あなたのお名前、なんてーの? 

男の子ウサギは悩んでいました。


どのくらい悩んでいるのかというと、お散歩中も、お遊び中も、お食事の時間だけはちょっと忘れて。

でも、目の下にクマを作る程度には悩んでいたのです。


そんな男の子ウサギの耳に、とんとんと階段を上ってくる音が聞こえてきました。

朝食の用意を整えて、男オオカミが男の子ウサギを起こしに来たようです。

果たしてノックの後、がちゃりとドアが開いて、男オオカミが満面の笑顔で入って参りました。

「おはよう、男の子ウサギ」


「キッ」


爽やかな朝だと言うのに、男の子ウサギのこのどんより曇ったお顔ときたら!

男オオカミ、ちょっと引いてます。

「なんだ? その顔」

「キー」

男の子ウサギ、おめめをごしごしとこすります。

あわてて男オオカミがその手を止めました。

「おめめ真っ赤なのに、そんなことしちゃダメだろう」

「キィ」

 おめめをこするのはやめたものの、男の子ウサギの目は相変わらず据わりっぱなし。男オオカミは薄ら寒いものを感じながら、ベッドに腰かけて優しく尋ねました。

「どうしたんだ? 眠れなかったのか?」

男の子ウサギは「キッ」とうなずきます。

さらに男オオカミは尋ねました。

「悩みごと?」

「キィ」

男の子ウサギは再びうなずきました。

そして男オオカミを見上げ、こう訴えました。


「キッキッ」


男オオカミ、目をパチクリ。耳をピクピク。

日々の生活を共にするって大事ですね。

いいオトナがコドモに居候させてもらって、はや1ヶ月。

最近、男オオカミは男の子ウサギの言いたいことが、なんとなーく、わかるようになってきました。

が。

「ごめん、もう一回言って」

「キッキッ」

どうやら聞きまちがいではなさそうです。

男オオカミは素っ頓狂な声を上げました。


「な、名前?!」

「キィッ!」


「えーっと、名前、名前ねえ……」

正直、困りました。

男オオカミも、気になってはいたのです。

一緒に暮らし始めてはやひと月。

家を修理したらすぐお暇する気だったので、かまうことはないかと思っていましたが(いや、かまえよ)、ここいらで正式に名乗りを挙げておいたほうがよいかもしれません(いや、もっと早くに名乗っとけよ)。

「えー、えーっと、おれの名前はラティ、お前の名前は?」


「キィ!」


胸を張って男の子ウサギは言いました。


『オイ!』


「オイ?」

ずいぶん変わった名前です。

首を傾げた男オオカミに、さらに男の子ウサギは言いました。


「キッ、キッ!」


「お父さんがそう呼んでたって……」

男オオカミは考えました。

そして、言いました。


「それ、名前じゃなくて、呼び方じゃないのか?」

「……キ」


男の子ウサギ、しょぼんと耳を垂れ、肩を落としました。

そして再びシーツにもそもそと潜り込んでしまいました。

(あ、あれ?)

驚いたのは男オオカミです。

てっきり名前を教えてくれないと怒っていたと思っていたのに。 

「男の子ウサギ? 男の子ウサギってば」


「キ!」


今度は聞きまちがえませんでした。いわく、


『放っておいて!』


「おい」

白い小さなお山が震えています。

男オオカミ、何だか男の子ウサギが可哀想になりました。

で、お部屋をそっと後にしました。


2時間後。

男オオカミは一階のダイニングで、山ほどの紙に囲まれていました。

それらは日記帳であったり、手紙であったりメモであったり。

椅子に腰掛けた男オオカミの頭の高さくらいのものから、胸の高さくらいに嵩張った紙の束が四束ほど。男オオカミは男の子ウサギの部屋を除いて、家中から紙という紙をかき集めてきたのです。


ところでこんなに紙を集めまくって、男オオカミ、何をするつもりなのでしょう?

そう、男オオカミは男の子ウサギの名前を調べるつもりなのです。


(……なんつーか)


茶色の日記帳を開きながら、男オオカミ、思いました。


(めちゃくちゃな親父さんだな……)


日記は最初20年前の日付から始まったかと思うと、次のページは突然空白になり、その次のページから5年後に飛んだりしています。そうかと思えば料理のレシピが書き込んであったり。

何よりすごいのは。

 

あのアホめ! 愚か者め! 地獄に墜ちろ!

あのバカオンナめ!

アホムスコ!

守銭奴が!

 

この悪口です。

どうやら男の子ウサギのお父さんは、飽き性の上、相当の癇癪かんしゃく持ちだったご様子。

日記の内容から察するに、昔は王都にある大学の研究室にいたようですが、この気難しい性格では、ヒト様とうまくやっていけたようには思えません。助手と思わしきヒトたちに対する悪口からも察するに、最後は研究室を追い出されたようです。


「……はあ」


男オオカミは思わずため息をつきます。

(男の子ウサギは、あんなに穏やかでいい子なのにな)

男の子ウサギのお母さんとも離婚のようです。お二人の間には男の子ウサギの他にも、たくさん子どもがいるようですが、お母さんとたくさんいるはずのお子さんからの手紙は一通もありません。

何とも寂しい話ですね。


(……ふーむ)


男オオカミ、日記を一旦テーブルに置きました。

腕組みして、しばし、考えを巡らせます。


(日付のスパンから考えるに、だいたい2年ごと、もしくは子どもが生まれたりするとその記念も兼ねて始めちゃ、2、3ヶ月程度で挫折してるな……)


希望が出てきました。


子どもが生まれた記念に日記をつけ始めているなら、男の子ウサギの名前は誕生日とともに必ずどこかに書かれているはずです。――ただし。

男オオカミは自分の周りに積み上げられた紙の束たちをぐるりと見回しました。


(……相当骨がいりそうだな)


日記帳を見ただけでも、そこかしこに名前が出てきます。

タージン、マークス、ミラ、イゾルデ。

しまいには面倒になったのか単に『あれ』としか書かれてないところも。

(参ったな……)

適当につける、という手もありますが……。


(いや)


男オオカミは首を横に振りました。

男オオカミの頭には、震えている小さな白いお山が浮かんでいます。


(どんなに時間がかかっても、ちゃんと調べよう)


男オオカミと紙の山の、長い長い戦いが始まりました。


「……キ」


泣いている間に眠ってしまったようです。

お外はもう真っ暗。窓から見える星が、男の子ウサギの寂しさを誘います。


どうして、男の子ウサギのお父さんは突然お家を出てしまったのでしょう?

どうして、男の子ウサギの名前を一度も呼んでくれなかったのでしょう?


「キィ」


男の子ウサギの大きな黒い瞳に涙が浮かびました。


――コンコン。


突然ノックの音が響きました。

男の子ウサギ、急いで涙を拭います。そして「キィ!」と返事をしました。


「おー、起きたか?」


なぜかよれよれの男オオカミ。男の子ウサギ、ベッドの上でちょっと、引き。

お日様が昇って沈むまでに、男オオカミの身に一体何が起こったというのでしょう?


「目は覚めたか?」


そう言う男オオカミが今にも眠りそうです。

男の子ウサギ、ちょっと心配&不安を感じました。

よれよれの男オオカミ、ふらふらの足取りでベッドの端に腰掛けます。

そして、血走った目(怖いですね)で、にやりと笑いました(ホラーですよ)。


「おはよう。ルル・リック」


「――キ?」


「お前の名前だよ。ルル・リック。リック父さんの最後の子どもだ」


男オオカミの目は真っ赤です。ですが、男オオカミはやりました。

男の子ウサギの名前を、とうとう探し出したんです。さらに、お父さんがなぜ男の子ウサギを『オイ』と呼んでいたか、その理由もわかりました。


男の子ウサギのお父さん、じつは、男の子うさぎの名前を忘れてしまったんです。


お父さんは男の子ウサギが生まれたとき、もうおじいさんと言っていい年齢でした。奥さんが出て行ったショックと、慣れない育児のストレスも良くなかったのでしょう。出て行く前には相当、頭がボケていたようです。日付の一番新しい日記には、こう綴られていました。


――新しい名前をつけようかとも思ったが、今のワシはそれもすぐに忘れてしまうだろう。年は取りたくないもんだ。


(まったく、子沢山もほどほどにしてくれよ……)


癇癪かんしゃく持ちだったお父さん、家庭人としても失格だったようです。

なんと、結婚回数は7回。いずれも違う相手と。お子さんにいたっては、息子・娘合わせて22人もおりました。ちなみに、男の子ウサギは22人中22番目。つまり末っ子です。いずれにせよ、文中に出てくる名前を家族と他人により分けるだけで、えらい手間暇かかりました。正直、二度とやりたくありません。


しかし、男たるもの、そんな苦労は決して微塵も見せないゼ☆

クールなヒーロー、男オオカミは目の下にクマを作った笑顔で言うんだゼ☆


「ちなみにお前の誕生日は、5月21日。いま5歳」

「キ……」


男の子ウサギの目に涙が浮かびました。


「呼ぶときは、ルルでいいよな」


「キー!」


ひっし。

男の子ウサギは男オオカミに抱きつきました。「おっと」、よろけながらも、男オオカミ、嬉しそうに震える背中をさすってやります。

もちろん、男の子ウサギの背中が震えているのは悲しいからじゃありません。

その逆だからですよ。



一方。


「き」

「え? あなたの名前?」

「きぃ!」

夕食を終えた女おおかみは、お皿をふきふき答えました。

「もちろん知ってるわよ」

「き?」

ほがらかな笑顔で、女おおかみは言いました。


「ララ・マリアちゃんでしょ。ララちゃん」


「きー?」

女おおかみ、目を丸くして答えました。

「どうして知ってるのって……。だって、パンツに刺繍してあるもの。『ララ・マリア』って」


「き!」


女の子うさぎ、ショックのあまり固まりました。

女おおかみ、心の中でこう呟きます。


(百年ほど前に流行った名前だから、呼ばれるのが嫌なのかと思ってたわ……)


もっと早く名前を呼んであげればよかったと思った女おおかみと、パンツをよく見ればよかったと反省した女の子うさぎでした。


 

さて、男の子ウサギと男オオカミの感動的なお話には後日談がございます。

それは、男オオカミが男の子ウサギが小さい頃履いていたズボンをお直ししている時に起こりました。


「ん?」


ズボンの腰周りの所に白い糸の刺繍。


「……」


男オオカミ、ちょっとヤな予感。

はたしてそこには。

男オオカミは絶叫しました。


「オレの睡眠時間を返せ――ッ!」


泣いてもわめいても、決して時間は戻らないのデス★

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