第2話

 トラウスの象徴ともいうべき巨大な樹、ユグドラシル。それは、遙かに離れた地からでも見ることができるほど、高く聳えている。その天の高みに届くほどの世界樹は、周囲をアウグカルトと呼ばれる山に囲まれていた。その山々は、ユグドラシルの根本に広がるトラウスを取り巻く形に峰を連ねている。

 トラウスのある山々に囲まれた平地には広大で美しい湖があった。その湖から西方に向かって河が延びている。その河はアウグカルト山地の西側の切れ目から西海へ向かって流れていた。その河の下流、西海へ流れ込むところに快楽の都と呼ばれるサフィアスがある。

 サフィアスは、女性の乳房を思わせる優美な曲線を描く丘陵に築かれた都市であり、神殿群であった。そのなだらかな丘陵の頂には女神フライア神の神殿がある。

その神殿の周囲には祭儀場でもあり娼館でもある建物が無数に建てられていた。

 フライア神というヌース神の母親でもある神を主神とするフライア教が、娼館も営んでいるというのは一見奇妙に思える。しかし、娼館の経営はフライア教の趣旨と決して矛盾するものでは無い。

 ヌース教は人間を始めとするあらゆる生命体は、誤ってこの宇宙に来てしまったものであり地上での人間の役割は、宇宙の秩序を乱さないよう徹底的に節制を行うこととされていた。そもそも人間がこの宇宙に存在することが過ちであるのだから、本来人間が子孫を造ることは許される行為ではない。ただ、星船を復活させ黄金の林檎を金星に帰すために働くことによって始めて人間に生きることや子孫を絶やさぬことの意義ができくるとする。

 フライア教は、ヌース教とは正反対といってもいい立場にたつ。人間がこの宇宙に来てしまったのは過ちであったとしても、生命の存在はこの宇宙を救罪しより大いなる秩序へ帰すことができると教えた。つまり、人間が生き、地に満ちあふれることによってこの宇宙全体を救うことができるというのだ。

 ヌース教が徹底した節制と禁欲を強いるのに対し、フライア教は欲望を肯定し、性愛による喜びすら善なるものとする。豊穣こそフライア教の目的であり、フライア教の祭儀では常に大量の蕩尽が行われた。神に捧げるための大量の食物や酒を消費し、人々には等しく性愛の喜びを与える。これがフライア教の教えであり、様々な性愛の秘技を追求し美と快楽の僕であることを自認するフライア教徒が娼館を営むのは、必然的といってもよかった。

 ある意味では、フライア教はグーヌ教と似ているといってもいい。しかし、グーヌ教は宇宙の秩序を真っ向から否定し、魔法によって秩序を破壊するのを目的とするが、フライア教はあくまでも宇宙の中に新たなる秩序を生み出すことが目的であった。

 フライア教は、ヌース教が支配階級のものたちに圧倒的に支持されているのとは対象的に貧しい者、虐げられる者たちのための宗教といってもいい。フライア教団は貧しく生きるための術を奪われた女たちに性愛の秘技を伝え、生きる場所と手だてを与えた。

 また、フライア教はヌース教によって否定された様々な土俗宗教をその配下にとりこんでいる。王国の建国以前、魔族たちが中原を支配していた時代に人々の間には様々な神々が存在し、崇拝されていた。ヌース教はそれを一掃したが、フライア教はそれらの土俗信仰も自らのうちにとりこんでゆき、複合的な宗教となっている。

 サフィアスの中心部はフライア教の神殿によって構成されているが、西海に面した港の近くは種々雑多な人種、フライア神の息子や娘となることにより生き延びた土俗の神々が存在した。そこは混沌とした街であり、港から入り込んでくる南方や北方の名産品も商われ、フライア神の娼館を目当てに中原のあちこちから訪れる富裕商人や貴族たちによって経済的に潤っている。

 オーラ軍はトラウスを陥落させると同時に、このサフィアスへも兵を進めた。サフィアスは軍事力を持たないためあっさりとオーラの支配を受け入れている。オーラ軍はサフィアスに駐留しているが、その目的は不可解であった。

 元々中原における軍事バランスから考え数年先になるはずであったトラウスへの進軍と同様に、オーラが軍をこのサフィアスに駐留する理由を説明できるものはいない。ただ、かつて賑わったサフィアスの街も戒厳令下にあるように静かになったという事実だけがある。


 神官の衣装を纏い、フードつきのマントとベールで顔を隠した人影がサフィアスの市街を歩いていた。オーラによる軍事封鎖以来、夜間の外出は禁止されたこともありまだ陽がくれたばかりであるというのに、歩く者はほとんどいない。

 月の明るい夜である。フライア教徒の僧衣である白い布に金の糸で模様を刺繍した長依を纏ったその人影は、港の近くの複雑に入り組んだ小路を足早に抜けていく。

目指しているのは、サフィアスの中心部である丘陵の頂であるようだ。

 月明かりの元、土俗の神々の壁画が描かれた街の中を進んでゆく。普段であれば、市も立ち南国の果物や供物の獣、着飾った売笑婦で賑わっているであろう街も喪に服しているように静かだ。

 僧衣を纏った者は、巧みに小路を抜けていたがふと道を誤ったのか、サフィアスの中心部に向かう大通りに出てしまう。とたんに、声をかけられた。

「おい、そこを行く者」

 長剣を腰に提げた、オーラの兵士である。巡回の途中のようであった。四人一組の小隊である。甲冑を身につけているわけではないが、制服の下に帷子は着込んでいるようだ。

 僧衣のものは、兵たちに行く手を阻まれ壁際へ追いやられる。

「顔を見せろ」

 兵の言葉に従い、その者はベールを下げる。女のようであった。月明かりの元で見る限りではかなりの美貌の持ち主である。

 兵たちは、薄笑いを浮かべていた。

「私は、ナルディス様の統べる神殿のもの。名はカーラ。所用があって港にでていましたが、今帰る途中です。通していただけますか」

 女は落ち着いた声でいった。兵たちは薄笑いを浮かべたままだ。

「信じられないのならば、ナルディス様に問い合わせていだければ」

「いや」

 兵士は、低い声でいった。

「そうなのかもしれない。多分、そうなのだろう」

 兵士たちは、じっとカーラと名乗った女の美貌を見つめている。貼り付くような視線であった。

「問題は、陽が暮れたあとの外出は禁じたはずということだ」

「ええ、陽のあるうちに帰るつもりでしたが、所用が長引いて」

「いや、そうなのだろう。まあ、そんなことをいちいち咎めたりはしたくない。しかし、決まりは決まりだ。本来ならばあんたを捕らえる必要がある」

 兵士たちは、にやにやと笑う。

「まあ、ひらたく言えばだ。あんたは娼婦なのだろう」

 カーラは頷く。

「おれたちは、遠い異国から長い遠征のはてにこの地へ辿り着いた。軍隊の生活というのはあじけないものでね。死と隣り合わせだが、楽しみというのは何にもない。恋人や家族も遠い故郷に残してきているしな」

 兵士たちは顔に笑いを浮かべたままだ。女は無表情で兵士たちを見ている。

「そんなおれたちがこの娼婦ばかりの街にきたというのはだ。飢えた獣の前に肉の固まりをほうりだすようなもの。そう思うだろ」

 女の美貌に始めて笑みのようなものが浮かぶ。兵士たちは顔を見合わせ頷きあった。

「あんたのもつフライア神から授かった秘技というやつを見せてもらえれば、おれたちの信仰も高まってあんたへの信頼も増す。そうなりゃ夜中に出歩こうが知ったことじゃない。そう思うだろ、あんた」

「ここでしますか?」

 女の言葉に兵士たちは少したじろいだ。こうあっさり受け入れられるとは、思っていなかったようだ。

「いや、ここではまずい。どこから見られているか判らんしな」

 女は頷くと、振り向き歩き出した。兵士たちはその後を追う。女は小路の中に入り込むと、街の奥へ進む。

 やがて、小さな広場へでた。小振りの祭壇があり供物がある。おそらく土俗神の祭儀場なのだろう。

「じゃあここでやるか」

 兵士の言葉に、女が答える。

「馬鹿だろ、てめえら」

 女はフードを払いのける。そこから現れたのは、少年のように短く刈り込まれた頭であった。同時にマントを脱ぎ去り、よく鍛え上げられ筋肉質の両腕が顕わになる。そして、目を惹くのは左腕であった。

 影を切り取り腕のかわりに貼り付けたような漆黒の腕。それが女の左肩から生えている。女はさっきまでの無表情とうって変わって闇に潜む獣の瞳で兵士たちを見据えていた。

 兵士たちは思わず数歩後ろに下がると、剣に手をかける。

「だいたいやな、どうみても妖しい女を捕まえて即斬るどころか自分たちから人気の無いところに来てくれるとはや」

 女は野獣の笑みを見せた。

「ありがたい話ではあるんやけどな、おれにしてみれば」

 兵士たちは剣を抜いた。動揺は消え去り、冷静に隊形を整えつつある。二人が正面に立ち、残りの二人が左右へ回った。

 正面の兵士は、剣を青眼に構える。正面から牽制し、左右から切り込むつもりらしい。一瞬、女の黒い左手が鞭のようにはしる。

 正面の兵士たちが呻いた。その剣は二本ともへし折られている。

 女の漆黒の左手が、蝋が溶けていくように滑らかに延びてゆく。先端は細くなりレイピアのような形態を取り始めた。

「どうしたんや、メタルギミックスライムを見るのは始めてか?」

 女の言葉に反応したように、左右の兵士が切り込もうとした。しかし、それより早く闇色の左手が黒い風のように動く。その速度は肉眼で捕らえられるものではなかった。

 左右の兵士の切り落とされた首が、地面に落ちる。正面の二人の兵士は、短剣を抜き夢中で飛びかかってきた。

 女はサイドステップで身をかわすと、漆黒の左手を疾らせる。兵士たちは胴を薙ぎ斬られ、地面に倒れた。はみ出た内蔵が、湯気をあげながら地面をのたうつ。流れ出た血が月明かりの下で、鈍く光った。命の輝きを失った兵士たちの瞳が、虚しく月を見上げる。

 女は再びマントを身に纏うと、その場を立ち去ってゆく。


 サフィアスのなだらかな丘陵、その中腹にある娼館に王子エリウスはいた。娼婦でありフライア神の巫女でもある神官の煌びやかな僧衣を、身につけている。その姿は群を抜いて美しく、口を開かなければその女装を疑うものはまずいないだろうと思われた。

 エリウスは、部屋の窓から月明かりに照らされたサフィアスの街を見下ろしている。その茫洋として何も考えていないような瞳に、一瞬動きがあった。

「あれ?」

 エリウスの眺めていた窓に、漆黒の手がかかる。そして、ぬっと少年のように髪を短く刈り込んだ頭が現れた。

「ようエリウス、久しぶりやな」

「バクヤなの、どうしてここへ?」

 バクヤと呼ばれたその女は、黒豹のようにしなやかな身のこなしで部屋の中に入り込む。にいっと、美貌に似合わぬ野性的な笑みをうかべてエリウスを見つめた。

「ユンク先生に聞いたんだよ、おまえがここにいるって」

「ああ、なるほどね」

 エリウスはふっ、と笑った。

「なんだか騒がしい夜だと思ったんだ。おまけに、血の臭いがするし」

 バクヤは、あぐらをかいて座り込む。

「返り血は浴びなかったつもりやけどな」

「で、僕に用事があるの?」

「いや、ただの挨拶や」

「ふうん。で、この街で何をするつもり?」

 バクヤはにこにこと楽しそうに笑う。その瞳には獰猛な輝きが宿っている。

「ここにブラックソウルが来ているからな。ここならやつと接触するチャンスもあるやろう」

「えー、やだなあ」

 エリウスはふくれ顔になる。

「騒ぎがおこると巻き込まれちゃうしなあ。敵うちなんて、もうやめちゃえば」

「あほか、おまえ」

 ばん、と右手でエリウスの頭をはたく。

「自分の父親と姉を殺した相手をそう簡単に諦められるかい」

 エリウスは、むっとなって頭をさするがバクヤはきっと睨み付ける。

「大体やな、おまえも父親をオーラ軍に殺されたんやから敵をとらなあかんのちゃうか」

「うーん、父さんはうまいこと逃げたよなあ」

「なにぼけかましとんねん」

 ばん、と再びバクヤはエリウスの頭をたたく。

「こんなところでぼーっとしてないで、軍を率いて反攻せんかい」

「んー、でももう僕、関係ないもん」

 バクヤは目を剥いた。

「そんなこと誰が決めた」

「僕」

「あほか」

 ばん、ともう一度バクヤはエリウスの頭をたたいた。

「でも、誰も僕に期待してないし。僕に軍を貸すほど頭のいかれた貴族はいないよ。いたとしたら僕を利用したいだけだろうし。トラウスなんて潰れちゃったんだから、もうどうでもいいじゃん」

 バクヤは、もう一度叩こうとして手をあげる。エリウスは反射的に頭を押さえた。

しかし、バクヤは思い直し、ふっ、とため息をつく。

「まあ、確かにおまえみたいなあほたれに率いられる兵士は、可哀想やな」

「そうそう」

「おまえがいうな」

 バクヤは脱力した気分になり、腕を組む。その時、扉が叩かれた。

「誰?」

「失礼します、エリウス様。サラです」

 神官の姿をした女性が部屋に入ってくると跪いた。一瞬、バクヤのほうに視線を投げかけるが、何も言わない。

「エリウス様に会いたいという者が、ここにきましたので」

「ふうん」

 エリウスはぼんやりと、サラと名乗った女性を見る。髪は短く切りそろえられ、どこか少年のような凛々しい輝きを持った女性である。僧衣を身につけているが隙はなく、身のこなしも機敏そうだ。おそらく神聖騎士団の一人だろうとバクヤは判断する。

「賑やかな夜だな。どうしてその人は僕がここにいるって判ったの?」

「そのものは、アルケミアからきた魔導師と思われます」

「アルケミア?」

「魔導師?」

 エリウスとバクヤは同時に驚きの声をあげる。

「まさか魔族、てことはないよねぇ」

「もちろん、違います」

 エリウスの疑問を、サラはきっぱりと否定した。

「じゃ、会ってみようか」

 軽くいったエリウスに、ちょっとサラは不満げな顔したが、エリウスを導き部屋を出た。


 そこは祭儀場である。ここでいつもフライア神に捧げる祝宴が催された。そこは、華麗に飾り付けられた場所である。色鮮やかなタペストリが壁にかけられ、家具や内装は流麗な曲線を描く修飾過多ぎみなデザインが為されていた。見る者によっては悪趣味ともとれるほどの派手なデザインであるが、かろうじてそれを見るに耐えるものにするだけの緻密な技が使われている。

 その華やかな空間に、最も似つかわしくないであろう人物が佇んでいた。そのものは、魔導師が好んで身につける灰色のフードつきマントで全身を包み込んでいる。

その容姿も体型もよく判らない。その姿は逢魔が時に浮かぶ幻影のようであり、冥界に住まうものに相応しい。

 その魔導師の前に、エリウスがバクヤとサラを伴って現れた。白の長依に金と銀の糸で華麗な刺繍を施した僧衣を身につけたエリウスは、つかつかと魔導師の前に歩み寄る。煌びやかといってもいい女装姿のエリウスと、黄昏の国より彷徨いいでた灰色のマントを身につけた魔導師は実に対象的であった。

 エリウスは、顔を傾けフードに隠れた顔をのぞき込む。

「へえ、黒い肌なんだ」

 エリウスは、手をフードにのばす。魔導師はエリウスの手を激しく払いのけた。同時にエリウスの手にあたってフードがはね上げられる。

 そこに現れたのは、黒い肌の少女であった。黒い肌といっても魔族の肌のように星無き夜の闇の黒さでは無く、暁の太陽の輝きを内に秘めた黒さである。近づけば草原を渡る太陽の熱を吸収し焼け焦げた風の臭いを、感じさせるであろう肌の色だ。

 髪は黒い直毛で、短く切りそろえられている。瞳は、琥珀色に近い輝きを持っていた。その沈みゆく太陽の輝きを閉じこめた瞳はエリウスを見つめているが、その中には明らかにおぞましきものをみる色がある。

 エリウスはにこにこと楽しげにその少女を見ていたが、唐突に手を延ばす。

 反射的に少女は退いた。エリウスは、あははと笑う。

「ふーん。僕が怖いわけ?」

「白い肌は汚らわしいものと教えられてきたからな。アルケミアでは白い肌の者は家畜として扱われる。おまえの肌の色に慣れるには、時間がかかりそうだ。おまえが、エリウスなのか?」

「そうだよ」

 エリウスはにっこり微笑んで答えた。黒い肌の少女は、侮蔑の感情を含んだ目でエリウスを見つめている。嫌悪の為か、眉間に皺が寄せられていた。

「私はアルケミアの魔導師、ヌバークだ。それにしてもおまえ、そんなに黒い肌が珍しいのか?」

「うん」

 エリウスは素直に頷く。

「サフィアスにはズール族やバギ族の住む区域があると聞いている。黒い肌はそう珍しくも無いと思うが?」

「いや、僕サフィアスに来て間が無いもので。オーラ兵が駐留してるから出歩けないし。それで、僕になんの用?」

「とりあえず、もう少し後ろに下がってくれ。白い肌のものが近くにいるのは、落ち着かない」

 エリウスは数歩下がる。かつてヌバークと名乗った少女ほど、この美貌の王子をここまで嫌悪を込めた瞳で見たものはいなかっただろう。ヌバークはようやく落ち着いたというように、ため息をつく。

「おまえが、エリウスという名の者であれば、頼みたいことがある」

「なんだかさあ」

 エリウスは、にこにこしながら言った。

「人のこと汚らわしいとか家畜とかいっといて、頼み事するなんて調子よすぎない?」

「いや、別におまえのことを」

 慌てて弁解しようとするヌバークを、エリウスは手をあげて止める。

「でもいいよ、助けてあげよう」

「おい、エリウス」

 後ろでバクヤが言った。

「おまえ、何考えとるんや。今の自分の立場が判ってるのか」

「もちろん」

 エリウスは、ヌバークを見たまま言った。

「でも、こんな可愛い女の子の頼み、聞かないわけにはいかないでしょ」

「おい、」

「エリウス様!」

 バクヤとサラが同時に声を上げるのを、またエリウスは手を上げてとめる。

「でもね、ヌバーク。君も人に頼み事する時に、手ぶらってことはないよね」

「ああ」

 ヌバークは頷いた。

「もしも、我々に助力がもらえるのならエリウス、おまえが自分の国を取り戻すために我々が手を貸してもいいと思っている」

「と、いってるんだけど」

 エリウスはにいっと笑って、バクヤのほうを振り向く。

「やっぱ僕もトラウス奪回のために奮闘したほうがいいのかなあ、どう思うバクヤ?」

 バクヤはやめとけ、あほという言葉をかろうじて呑み込んだ。さっきさんざんエリウスを叱りとばしたのを思い出した為である。

「おまえの問題や、すきにしたらええやないけ」

「だよね」

 エリウスは、純真といってもいい瞳でヌバークを見つめると、言った。

「んじゃ、詳しい話を聞こうか」

 ヌバークは胡乱げな瞳でエリウスを見る。どうもこの目の前の男は得体が知れない。考えが読めなかった。というより何も考えていないのかもしれない。そう見せかけて、計算尽くのような気もする。

 ヌバークが迷いを振り切るように首を振ると、口を開こうとした。その時、祭儀場に一人の少女が入ってくる。作務依のような服を身につけた少女はまっすぐサラの元へゆく。サラの耳元へ何かを囁いた。サラの顔が少し蒼ざめる。

 その瞬間、オーラの兵たちがその祭儀場へ入ってきた。全部で8人。小隊二つ分である。バクヤは咄嗟に身を隠していた。サラが小隊の前に立つ。エリウスはヌバークを隠すようにその後ろに回る。

 小隊長らしい男が一歩前に出た。同時にサラが激しい口調で言う。

「神前です。ここで暴力を振るうことは許しません」

 小隊長は苦笑を浮かべる。

「おれたちは、トラウスの神殿を蹂躙してきたばかりだぜ。いずれにせよ、おまえらに用は無い。用があるのはそこの魔導師だ」

「グーヌ神とフライア神を共に敵に回すというのですか」

 サラの言葉に小隊長はさらに笑いを深める。

「だからおれたちはもう、中原じゅうの神様を敵にまわしてるんだよ。おい、魔導師殿、我々にはあんたの術はきかないよ。おれたちの鎧はヴェリンダ様自身の手で魔封じの呪術文様が刻印されてるからな。おとなしくこいよ。でないと死ぬことになるぜ」

「気をつけなさい」

 サラはうんざりしたような口調になって、言った。

「警告しておきます。今すぐここから立ち去らなければ死ぬのはあなたがたです」

 小隊長はサラに負けないうんざりした口調で言った。

「だからおれたちはもう、百万回くらいは地獄に行くくらい神域を犯してきたんだって。神罰なんざいまさら」

「いやいや、そうじゃなくて」

 突然エリウスがのほほんとした口調でしゃべりだす。

「サラの警告は正しいよ。僕もいっとくけど、今すぐここから立ち去るか、ここで死ぬかそのどちらかしか君たちには選択子がないよ」

 オーラの兵たちは、ぎょっとしたようにその青年の声で語る美貌の人物を見た。

その常軌を逸しているといってもいい美しさと黒髪、黒い瞳。その特徴にあてはまる人物を兵たちは知っていた。

「まさか、あんた」

「あたり、だよん」

 エリウスのひとを喰ったものいいに、兵たちは一斉に剣を抜いた。戦闘陣形をとる。素早く二人一組の兵がエリウスの前後左右に展開した。

 エリウスは美しい瞳で夢見心地に兵たちを見ている。小隊長は残虐な笑みを投げかけた。

「こいつはいい拾いものをした。王子エリウス、噂通りの美しさだ」

「いやもう、王子じゃないって。トラウス無くなっちゃったし」

 オーラの兵士たちは羊を囲む野犬の群のように、殺気立っていた。その瞳には血肉を引き裂く欲望が渦巻いている。欲情しているかのように激しい気がその全身から立ち上っていた。

 対するエリウスは夢の中にいるように、佇んでいる。異なる時間の流れにいるもののように、兵たちを無視して薄く笑っていた。

「僕は一応警告したからね、みんな」

 小隊長はエリウスを捕らえるつもりは無い。優れた剣士と聞かされているからだ。しかし、8人の訓練された兵士に囲まれて切り抜けられる剣士がいるとは思えない。

 だいいちエリウスは剣を身につけてさえいなかった。要するに血が見たかっただけなのかもしれない。目の前の美貌の王子が血の海に沈む様が見たかったのだろう。

 小隊長は号令を発するべく口を開いた。しかし、声は出ない。一瞬、視界の片隅に閃光が走ったような気がしている。

 ふと小隊長は自分の身体が血塗れであることに気付いた。その血は自分の喉から流れているようだ。薄れていく意識の中で、自分の部下たちも同様に血塗れであることに気付く。

 何が起こったのか判らぬまま、オーラの兵たちは糸の切れた操り人形のように倒れていった。エリウスは一人薄く笑いながら、緋のビロードを床へ敷き詰めたような血塗れの祭儀場に立っている。ヌバークは思わず戦慄とともにエリウスの手にある水晶剣を見た。

 フェアリーの羽のように薄く氷のように透明なその剣。刃渡り三十センチほどの剣をエリウスはエルフの紡いだ絹糸で操ったのだ。

 兵たちの首筋を掻き斬るのに、瞬きするほどの時間しか必要としなかった。到底人間のなしうる速さではない。

 エリウスは物陰からあらわれたバクヤに声をかける。

「一緒にいくでしょ、バクヤも」

「なんでおれが」

「だってオーラの兵が踏み込んだということは、ここはもう包囲されてるよ。脱出するのに僕の知ってる抜け道使わないと苦労するよ」

 バクヤは憮然とした顔になる。サラが口を開こうとしたのをエリウスが制する。

「僕の剣持ってきて」

「エリウス様」

「ま、僕は適当にするから、後よろしく」

 サラはうんざりしたように、エリウスを見るとあきらめたように指示を少女に出す。少女は駆け出していった。


 エリウスは、左手に鞘におさめられた剣を持ち、右手に小さな発光石を持って広大な地下通路を駆け抜けてゆく。ヌバークとバクヤはその後を追うのがやっとであった。地下通路は複雑な迷路を構成している。地下深いところにあるにも関わらず、天井は高く、道幅も広い。黒い液体のような闇が満たしているその地下通路を、天空に輝く小さな星のごとき発光石の明かりのみで行き先を判断しているエリウスは、バクヤにとって驚異的な存在だった。

 今、この地下通路で置き去りにされれば、永遠に迷うしかないと思える。数え切れぬほどの曲がり角を曲がってきたし、道の分岐は無数にあった。エリウスはまるで天空から地面を透かしてこの地下通路を見ているのではないかと思えるほど、確信に満ちた足取りである。

 やがて、地下通路は迷路のような分岐を抜けだらだと続く長い坂道に行き当たった。エリウスは歩調を緩め、その坂道を昇ってゆく。バクヤは感覚的に自分たちがサフィアスの中心部に向かっていることを感じ取った。

「おまえ、ここにきたことあるのか?」

「ないよ」

 バクヤの問いにそっけなく、エリウスが答える。

「本当に道はあってるんだろうな」

「うん、ま、なんとなくこっちのほうだという気がするから」

 エリウスはぼんやりと答える。バクヤはあまりにとぼけた言葉につっこむ気力すら無くした。ヌバークが不安そうにバクヤの顔を見たが、バクヤは肩を竦めただけである。

 彼らはサフィアス最大の神殿であるフライア神の神殿に向かっていた。そこに神聖騎士団の隠れ家があり、そこで装備を整えた後サフィアスを脱出する段取りである。

「それにしても、」

 バクヤは独り言のように愚痴をこぼしはじめる。

「おれが騒ぎをおこすと巻き込まれるとか言っておいて、結局おまえがおれを巻き込んどるやないか。どういうこっちゃ」

「しかたないじゃない。まあ折角だから一緒にアルケミアへ行こうよ」

「なんで、おれが」

 バクヤはうんざりしたようにいったが、エリウスは妙に楽しげに言葉を続ける。

「どうせブラックソウルを倒すといっても、一緒にいる魔族の女王ヴェリンダの魔力を封じる方法なんて考えていないんでしょ」

「まあな」

「だったらアルケミアの魔導師を味方につけてヴェリンダの魔力を封じる方法でも検討してみたら」

「そんな簡単なもんやないやろう、だいたいなあ」

 バクヤはつっこもうとしてヌバークの視線を感じ、口を閉ざす。

「私としてもおまえが我々に助力してくれるのであれば、おまえの敵を倒すのに力添えをするつもりだ」

「おまえなぁ」

 ヌバークの言葉にバクヤは多少げんなりしたようだ。

「おれは本来一格闘家やからおまえらのような謀略家というか、国家レベルの価値判断で動くようなやつと、関わりたくは無い。だいたい、おまえらエリウスに何を期待しとるんや。こいつの背後の神聖騎士団やヌース教団をあてにしとるんやったらとんだ見当ちがいやで。こいつは政治力ゼロやし、こいつが他人に動かされることはあっても他人を動かすことはない。そいつは保証しとく」

 ヌバークは、半ばその姿を闇に溶け込ませている。表情から考えを読むのは不可能だ。しかし、その言葉は冷静で迷いは感じられない。

「我々が必要としているのは、エリウスという名の人間の能力だ。かつて暗黒王ガルンを倒したといわれるその能力」

 バクヤは怪訝な顔になる。

「ガルンやと。かつて中原を壊滅させた狂王やろ。そんなやつ遠い昔に滅んだはずや」

「おまえの言う通りではある。しかし、な」

 ヌバークは静かに言った。

「ガルンは甦った。アルケミアはやつに支配されつつある」

 バクヤは闇が凍り付いた気がした。ヌバークの言葉が本当であれば、六百年以上昔にあったといわれるあの暗黒時代が再来するということになる。

「魔族の王ヴァルラ・ヴェック様はガルンの手のものの謀略によってデルファイという場所に幽閉された。もともと魔族には二つの勢力がある。保守派と革新派といってもいい。保守派とは古の約定にしたがって人間界へは干渉せず神々の賭けを静観しようというもの。革新派は世界に新しい秩序をうち立てるため約定を無視しても人間界に干渉しようというもの。ヴァルラ様はむろん保守派だ。かつてガルンが滅ぼされた時、革新派は勢力を弱めたものの根絶やしにされた訳ではない。

 保守派はまだ主導権を握っているが、ヴァルラ様が幽閉された以上革新派がアルケミア全体を支配するのは時間の問題だろう」

「ガルンは本当に甦ったの?」

 エリウスがぽつりといった。

「確かに、革新派がそういうデマゴーギュを流通させ不穏な状況を造りだし、心理戦をしかけている可能性はある。ガルン自身の姿を見たものはいないからな。しかし、私も魔導師のはしくれだ。とてつもない魔力を持った存在が、アルケミアに出現したことは間違いない」

 バクヤは唸った。

「確かにエリウスは剣の腕はたつ。しかし、ガルンは強力な魔力を持っているんだろう。あんた本当にエリウスがガルンを倒せると思うか」

「無理だな」

 ヌバークは平然と言った。

「それやったら」

「ヴァルラ様の幽閉されている場所、デルファイ。そこは、全ての魔法が作動しなくなる場所なのだ。そこからヴァルラ様を救出するのに必要なのは魔法の力よりもむしろ、剣の腕ということになる。今我々が望んでいるのはガルンを葬ることではない。むしろヴァルラ様を救出することだ。

 デルファイでは魔族ですらその能力を全て失う。我々人間の魔導師に至っては全く無力な存在と化してしまう。エリウス、バクヤ、おまえたちの力を借りなければならないと判断したのは、そういうことだ」

 もう一度バクヤは唸った。

 エリウスが今までの話を聞いていなかったかのように、呑気な声でいった。

「ついたよ」

 エリウスの手にした発光石の薄明かりの中に、扉が浮かび上がる。

「フライア神の神殿への入り口たよ」


 そこは煌びやかな祭儀場であった。

 金、銀、朱に彩られた衣装を身につけた踊り手たちは華麗に舞い踊り、楽師たちは華やかに見事な細工の施された弦楽器をかき鳴らす。その音と舞踏が鮮やかに合わさって一つの流麗な世界を構成していく様は、ある種の奇跡を見ている思いがある。

 そして官能的な曲線を多用した装飾を施されている部屋の主座には、五組の男女が腰を下ろしていた。それぞれのペアに対して一人づつ神官でもあり売笑婦でもある女たちが、ついている。

 彼女らは、中原の貴族たちであってもそうはいないだろうという程の、美貌の持ち主であった。彼女らは妖艶に微笑み、主座のものたちに酒をつぎ語りかける。

 この天上世界であるかのような饗宴が催されている部屋で、五組のものたちは全くの無表情を保っていた。いや、あからさまに不機嫌さを顔に出している者すらいる。

「どうしました、皆さん」

 主座のものたちに対面し、祭壇の前に腰を降ろしていた男、ブラックソウルがおどけた調子で口を開く。傍らには例によってフードつきマントで顔を隠したヴェリンダが控えている。

「折角、オーラから出ることのない龍騎士の皆さんの為、宴を催したというのに、もっと楽しんで下さいよ」

「楽しんでいるさ、おれなりにな」

 金色の髪の男が言った。頑強そうな肉体を持ち、荘厳な佇まいを持つ男である。

その男の後ろには、影のように静かな女が立っていた。

「それはなによりですよ、ミカエル殿」

「しかしな、」

 ブラックソウルの言葉を切るように、ミカエルと呼ばれた男が言う。

「どうせ趣向をこらすなら、もう少し工夫してもいいんじゃないか」

「どういうことです」

 ブラックソウルの問いに、ミカエルが陰鬱に笑いながら答える。

「神に捧げる宴には、供儀がつきものだろう。神にささげる生け贄がいるんじゃないか、ブラックソウル」

 ミカエルの青い瞳が、刃の輝きを放った。

「例えばだ。おまえの隣にいる魔族の女。そいつの首を掻ききるというのはどうだ」

 ブラックソウルの笑みが一瞬凍り付く。そして笑いの仮面の下から、狼の笑みが立ち現れてきた。ブラックソウルは喉の奥で笑いながら、手を叩く。

 宴が中断される。ブラックソウルの無言の指示により、踊り手、楽師、女たちが引き上げていった。

 ヴェリンダは無言のまま座っている。フードで隠された顔は見ることができない。

しかし、真冬の冷気を思わす瘴気がマントの下から漂ってくるのは間違いなかった。

「いい冗談だったよ、ミカエル殿。龍騎士と呼ばれる者としては上出来だ」

「いえいえ」

 ミカエルの隣に座った、銀色の髪の女性が口を開く。

「冗談ではないでしょう、ブラックソウル。私もミカエル殿と同じように、その魔族の女王が放つ瘴気を楽しませてもらってましたよ。いつ、彼女が魔力を放ってくれるのかわくわくしながらね」

 銀色の髪の女は、穏やかな笑みを浮かべて語っている。その美しさは、聖母のような静けさを持っており、見る者の心を落ち着かせてゆく。しかし、今の彼女は挑発的に瞳を輝かせていた。

「ガブリエル殿、余興はもう終わりです」

「あら、そうなの。じゃあ、余興じゃなくてもいいのよ」

 ブラックソウルの言葉に、ガブリエルと呼ばれた銀髪の女性が答える。

「そうブラックソウル君を困らせるものではないよ、ガブリエル」

 黒髪の男がいった。彼も端正な顔で、詩人のように深く内面を見つめているような瞳を持っている。

「ラファエル、私は別に彼を困らせている訳ではないわ。ただたんに、彼の立場を知りたいだけ」

 ラファエルと呼ばれた、黒髪の男は問いかけるような視線をガブリエルに向ける。

「私たちは魔族と戦うために、龍の血を受けた。ブラックソウル殿が私たちの助力が必要というのなら、相応の生け贄を差し出すべきと思わない?」

「くだらない」

 吐き捨てるように琥珀色の髪をした男が立ち上がる。鋭く光る瞳を持ち、その肉体は引き締まり頑強であった。戦士の顔と身体を持つ男である。

「ブラックソウル、一体この茶番はなんだ。何がしたい? おまえは。ミカエル、ガブリエル、どうしておまえたちは、ブラックソウルのしかけた挑発に乗ってやるんだ。意味がない、ここで行われた全てに。ブラックソウル、余興が終わったのならおれは引き上げるぞ」

「もう少し待ちましょうよ、ウリエル殿」

 そう、灰色の髪をした少年が、琥珀色の髪のウリエルへ声をかける。

「もうそろそろ、本題にはいるのでしょう、ブラックソウル殿」

 灰色の髪をした少年は、大きく美しい瞳でブラックソウルを見る。その顔立ちと身体は、エルフを思わせる繊細さがあった。

「いや、どうかな。ラグエル殿」

 ブラックソウルは獣の笑みを浮かべて灰色の髪のラグエルを見る。

「おれからの出し物は済んだよ。こんどはあんた方龍騎士の皆さんの好きなやり方で楽しんじゃあどうだい?ガブリエル殿が言ったように余興じゃなくてもいいしな」

「まあ、座れよウリエル」

 ミカエルが口を開いた。その言葉には有無を言わせぬ力がある。ウリエルは、無言で腰を降ろした。

「確かに、ウリエルの言う通りだな。ブラックソウル、おまえの挑発に乗ってもしかたない。いいかい、おまえが知っている通りおれたちはおまえが嫌いだ。おまえが宴を催したのはおれたちに、そう言わせたかったのだろう」

 ブラックソウルは無言のまま笑っている。

「おまえも、本来おれたちの協力など受けたくないだろう。おまえはオーラ軍を見事な手腕でコントロールしているが、おれたちはおまえの戦略にのる気は全くないからな。おれたちは知ってのとおり魔族と戦うために編成された戦士団だ。神話の巨人が甦っておまえが苦労しているのは判るが、魔族と手を結んだおまえをおれたちは認める気はない。そこでだ」

 ミカエルは強烈な意志の力により、強い光を放つ瞳を真っ直ぐブラックソウルへ向けた。

「今回おれたちがかり出されたのは長老たちの思惑もあったのだろうが、最終的におまえの意志がなければおれたちがここにいることは無いはずだ。おまえは、人を嘲弄し怒らせた上で、コントロールしていくのが得意なのだろう。いいだろう、おまえの手にとりあえずは乗ってやった。しかしな、ここまでだよ、ブラックソウル。

これから先はおまえの心理作戦とは別の駒が必要だ。言えよ。ブラックソウル。おれたちがおまえのために手を貸すと判断した駒が何かを」

 ブラックソウルは無言で笑みを浮かべたままだ。奇妙な間があった。ミカエルがその瞳に戸惑いの色を浮かべた時、唐突にヴェリンダが口を開く。

「おまえたちは、魔族と戦うための戦士と言った」

 龍騎士たちはヴェリンダに視線を集める。

「その通りだ」

 ミカエルの答えに、ヴェリンダは静かに笑いながら答える。

「おまえたちが、戦士と呼ぶに値するほどのものかどうかはともかくとして、魔族と戦うという望みは叶えられるよ」

「どういうことだ」

 ミカエルの問いに、ヴェリンダは託宣を下す巫女のようにゆっくりと答えた。

「狂王ガルン。彼の者が甦った。その魂はもうすぐサフィアスに訪れる」

 ミカエルの表情が凍り付く。ミカエルは飢えた者が食物に手を延ばす時の顔付きでヴェリンダに再び問う。

「いつだ、そのもうすぐとは」

「今宵」

 ヴェリンダは歌うように言った。

「星々が巡りガルンの魂をフライア神の神殿へ誘う。星たちの瞬きのもと、おまえたちもガルンの魂とあえるだろうよ」

 五人の龍騎士たちと、その後ろに佇む五人の女たち。彼らは言葉を失い、魔族の女王を見つめていた。

「もしもそれが本当であれば」

 ミカエルは呟くように後ろに佇む女に声をかける。

「今日まで生きながらえたかいがあるというものだな、ロスヴァイゼ」

 ロスヴァイゼと呼ばれた女は、静かに頷いた。

「仰るとおりです、マスター」


 天空城に夜が訪れた。無数の星が息を潜め見つめる元で、大きな棺桶がゆっくりと動き始める。頑丈な蓋が静かにずれてゆき、やがて夜の闇より尚暗い深淵のような中身が露呈した。

 棺桶の中で蠢く闇は、次第に凝縮していく。影が星の光の中で自らの姿を取り戻すように、闇は人の姿へと収縮していった。天を巡る星たちの光が照らすその下で、人の形を得た影は、ゆっくりと身を起こす。

 無数の水晶の欠片が散りばめられたような星々の光を受け、影は立ち上がった。

そして闇は目を開く。暗黒の宇宙を太陽の炎が切り裂くように、黄金の瞳が闇で造られた顔に出現した。さらに、夜明けの光が炎となって墜ちてきたように、闇色の影に金色の髪が伸びてゆく。

 しんとした夜の世界の中で、その立ち上がった闇は急速に人としての姿を整えていった。その姿は端正な美貌を持った少年のものになってゆく。

「待ち侘びましたよ、ガルン」

 マグナスがガルンの背後より声をかける。その後ろには黒衣のロキと真白く輝く鎧に身を包んだフレヤがいた。銀色の髪をした少年の姿を持つ老いた魔導師マグナスは、ガルンの前に立つ。その二人はよく似ていた。ただ似ているのは姿形だけではあるが。ガルンは、少年の顔に狂った獣の禍々しい笑みを見せる。

「なんの用だ。マグナス。今、おれにはおまえたちの相手をしている時間はないぞ」

 マグナスはガルンとは対照的に、老人の笑みを浮かべて答える。

「時間がないですって。とんでもない。今こそ時はきたのですよ。ウロボロスの輪の彼方にいるラフレールがあなたをアイオーン界の奥底から引き上げたのは、フレヤとあなたを会わせるためでしょう。あなたが再び地上へ降りてきたのは、フレヤの道案内をするためではなかったのですか」

 ガルンは、けたたましく笑う。凶暴な光がガルンの黄金の瞳に宿る。

「ラフレールの思惑なぞ知ったことじゃねぇ。だいたいマグナス。おまえの思惑はなんだ。かつての弟子であるラフレールに荷担したいのか?神々の約定を破棄するほどおまえは狂っているのか?」

 マグナスは、深いところで淀む水のように穏やかな笑みを崩さなかった。

「いいえ、私は傍観しているだけです。神々と同じように。それよりもガルン。あなたが自分に与えられた役割を果たさぬのであれば、あなたに用は無いということになります。もう一度アイオーン界の奥に戻りますか」

 ガルンは舌打ちをした。

「戻るさ、いずれ。ただ、今じゃねぇ。客が揃っちゃいねぇだろう」

「フレヤ殿がいれば十分」

「いいや」

 ガルンは、ふてくされたように笑う。

「魔族の女王も招くつもりだ」

 マグナスは喉の奥で笑う。

「まだ未練があるのですか、かつての思い人に」

「うるせえ」

 血に飢えた獣ののように凶暴な気をガルンは放つ。

「とにかくおれが地上へ戻った以上、混乱と殺戮の饗宴が必要だ。まずは魔族を掌握する。そして再び魔族の軍勢が地上に死体の山を築くのさ」

「好きにすればいい」

 氷河を渡る凍り付いた風を思わせる声で、フレヤが言った。

「私をラフレールと再び会わせた後でならばな」

「ふん」

 ガルンはせせら笑いながら、フレヤを見る。

「そう待たせはしねぇよ。これからちょいと降りてくる。おまえの相手はその後だ、最後の巨人」

「では、これからヴェリンダを招きにいくのか」

 ロキの問いにガルンは冷笑で答えた。

 突然、ガルンの瞳は光を失い、その身体は形を失い黒い水と化して地面に落ちる。

流動する影に戻ったガルンの身体は、不定形のまま棺桶へと戻ってゆく。ガルンの身体であった影が棺桶の中に身を横たえた後、ゆっくりとその蓋が閉ざされていった。

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