二章 3〜4

郁美は、伯母からいつもの指令を受けたので、自分の食事を作るために、近くのスーパーに出かけた。もう半袖ででもそれほど寒くないくらい気温が上がっている。すぐに、虫が出始める嫌な季節が到来するから、束の間の快い晩春・初夏であった。

食材を買って帰るついでに、頼まれていた通り、クリーニングに出していた服を取りに行く。スーパーのすぐ横にチェーン店が隣接していた。

軽いレジ袋を片手に、自動扉を開ける。中に客は居なかった。

「いらっしゃいませ」

奥から声が聞こえた。郁美は余所見をしながらカウンタに近づく。カウンタの傍まで行って、正面を見たところで、奥から出てきた店員と鉢合わせになった。

「あっ」

郁美は声を上げる。

「あら、大越さん」

店員は郁美の名前を呼んだ。

「海さん!驚いたなぁ」

郁美は、荷物で塞がっていない右手を胸に当てて、少し大きな声で言った。

「私、結構ここに来るのに、海さんがここで働いていること、全然知らなかった」

「そうなんですか?私、かなり前からここで働いていますけれど…」

「あれ、そうなの?ということは、私が海さんのことを全然意識していなかっただけかも」

「クリーニング屋の店員の顔をいちいち気にしたりもしないですからね」

「ううん、気づかなくて、ちょっと失礼しちゃった」

「お気になさらず」

突然の邂逅に伴うイレギュラな会話の後、のどかは、郁美が受け取るクリーニングに出していた服を渡す準備をし始めた。

「海さんは、バイトをして、学費を賄っているの?」

服を丁寧に畳んで、大きな袋に詰め込んでいるのどかに、郁美は思いついた質問をした。

「そうですね、私はC大学に所属しているわけじゃないから、皆さんが払っているような高額の学費が掛かるわけじゃないんですけれど、テキストを買うお金とか、生活費とかをバイト代で賄っています」

「そうなんだ」

言葉として知っている「苦学生」が突然目の前に現れて、学費のことなど全く心配する必要の無い郁美は少し複雑な気持ちになった。

のどかがどういう経緯で奈倉ゼミに参加するようになったのか、以前から関心があったこの問題について郁美は訊いてみたかったが、きちんと働いているのどかの時間をこれ以上奪うことは躊躇われたので、袋に入った服を受け取り、お礼を言って出口に向かった。擦れ違いで、別の客が店に入ってきた。

郁美はアルバイトをしたことが一度もなかった。お小遣いがそれなりに貰えていたこともあるが、お金を使うような趣味が郁美には無いのである。買うとしたらファッションに関わるものだが、郁美のセンスは、高額なものには向かわなかった。一見すると怪しい小物屋で珍しいものを探したり、時には小さめの男性用の服を買うことさえあった。

郁美は料理が苦手だった。舌には自信があったが、ついつい肝心なところで大雑把な処置をしてしまうため、出来上がった料理の味に必ず欠点が伴ってしまう。自分で作るより、スーパーの惣菜や外食の方が間違いなく美味しいものが食べられるが、自炊は郁美にとって、自分に課した一つの試練だった。女が料理をしなければならないなんて時代錯誤も甚だしいと思っている一方で、一周回って、できないのとしないのとでは大違いだということも感じられたので、こうやって隙を見ては一人練習をしているのである。


アルバイトが終わったのどかは、アパートに帰ってきた。部屋の電気を点け、部屋着に着替える。

出かける前に作っておいたおかずを電子レンジで温めるために冷蔵庫に向かう。虫の鳴き声が微かに外から聞こえる以外は、静寂そのものだった。

電子レンジが音を立て始める。飲み物と、スーパーで買ったご飯、胡瓜の漬物をテーブルに並べ、食事の支度をほぼ済ませた。

電子レンジがおかずの載った皿を回すのをじっと見た。

何も考えていなかった。ただ、回る皿に載ったおかずを眺めていた。形の整った卵焼きと、焼き魚と、南瓜の煮物。

シンという音が聞こえるくらい、時間に空白があった。意識が戻ったときには、電子レンジは止まっていた。電子レンジが止まるときの音を聞き逃していた。

扉を開け、皿を取り、皿をテーブルに置いて、椅子に座って、一人で「いただきます」と言った。

おかずはいつもの味だった。良い出来栄えである。

ふっと息が溢れる。すぐに笑顔になる。今、鏡を見たら、きっと、自分の瞳が微かに揺れているのが見て取れるだろう。そういう自信があった。

確かな自信だった。始めからあったものではない。きちんと過程を経て作り上がったものだ。自分で手に入れた、というより、もっと自然な、まっさらな水をそっと零さず掬い上げるように出来上がった、そういう自信だ。

不変、という意味では決して確かではない。けれど、このおかずの味と同じくらい、現状維持も悪くないな、とそれはのどかに思わせた。

柱時計が、11時を告げる音を鳴らした。4回鳴ったところで、のどかは食器の片付けをするために席を立った。

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