三章 2

玖珠は、一つの決断をしていた。実行に移す前の準備は綿密に行った。抜かりはない。玖珠はサークルには特に入っていなかったが、サークル棟の立地や内部についてはこのために少し調査をした。正面から突破できそうにない以上、こちらから先手を打つ必要がある。消去法だが、消去法を採らせられている、と感じるゆえに、既に先手は取られている、そんな無用な駆け引きを勝手に妄想してしまう。

土曜日の15時に狙いを定めた。大学に来ている者の絶対数が比較的少ない曜日だが、ある意味今回の計画にはそのくらいの方が丁度良いのでは、と考えた。

昼食は早めに済ませた。衣装も、今日という日にマッチしたものを自分で厳選したつもりだ。

こそこそしても仕方がないのだが、できれば、目的地に着くまでは人目に付きたくなかった。幸いサークル棟の内部には物が溢れており、また、人の出入りも多くて、雰囲気として自由である。

慎重に他人の視線を避けつつ、目的の部屋に向かう。二階の突き当りのその部屋に辿り着く。思っていた通り、部屋の扉の周りには、部屋番号以外にその部屋を説明するものが無かった。

ノックをする。

「はーい」

女性の声が聞こえた。しかし、想定していたものとは異なる。

ノブを回して扉を押し開いた。

「失礼します」

中の様子を一望する。物が沢山散らかっていたが、すっぽりと空間が空いたところに、女性が二人居る。片方は目的の、もう片方は予定外の。

「あら、こんにちは。どちら様ですか?」

真柴郷子は玖珠に挨拶をした。

「玖珠承太朗と言います。花田君の友達で…」

片方の女性が、一瞬こちらに顔を向けた。

「あれ、玖珠君じゃない。どうしたの?」

賽は、ブラウン管のテレビと玖珠の両方に器用に視線と注意を向けながら言った。

「一志木さんこんにちは。花田が居るかな、と思って…」

「携帯じゃ捕まらなかったの?」

「うん、今日はちょっとね…」

いきなり厳しい返答が飛んできたが、この程度なら事前に想定していたものだ。

「花田さんの友達なんですね。初めまして。真柴郷子です」

郷子は玖珠に自己紹介をした。

「初めまして」

何か気の利いたことを言ってみようかという少しの邪念が玖珠の頭を過ぎったが、玖珠には余裕が無かった。

「たしか、サークルにはメンバが五人居るって聞いていたんだけれど、今日は二人だけ?」

「ええ、そうなんです。今日は元々集まる日じゃなかったから…」

玖珠は、賽に言ったつもりだったが、質問には郷子が答えた。

「一志木さんとはお知り合いなんですか?」

今度は郷子が質問をする。

「はい。高校が同じでした」

「同じ剣道部だったのよ」

ブラウン管のテレビを凝視しながら賽は言った。

「玖珠君、生憎花田は居ないけれど、せっかくだし、お茶でも飲んでいく?」

賽がこう言ったのを聞いて、郷子はパイプ椅子から立ち上がり、電気ポットの方に向かい始めた。

「インスタントコーヒーでいいですか?」

コップを用意しながら郷子が尋ねる。

「ああ、えっと、はい。そうですね、そう仰って貰えるなら、頂いていこうかな」

慣れない言葉遣いをしているので、玖珠は自分の日本語にだんだん自信が無くなりつつあったが、どうにか不自然さが目立たない範囲に留まっていた。

「好きなところに掛けて下さいね。狭いし散らかっていますけれど」

玖珠は慎重に辺りを見回しながら、賽と郷子からほぼ等距離にある椅子に座った。

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてくださいね」

郷子は玖珠の目の前のテーブルにコーヒーを置いた。

「ありがとうございます」

玖珠は一口だけコーヒーを飲んだ。コーヒーより緑茶の方が好みだったが、そんなことは今は関係が無い。

「玖珠君久しぶりだね。たぶん、卒業式以来会ってないんじゃない?」

「そうだね、そのくらいになるね」

「ちょっと今集中しているから、もう少し待ってね…」

玖珠は賽の方に視界の8割以上を割いていたが、賽の方は0%だった。

「一志木さん、なんとかクリアできそう?」

「こんな古いゲーム、パターンさえ見切れば大したことないんだから。余裕よ、余裕。たぶん」

「結構前からその言葉聞いてる気がするけれど…」

「それ、ドンキーコングですか?」

部屋に入ってすぐに、ブラウン管テレビに映っているゲームがドンキーコングだと気づいていたが、その話をし始めるまでに随分掛かったな、というのが玖珠の内心だった。

「はい、ドンキーコングです。一志木さんがここに持ち込んだもので…。今日最後までクリアしてみせるから、誰か一緒に遊ばない?ってサークルのメンバに声を掛けたんですけれど、私以外捕まらなかったみたいで」

郷子は軽く笑いながら言った。

「一志木さん、お客さんも来たんだし、早めに終わらせてね」

「玖珠君は私の知人なんだから、多少は大丈夫よ」

玖珠の視界に、郷子が申し訳なさそうにしている表情が入るが、「知人」という表現を自分の中で再認識しながら、ぎこちない笑顔で応えておいた。

「サークルではどんなことをやっているんですか?」

玖珠は、純永にした質問を、今度は郷子に投げ掛けた。

「今は…、色々ですね」

再び、郷子は軽く笑った。

「みんなで絵を描いて見せ合ったり、人生ゲームをしたり、漫画の回し読みをしたり。スポーツ以外のことは大抵なんでもやってますね」

郷子は一瞬はっとした表情をして、言葉を継ぐ。

「勉強もやっているんですよ。五人は所属している学部が3対2で法学部と文学部に分かれていますけれど、講義やゼミで分からないところがあったら、図書館にも行ったりして、共同で課題に取り組んだり、教科書を読んだりもします」

「なるほど」

郷子の答えは、玖珠がほぼ想定した通りのものだった。

「就職活動で忙しくなる前に、暇を見つけて、学外でも活動しよう、って、今話が上がっているところなんです」

「玖珠君はどこかのサークルに所属してるんだっけ?」

会話の切れ目を見つけて、賽は言った。

「いや、俺は今はどこにも所属してないね」

「そっか。わりと勉強って忙しいからね」

「そうだね」

玖珠は、奈倉ゼミに入って、勉強の質も量も大きく変化していて、正直、サークル活動をやっている時間は、バイトの時間も考慮するならほとんど無かった。法律学の頂き、と表現すると大袈裟だが、毎週ある奈倉ゼミに参加する度に、新しい発見があって、今の勉強に対する姿勢は高校の頃とは明らかに違っていた。大学を卒業した後の具体的な進路のことはまだ全くイメージできないが、取り組んでいる勉強や課題に対する確かな手応えはあった。したがって、花田達のサークルは、傍から見ていてもとても楽しそうではあるけれど、自分がそこにどうしても参加したいといった意志は無かったし、ここに来たのも、そのための足掛りを作るため、というわけではなかった。

ゲームの画面をじっと見ていた玖珠は、時間の隙間を見つけたので、賽に話しかけた。

「一志木さん、高校の頃より楽しそうだね」

「そう?そうね…、確かにそうかもしれない」

賽は斜め上に天井を見ながら言った。

「高校の頃は、心ここにあらず、って感じだったから」

「そんなふうに見えてた?でも、今なら言えるけれど、実際、心はあそこには無かったね」

賽は笑いながら言った。

「部活も退屈だったでしょ?」

「退屈が嫌だったから、私は練習に出てなかった。高校で日本一になることにそれほど意義を見出だせなくて、部員とも上手く行きそうにないなら、部活に普通に参加するのは難しいね。その場所に居る理由が無いんだから」

「確かに」

「でも、理由なんか無くたって…」

そこでドアが突然開いた。賽以外の二人は入り口の方に目をやる。

「まだやってたのか…。って承太朗じゃないか。あ…」

玖珠は花田と眼が合った。思考の遣り取りが何往復あったかはお互いにさえ分からなかった。

花田の方から視線を逸らした。玖珠にはそれまでの時間がかなり長く感じられた。

「承太朗、よく来たな。そう、本当によく来た。そのアグレッシブさは、俺には少し想定外だったが」

花田は口を斜めにして、椅子に座る。

玖珠にとっては、花田の登場は予定外ではあったが、想定内ではあった。しかし、タイミングが良くなかった。自分が来た最初から花田が居れば何の問題も無かったのだが、賽がゲームをし、それを自分と郷子が眺めている、という状況に花田が加わること、そこに意味を認めない花田ではなかった。

「別に、遊びに来たって良いだろう?」

玖珠はコーヒーを飲みながら言った。花田のことは信頼しているが、花田がここで実際どう動くか、何を言うかということは玖珠には判然としなかった。それ次第では…。

「ああ、遊びに来たって何の問題もない。承太朗くらい、サークルのメンバと繋がりがある奴ならなおさらな」

「花田君、どうぞ」

郷子が花田にコーヒーを持ってくる。

「ありがとう。真柴さん」

花田は受け取って一口飲む。

「承太朗も、うちのサークルに入りたいのか?」

花田のジャブだった。受け流す以外選択肢は無い。

「そういう分かりきった質問をするな。俺には特段そういう意志は無いよ」

「そうだな、だとすれば、一つ謎が残る」

花田はカップを回して、中のコーヒーを回していた。

「謎って何の話ですか?」

郷子が興味を持って訊いてきた。

「いや、大した話じゃないよ。それはそうと、賽。いい加減にクリアしないと、場が保たないぞ」

「ちょっと静かにして。最後の一勝負なんだから」

「賽も少しは大人になったな。剣道の部活練習の方が、よっぽど有意義だったと俺は思うぞ。有意義なものに寛容になれと前々から思っていたんだから」

まるで、さっきの会話に参加していたかのように、花田は部活の話を引き継いだ。

「有意義なものに寛容になれってどういうことです?」

郷子は玖珠に訊いた。

「良薬口に苦しみたいな話だと思いますね」

玖珠は笑いながら言った。

「まあ、その通りだ。ただ、そこで、良薬とされるもの、有るとされる『意義』の積み重ね、その末端から辿り着くであろう、ある大きな木そのものに、嫌気が差すということは、若い頃は往々にしてある」

ゲームに集中している賽を見限って、花田は二人に話した。

「どうしてそう感じてしまうんでしょう?後々になって考えれば、その感じ方が一面的な、一時的なものだったと思い返されるわけでしょう?」

郷子は言った。

「そういうときには、末端と頂点を一対のものとして考えているんだね。末端から頂点までの道程を、他の選択肢を刈り取って、自分の中で作り上げてしまうわけ。出来上がったそれを押し付けられたりもする。実はその末端から、全く別の木に通じていたりするにもかかわらず、自分の感情・感覚を重く見たり、その場の雰囲気に流されたりしてしまう」

「理屈が足りないのよ。それが私は気に入らないだけ」

にべも無く賽は言った。

「かといって、理屈ばかり積み上げていっても、身動きが取れなくなることがある、それは自分でも分かったことだろう?」

「それは…」

「そんなに、理屈って、どこにでもあるものです?」

郷子は花田に訊いた。

「ある人にとってはある。それは自分を縛る枷になることもあれば、自分を成り立たせる基盤にもなり得るだろう。理屈、と言わず、物語、と言っても良い。誰がどう見ても苦境や苦痛としか言いようのない状況・事柄だって、後に迎える転機とセットなら、その意味合いは全く変わってくる。普通は、そういうことは『無かったこと』にするだろう。無かった、とまではいかなくても、ほとんどを捨象して、ただ『辛かった』と総括する。逆転満塁サヨナラホームランじゃなくて、結局はただの満塁ホームランになってしまう。ディテールに思いを馳せない、単純で負荷の掛からない思考だ。ゲームだって、クリアが目的でも、クリアへの過程とセットじゃなければ、そこに価値は見出だせない。恋愛だってそうじゃないか?承太朗」

「俺は知らん」

キラーパスだったが、球筋もボールの模様もはっきり見て取れるくらい、玖珠は集中していた。

「そのうち、色々なサービスにストーリィをセットで売る世の中になると思うよ。鞄や靴一つ買うにしても、旅行に行くにしても、結婚するにしても、それを正当化したり、価値を高めたりする出来合いのストーリィが付属したものが溢れてくる。誂えなのか出来合いなのか微妙なところだ」

「主体性が無くなっていくようで、なんだか怖いですね」

郷子は不安そうな表情で言った。

「人間が持ち得る主体性なんて、高が知れているのかもしれない。悩んでいる時間が惜しい、特に、悩んで何も前に進まなかった時、何も残らないのが。ほらね、やっぱり何か残らないと、残さないといけないわけだ。思考くらい、そんな軛から自由でありたいものだ。でも、その思考の生産性の軛にも、良い面はあるよ。つまり仕事だ。仕事で思考しているなら、生産性が無ければ、そこに間主観的価値が生まれない。他方、人間の日常の思考、人生の思考の大部分に、どこまで生産性なるものが必要なのか。そこまで多くないというのが俺の意見。しかも、仕事のための間主観的価値だって、他の人から見たら取るに足らないようなアイデア・イメージから、皆をあっと驚かせるようなものに繋がることだってある」

「あ~っ、駄目だ。お終い」

突然賽が声を上げたので、三人は賽の方を向いた。

「意外と難しいだろう?」

花田は言った。

「プレイヤーが採れる選択肢が限られているから、その分、プレイヤーの動きに対する想定が綿密なのよね。当たり判定もシビアだし、キャラの操作性も悪い。何より、なんでこのゲームを今やっているのか、という懐疑が頭を擡げる。もうもっと凄いゲームが沢山あるんだから」

賽はまだ少し興奮しながら言った。

「どんなゲームでも色褪せる。後世にまで何か普遍的な価値を感じさせるものを残すのは大変だからね。特にゲームは、インターフェースという縛りがあるから、映画のような芸術的価値に繋がりにくい」

「でも、一人で黙々とやるのには向いているわ。相手が要らないんだもの」

「わりとどんなものだって、一人で黙々とやるのに向いているよ。読書でも、音楽鑑賞でも、日曜大工でも。違うとすれば、ゲームは履歴書の趣味欄に書けないということくらいだ。チェスだったら書けるかもしれない」

「そうね、だったらゲームのどこに人を惹きつける本質的価値があるのかしら?」

「承太朗はどう思う?」

花田は玖珠に話を振った。

「コミットできるってことじゃないかな。自分の選択が、対象の、対象となっている物語の展開を左右するところ。ただ、それが通常の意味での『選択』と呼ぶべきものかは怪しいね。基本的に、すべては設計者の手の中だから」

「あとは、仮想現実への一連の試み、という捉え方もできるだろう。空が飛べたら、魔法が使えたら、ヒーローみたいな冒険ができたら、フィクションのような波乱万丈の人生が送れたら、そういう欲望が人間にはある。にもかかわらず、面倒臭かったり、冗長な部分は容赦無く切り捨てられる。なぜそういうものが混じって問題になってくるかというと、ゲームという建前が残っているからね。理想の、理想だけの塊であるべきだとプレイヤーは思っている。作り物だから、無駄はどこまでも排除できるはずだと。この思考をリアルの生活に持ち込む人だっている」

「結局は、そもそも無理があるのよね。だって同じ人間である他人が作ったものなんだもの。このルートで自由を模索するのには限界がある。ゲームで満足するためには、どこかで妥協して、自分を騙して、その世界に乗っかるか、初めてゲームを触ったときのような、純粋さを保ち続けるしかないわ」

「でも、純粋さだけが人間の良さではない、か」

花田はぽつりと言った。

「というと?」

玖珠は尋ねた。

「大人には大人の人生があるってことさ。大猿から姫様を救い出すようなドラマティックな人生じゃなくても、ね」

「なんだかよく分からないぞ?」

玖珠は不満げに言った。

「遠野君と色々話してみることだ。これは占いじゃない。とっておきのアドバイスだ」

花田は断言した。

「えっ、玖珠君遠野君のこと知っているの?」

賽が驚いて尋ねた。

「ゼミが同じなんだよ」

玖珠は答えた。

「ああ、そうなんだ。って、なんで花田はそのことを知ってたわけ?」

「関係者から直に聞いたのさ。賽に報告するようなことでもないだろう?」

「まあ、それはそうね」

「この後どうする?学食でご飯でも食べようか。承太朗、一緒にどうだ?」

「あ、ああ、俺は構わないよ」

四人が学食に向かう準備をする中、花田が玖珠に耳打ちしてきた。

「お前の冒険のために、少しでも時間を稼がないとな」

玖珠は花田に眼差しで応えたが、花田は一瞬だけそれを確認して、学食の方に行ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

燃焼・魔猿・キューカンバ AERIAL AIR REAL Yo羽ichi @Clancyy81

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る