に達したとき、いきなりそれは起こる。

 暴風が巻き起こり、バクヤの身体が宙に浮いた。ブラックソウルの水晶剣も迷走し、目標を失っている。

 甲板に叩きつけられたバクヤは、呻きながら身を起こす。ブラックソウルの視線は、もう自分から離れている。バクヤはブラックソウルの視線を追った。

 そこに見たのは巨大な戦闘機械である。真白く輝く鎧を纏ったジェノサイダであった。その手には剣が持たれていた。

「いいところで、邪魔をしてくれたものだ、ラグエルよ」

 ブラックソウルはうんざりしたように呟く。巨大なジェノサイダはブーストモードで次元界を超えて移動し、甲板上で位相を元に戻して出現したのだ。その瞬間に激しい空気の乱れがおこり、バクヤは吹き飛ばされた。

『邪魔ですって、ブラックソウル殿。とんでもない。あなたの命を救ってさしあげたつもりですよ』

 ジェノサイダの放った言葉にブラックソウルは苦笑する。

「ふざけるな。魔道が作動しなくなった今こそ、おれとヴェリンダを殺すチャンスだと判断してここへ戻ってきたのだろう」

 純白の鎧を付けたジェノサイダは、少し笑ったように見えた。

『なぜあなたを殺さないといけないのです?これからあなたを殺そうとしている賊を退治してあげようというのに。もっとも』

 ジェノサイダの回りに、十個の光が灯った。

『破砕砲を使用したはずみに不幸な事故があって、飛空船が大破してしまうようなことは、あるかもしれませんけどね』

 ラグエルの乗る純白のジェノサイダは、目まぐるしく色彩を変化させる光輪につつまれている。存在する次元界を固定せず、位相をずらし続けている為だ。無限に変化する虹につつまれた破壊天使のようなジェノサイダの姿は、この世のものを超えた美しさでバクヤを魅了する。

 その苦痛と陶酔で朦朧としているバクヤの前に、ふとエリウスが現れた。エリウスの美貌は、純白のジェノサイダを目の前にして尚色褪せることなく、中原の深き闇に潜む魔として見る者の心を奪う。

 エリウスは、破砕の天使に挑む小さな悪霊のようにジェノサイダの前に立ちはだかり、無造作に剣を抜いた。無敵の刃を秘めたノウトゥングを。

 十発の破砕砲が放たれた。その瞬間、真冬の日差しのように冷たい輝きを放つノウトゥングの刃が、宙を舞う。

 ラグエルの純白のジェノサイダは炎につつまれた。破砕砲はその砲弾を放つ寸前に、砲身を切断されその爆発はジェノサイダ自身を火に包んだ。

 そして頭頂から鼠径部にかけて一直線に両断されたジェノサイダは自身の放つ炎の中へと沈んで行く。その様はあたかも天上より地獄の業火へとつきおとされてゆく、真白き天使のようであった。

 やがてジェノサイダ内部に仕込まれていた弾薬に火が燃え移り、紺碧の天空に次々と派手な火焔が立ち上がる。そこから炎の破片が飛来し、飛空船にも炎が燃え移り始めた。

 既に大半の兵士は飛行機械によって天空城へと移動している。無人に等しい飛空船は、次第に炎に犯されていった。

 ブラックソウルは、ため息とともにエリウスへ向かって呟く。

「おまえ、あのジェノサイダが斬れたのか」

 バクヤは、一瞬エリウスの瞳の中に、金色の光を見たような気がした。それはたんに、炎を写したものを見間違えただけなのかもしれない。しかし、今のエリウスには古き魔道の生き物特有の、澱んだ空気が纏ついていた。

「まあいい、おまえとはとりあえずここでお別れだ。また会おう」

 ブラックソウルは、ヴェリンダのほうを見る。ヴェリンダは不安定な時空の中で苦労しながら魔法を発動させていた。ヴェリンダは激しい集中のため、トランス状態に陥っている。

「待てよ」

 かろうじて立ち上がったバクヤが、ブラックソウルに声をかける。

「邪魔者は消えたやないか。続きはどうするんや」

「生き延びるのが先だろう、お互いにな」

 ブラックソウルはそっけなく言い放つ。同時にヴェリンダの頭上に、巨大な魔道によって次元口が出現する。召還魔法と呼ばれるものだ。

 次元口から出現したのは、半人半鳥の姿をした奇妙な生き物である。それは龍の幼生であった。ラグエルと契約関係にあった龍である。ラグエルの死と同時にその龍の幼生も死んでいたが、ヴェリンダは魔道によりその死体を操っていた。

 ブラックソウルとヴェリンダは、龍の幼生の背に跨る。

「じゃあな、王子。幸運を祈る」

 嘲るように言い終えると、ブラックソウルは龍の幼生と共に飛び去った。

 炎につつまれた飛空船に残ったのは、バクヤ、エリウス、ヌバークの三人だけのようだ。

「結局、おれらはここで焼け死ぬ訳か?」

 バクヤはうんざりしたように、エリウスに向かって言った。

「おまえの口車にのって空の上なんかに来てみりゃ、このざまやで」

「どうして?死ぬ理由なんかないよ」

 バクヤは言葉を失ったが、それ以上に驚いたのはエリウスが平然と甲板の外へ向かって、歩きだしたことである。

「あほ、やめろ」

 バクヤの制止と同時に、エリウスは空中に歩みだしていた。エリウスはまるで地上を歩いているように、空の上を歩いている。

 呆れ顔のヌバークが、バクヤに尋ねる。

「あの王子は魔道を使えるのか?」

「いや、そんなはずは」

 エリウスはきょとんとして、呼びかける。

「何しているの、早くしないと本当に焼け死ぬよ」

 ヌバークはおそるおそる空中に足を踏み出す。エリウスと同じように、空を歩きだした。バクヤも間近に迫った炎に背を押されるようにして、空に歩み出す。そして、エリウスのそばまでくる。

「これは一体?」

「ただの魔繰糸術だよ。魔道であけた穴をとおして、天空城と飛空船を糸で結んだんだ。僕らは糸で編んだ網の上を歩いてる」

 バクヤはおそるおそる下を見る。足下は凄くたより無い上、地上が見えないこの空の上ではとても落ち着いていられない。

「ヌバーク、風を起こせる?」

 エリウスの問いに、ヌバークは頷いた。

「じゃあ、風で天空城まで飛ばしてもらおう。糸の上を歩いていたんじゃ、天空城につく前に飛空船が沈んでしまう」

 ヌバークは精霊を呼び出した。同時に風が巻き起こる。バクヤは自分の身体が糸で編まれたネットに包まれるの感じた。同時にそのネットごと風に吹かれて宙に舞い上がってゆく。

 不思議な浮遊感があった。鳥になった気分とでもいうのであろうか。三人は精霊の起こす風に乗って無事天空城へとついた。

 そこは、地上にいるかと思わせる風景が広がっている。目の前には深い森が広がっており、そこには森へと続く道があった。背後は切り落とされたような断崖である。そしてさらに背後の空では、飛空船が炎につつまれてゆっくりと沈んでいく。

「精霊との繋がりが切れた」

 ヌバークが言った。

「ここの時空の混乱は、飛空船の上より酷い。もう、魔道は使えない」

 エリウスはにっこり笑って言った。

「ま、それはヴェリンダも同じことだから、条件は一緒ということだね。じゃ、行こうか」

 エリウスは無造作に森の中へ向かって、歩きだす。


 天空城の森は、太古の静けさを纏っている。その神々が地上にいた古き世界の気配を漂わす森の中を、無言で巨人が歩いてゆく。フレヤであった。

 真白き巨人は森の最深部へと入り込んでゆく。そこには、ひときわ大きな木が聳えている。それ自体が小さな山を形成しているような巨木であった。

 もし、その木をトラウスの神官が見たとしたら、それがまぎれもなくユグドラシルと同じ性質を持つ木であることを知り、驚くだろう。トラウスの象徴ともいえる聖樹ユグドラシルは、黄金の林檎の力を吸収し封印することができる樹木であった。

 フレヤは、おそらく自らを封印する力を持つ木の根元に来たことになる。その表情からは相変わらず何も読みとることができず、夢見る者のように慈母の笑みを口元へ貼り付けていた。

 巨木の根元で影が蠢く。そこは昼間でも昏く、影が澱んだ場所である。その影の中でもより濃厚で凶悪な気配を纏った闇が立ち上がってきた。その闇の中に墜ちた凶星のような、二つの光が灯る。

 闇は影の中から歩み出してきた。輝く黄金の瞳を持つ魔族の狂王ガルンである。

ガルンは木漏れ日の中にその姿を晒す。フレヤは歩みを止め、ガルンを見つめていた。

 ガルンは満足げな笑みを見せる。

「やはりここへきたか、フレヤ。おまえが自由になる為にはこの樹を破壊する必要がある。ユグドラシルの投影ともいえるこの樹こそ、今のおまえをコントロールしうる唯一の存在だからな」

 ガルンの言葉にフレヤは反応を見せることなく、ただ薄く微笑むのみであった。

魔族の狂王は、邪悪な笑みを深める。

「剣を抜いてみるがいい、巨人。おれとこの樹を、破壊してみせろ」

 フレヤの動きは人間の把握できる速度を超えていた。それでもガルンは魔族であり、神速の領域であっても把握できる能力がある。そのガルンですら、フレヤの剣は一瞬の閃光にしか見えなかった。

 ごおっ、と風が鳴る。フレヤの動きによって小規模な竜巻が発生していた。樹の枝がゆれ、軋み音が響く。

 ガルンはフレヤの剣によって、樹の幹に磔にされていた。剣の突き立てられた樹の幹には、巨大な亀裂が走っている。

 風が去っていった。静寂が戻る。ガルンは串刺しにされた状態でフレヤを見上げた。その姿は人の形態をとってはいたが、巨人は既に人と呼べる存在では無くなっている。凶暴なまでに大きな力が動きだそうとしているのを、感じた。

 それは、突然起こる。フレヤの瞳が一瞬黄金に輝いた。同時に、剣が凄まじい超振動をおこす。

 樹が悲鳴をあげた。全ての枝が小刻みに震え、幹は振動のため無数の亀裂を走らせてゆく。

 それは、大きな獣がのたうつ様を思わせた。地面も揺れ、根が大蛇のように地上を這い回る。

 ガルンの身体は、振動のため人間の形態を保つことができなくなっていた。その姿は次第に球形へと変化してゆく。そして剣の放つ超振動が極限にまで高まった時、ガルンの変化した漆黒の球体が炸裂した。

 ガルンの身体を形成していたメタルギミックスライムは、黒い霧状の存在となり宙に浮く。それは生きて、意志を持った闇である。その生きた闇は、フレヤへ襲いかかった。

 フレヤの真白き身体が、切り取られた闇夜のようなガルンの霧に覆われる。超振動は止まった。

 静寂が戻る。そして、フレヤを覆った闇が収束してゆく。

 闇は、巨人の形態を取った。立ち上がった巨大な闇と化したフレヤはゆっくりと、剣を納める。

 純白であった鎧もマントも、深き冥界の闇のような黒い色に染められていた。そしてその肌も、魔族と同様の闇色と化している。

 瞳が光を放つ。それは、ガルンとおなじ黄金の瞳であった。その奥にはガルンの持つ、凶暴な思念が潜んでいる。そして、黄金の炎のような金髪が闇の中から浮き出てきた。

 フレヤの顔から慈母の笑みが消えた。替わりにガルンが浮かべていた、破壊に飢えた獣の笑みが現れる。


 深い海の底が持つ静寂に満たされた、天空城の空中庭園。その麻薬を吸引したものが見る幻覚のように鮮やかな色彩の花々で満たされた空間に、老賢者の静けさを纏った少年の姿を持つ魔導師マグナスが佇んでいる。そして、その傍らには冥界の使者のような黒衣のロキが立っていた。

 二人の見下ろしているのは、水鏡である。その水鏡には、星無き夜空を纏ったように漆黒の姿となったフレヤが写っていた。暗黒の宇宙を僕としたような姿の巨人は、水鏡のなから凶暴な笑みを投げかけている。

 マグナスは、ふと空を見上げた。その瞳が紺碧の空の中に見いだしたのは、龍の幼生である。既に死体と化した龍の幼生は、魔族の女王であるヴェリンダの魔力によって操られていた。

 ブラックソウルとヴェリンダを背に乗せた龍の幼生は、悠然とマグナスの前へと舞い降りる。マグナスは微かに笑みを浮かべてその様を見ていた。

 狼の笑みを浮かべ、ブラックソウルはマグナスの前に立つ。ブラックソウルはどこか楽しげに黒い目を光らせながら、一礼をした。

「お招きにより参上させてもらったよ、マグナス殿。もっとも」

 ブラックソウルは黒曜石の輝きをもつ瞳に、嘲りの色を浮かべて水鏡をのぞき込んだ。

「我らを招いた本人は、ここにいないようだ」

 マグナスは老いた者が持つ静寂を纏ったまま、水鏡を示す。

「ご心配なく、今ガルンが挨拶にまいります」

 水鏡は黒い墨をたらしたように、闇に閉ざされてゆく。そしてその闇は、水鏡の中から立ち上がった。

 黒い水の柱は、闇水晶の彫像のようにきらきらとした輝きを放ちながら、魔族の姿を形どり始める。最後に、地上へ墜ちた星のような金色の光が二つ灯り、ガルンの姿が完成した。

『待ち侘びたぞ、ヴェリンダ。しかしいいタイミングでおれのもとへ来た』

 ガルンの姿をとった闇色の水は、泡立つ音のような声で語りかけてくる。ヴェリンダは、闇色の美貌に薄く笑みを浮かべ応えた。

「そのようだな」

『今、おれの手中に死せる女神の娘というべき巨人がおり、また、死せる女神の心臓である黄金の林檎がある』

 ガルンの両の瞳は、狂気の夜を支配する月が放つ光を宿しはじめた。

『おれとともに来い、ヴェリンダ。そうすればおまえの弟ヴァルラを解き放つ。そして、アルケミアはヴァルラにくれてやる。おれとおまえは人間どもの住む中原を支配しよう』

 ヴェリンダは、表情を変えない。ガルンは吠えるように言葉を続ける。

『なんならおまえのお気に入りのその人間を、王にしてやってもいい。おれたちで、中原を人間どもの血で紅く染めよう。大地に血の海を造ろう。死体の山を築こう。

幾万もの怒り、幾万もの絶望、幾万もの呪詛で大地を満たそう。恐怖と狂気による戦いを、地上に満ち溢れさそう』

 ヴェリンダは、薄く笑ったまま言った。

「神々の約定に背くというのか」

『そうだ。古にヌース神とグーヌ神がとりきめた、人間の手で黄金の林檎を天上へ返させるという約定。それはおれの手に黄金の林檎がある以上、無意味だ』

 ガルンの姿をした漆黒の彫像は、水でできた拳をつきだす。漆黒の滴がしたたり落ちた。

『かつてはラフレールの裏切りによって、おれの夢は潰えた。しかし、ラフレールは再びおれの味方だ。もうおれを阻止するものはない。人間を、あの白い家畜どもを踏みにじり、もう一度ヌース神とその僕である天使どもと戦う』

 ヴェリンダは冷静に言った。

「ヌース神に滅ぼされるのが、おまえの望みか?」

『馬鹿をいえ』

 ガルンの瞳は狂おしく光る。

『おれは巨人を手にいれた。黄金の林檎と一体化した巨人。その力をもってすればヌース神であっても滅ぼすことができる。おれにはそれが判る』

 ヴェリンダは嘲るようにいった。

「いずれにせよ、おまえのもとへ行くつもりは無い」

『なぜだ』

 ガルンは狂ったように叫ぶ。

『なぜおまえは家畜とともに生きる。おまえとて魔族だ。狂乱と破壊、絶望と死を愛する魔族のはずだ。なぜおまえは』

 ヴェリンダは静かに答える。

「私の望み、いや、私とブラックソウルの為そうとしていることを、教えてやろう」

 ヴェリンダは、厳かといってもいい口調で語り始める。

「ヌース神を滅ぼしたとしても、その父であるサトス神がいる。双子の神であるヌース神とグーヌ神を産んだ女神であり、この宇宙の外から侵入してきた存在であるフライア神を殺した死の神、サトス。そしてさらにサトス神の父である宇宙神マクスル。そのマクスルは絶対者クラッグスの投影にすぎない。いいか、ヌース神は宇宙の最下層の神だ。この我らの世界は、宇宙の最も深く昏い地の底に造られた牢獄なのだ。上位階層は、ヌース神やグーヌ神とは較べものにならないような強大で、果てしない存在が支配している」

 ガルンはヴェリンダの言おうとしていることに気がついたらしく、凍り付いたように動きを止めている。

「我々の次元界とは比較にならない強大で果てしのない上位世界。そこにはより高度な知生体が存在し、我らの想像を超えた高度で完成された文明が存在するともいう。おそらく我々にとって人間が家畜であるように、上位世界の存在からすれば我々もまた家畜同然なのだろう。そんなことが許せるか、ガルン?」

『そんな、しかし、』

 ガルンは言いよどむ。ヴェリンダは冷静に言葉を続ける。

「私の望みは上位世界の最上位に存在し、この宇宙そのものといってもいい絶対者クラッグスを滅ぼすことにある」

 ガルンは苦しげに言った。

『こ、この宇宙を滅ぼすというのか?』

 ヴェリンダは嘲るような笑みを浮かべたまま言った。

「そうだ。私とブラックソウルの望みはこの宇宙を破壊し尽くし、その向こう側、つまりフライア神が存在していたであろう、宇宙の外へゆくことだ」

 ガルンは呻くような声をあげる。

『できる訳がない、そんなことが』

「できるさ」

 ブラックソウルは楽しそうに、割ってはいる。

「あんただって、いや、あんたこそ本当はよく判っているはずだ。黄金の林檎の力を使えば、それができるということを」

 ガルンは沈黙した。ブラックソウルはとても楽しげに微笑む。

「さあ、もうあんたにはその黄金の林檎は不要のものだろう。ヴェリンダとの愛の王国が造れないのなら、あんたは存在する意味すらない。おれに黄金の林檎を渡せ」

 ガルンは静かに言った。

『おれのせいなのか、ヴェリンダ』「さあな」

 ヴェリンダは薄く笑みを浮かべて応える。

「しかしもし、父を殺され全ての魔法が作動しない世界デルファイに幽閉された状況でなければ、ブラックソウルに宇宙の外へゆくという望みを聞かされたとしても相手にはしなかったろうよ。そういう意味ではおまえに感謝してもいいぞ、『狂王』ガルン」

 ガルンはひどく落ち着いた声で言った。

『おまえを殺す、ヴェリンダ』

 ガルンは悽愴な気配を漂わせながら、言葉を続けるる『おまえに宇宙を破壊させるつもりはない、ヴェリンダ。おれがおまえを殺す』

 ガルンの姿をしていた黒い水は、突然崩れ落ちる。

「困ったことになりましたね」

 マグナスが、笑みを浮かべながら言った。ブラックソウルが苦笑する。

「やけに楽しそうだな、マグナス殿」

「そうですか?とにかくあなた方や、ガルン殿に黄金の林檎をまかせられないことがよく判りました。黄金の林檎は私が手に入れます」

 マグナスの背中に、巨大で白い羽が出現した。マグナスの身体を憑坐として、魔神ベリアルが降臨しようとしている。マグナスは、とても楽しそうに笑っていた。

「なるほど」

 ブラックソウルは納得したように頷く。

「あんたは死ぬ気だね、マグナス殿」

 マグナスの身体は変貌してゆく。マグナスの笑みは恍惚とした喜びに溢れていた。

「私はね、ブラックソウル殿」

 マグナスの身長は倍以上に伸びて行く。身につけていた衣服は破れ、身体が顕わになった。その上半身は天使の羽を備えたものであるが、下半身は獣の獣毛に覆われており、足には蹄がある。

「奇形としてこの世に生まれてきたのです。私はしゃべることも歩くこともできない存在でした。その奇形である私は、神託によってベリアル神への生け贄に選ばれたのです」

 マグナスは、天使の上半身と獣の下半身を持つ魔神ベリアルへ変貌した。

「全部で十三人の子供が生け贄として捧げられました。私以外の十二人はベリアル神によって魂を貪り喰われました。そしてベリアル神は私の魂をも喰らうために、私の中へ入り込んだのですが、そこで予想外のことがおきました。ベリアル神は私の身体に捕らわれてしまったのです。それは、私が奇形であったことと関係したようです。そもそも私が奇形で生まれた原因が、ベリアル神を罠にかけるために私の母親へ魔道がしかけられたことに、あるようなのですが」

 マグナスは輝くような天使の美貌でブラックソウルを見下ろし、語り続ける。

「それは、私にとっても、ベリアル神にとってもつらいことでした。人々はベリアル神を私の肉体ごと破壊しようとし、何度も私を殺そうとしました。しかし、神の憑坐である私は切り刻まれても、焼き尽くされても死ぬことができませんでした。

私は殺され続ける運命から逃れるため魔道を学び、いつか大魔導師と呼ばれるようになったのですが、私の望みは常に一つだけでした」

 マグナスは美しい天使の笑みを見せる。

「私は死んで開放されたいのです」

 マグナス=ベリアルは翼を広げ、空へと舞い上がった。そして、森を目指す。

「やれやれだな、ロキ殿」

 一人残った黒衣のロキに向かって、ブラックソウルは語りかける。

「どいつもこいつも勝手なことしやがって、というところですかね、あんたとしては」

「マグナスは、ガルンに殺されることを望んでいる。ガルンがうまくフレヤと黄金の林檎をコントロールできれば問題ないが」

 ロキはいつものように感情を感じさせない声で続けた。

「そうでなければ、少しやっかいだぞブラックソウル」

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