二章 1~2
二章
1
奈倉ゼミでの課題は、民法94条2項の類推適用に関するものだった。これは一般に「権利外観(保護)法理」と言われている。純永はこの言葉を、民法総則の講義の時に聞いていた。民法94条は、民法典の法律行為の章(第5章)、意思表示の説(第2節)にある規定であるため、その2項も、民法総則のカテゴリィとして扱われている。講義の学期末の試験でも出題されたものだ。事例が与えられ、それに対する法律の解釈・適用の論証を行った。
課題に際して、奈倉は事例を出題した。それは、純永には見たことが無いタイプのものだった。否、そもそもの前提を確認するならば、課題は「民法94条2項の類推適用に関するもの」というのは、純永がなんとなく思ったことである。見たことが無い事例を与えられて、そこにどの法律がどのように適用されるか、純永にはすぐには分からなかったし、なんとなく思い付いた94条2項の類推適用というロジックにも自信が無かった。そこで初めて、自分が94条2項の類推適用・権利外観法理を完全に理解していないことを自覚した。
奈倉は、この事例について法律判断を示してくるように、と言った。玖珠が「この事例には、どの法律が適用されるんですか?」と尋ねると、奈倉は「それは、各自が判断してください」と言った。玖珠は少し驚いた様子を見せたが、少し考えて、考えを改めた目付きをして、「はい、分かりました」と応えた。隣のゼミ員と小声で話し合いをし出す者も居て、その場は少しざわざわとした雰囲気になったが、純永は一人、奈倉が作った、その事例の書かれた紙面に眼をじっと落としていた。
「遠野さん」
突然声を掛けられたので、純永は驚いて、視線を紙面から真正面に移した。声が聞こえた左の方を向く。のどかがこちらを見ていた。のどかと眼が合う。
「はい、何でしょうか」
のどかと眼が合った状態に少しストレスを感じた純永は、視線をずらすことなく、フォーカスの具合を変えた。
「この課題、どう思います?」
「えっと、そうですね…。今はまだはっきりとはよく分からないです。教科書を読んだりして考えないと…」
「そうですか。ありがとう」
のどかは、頷くように謝意を示した。その後、ホワイトボードがある正面を向いた。
純永は、突然のどかに初めて話しかけられて、頭が真っ白になりかけたので、今のたった2.5往復の遣り取りを頭の中で反芻した。のどかが正面を向いた後、純永も正面を見たが、横目でちらっとのどかを見直した。のどかの顔の容姿が改めて意識される。リラックスした雰囲気で、瞳がほんの少しだけ動いていた。
幾つか奈倉に対してゼミ生が質問をした後、奈倉は、他に質問がないことを確認して、ゼミを早めに切り上げて部屋から出て行った。
既に仲が良くなった者同士が早速その場で検討を始めていた。出て行く奈倉を追うように、部屋から出て行くゼミ員も居た。
部屋から出て行く奈倉を眼で追いかけていた純永は、視線をそのまま、玖珠のところに移した。玖珠も課題の紙面に眼を落としている。隣の郁美は、両手を頭の後ろに当てて、天井の方を見ていた。
少し前に花田から玖珠の話を聞いていた純永は、もしかしたら玖珠は話しかけやすい人物かもしれない、という思考が頭を過ったが、思い直して、話しかけることはしなかった。
純永はのどかを再び横目で見た。のどかは帰り支度をしていた。それに釣られるように、純永も帰り支度をして、部屋から出ることにした。
2
部屋を出る直前に、純永は後ろから声を掛けられた。玖珠の声だった。少し驚いて純永は後ろを振り返った。
「遠野君。これからちょっと課題についてどこかで一緒にお話できない?」
帰り支度をしながら玖珠は純永に言った。
「えっと…。そうですね、良かったら、よろしくお願いします」
突然の申し出だったが、純永は一瞬で思考を巡らせて、玖珠に応えた。
「ありがとう。遠野君は花田の友達なんだよね?少しだけ話を聞いているよ」
玖珠は笑いながら言った。
花田からどんな話を聞いているのか、純永は気になったが、花田のことを信頼しているので、余計な気を回すのを意識的に止めた。
「どこにします?」
純永は玖珠に尋ねた。
「うーん、そうだね、学食で良いんじゃない?Cスクエアじゃなくて、中央の奴の…、4階のマックで」
「分かりました」
帰り支度が終わった玖珠が、純永に近づいてくる。
「花田から何か俺のこと聞いてる?あいつ変なこと言ってない?」
玖珠は純永を伴って学食に向かい始めながら純永に質問した。
「いえ、特には…」
事前に周到に想定してあった質問だったので、準備した通りの具合で純永は応えた。我ながら、少し馬鹿馬鹿しいことをやっているな、という変な自責と苦笑があった。
「あいつとはサークルが一緒らしいね。何でも、名前も無いサークルだとか」
「ええ、そうなんです」
あのサークルについて玖珠に説明するのは難しいな、と改めて思い至って、純永はサークルについての質問が続かないことを祈るような気持ちになった。
「花田はサークルの活動がとても楽しい、と言ってたよ。そんなに楽しいのなら俺も混ぜてくれ、って言ってみたんだけど、『いや、今はもう定員だ』とか何とか。昔から、あいつの考えていることは、よく分からないところがあるんだ」
玖珠は人差し指で鼻の頭を掻きながら言った。
「え、定員だ、と花田君が言ったんですか」
「あれ、サークルの皆で決めたことじゃないの?」
「サークルのメンバーの増員については、特には…。実際は、そういう話が誰からも出なかっただけで、増員はしないと全体で明確に決めているわけではないです」
「となると、花田は嘘をついた、ということ?」
「うーん…。嘘、というか、花田君がこのサークルの発起人で、一応リーダーだから、花田君の意志としては、ってことじゃないかなと」
「なるほど、花田個人としてはサークルのメンバの増員を望んでないってことか。よっぽど今のメンバでの活動が居心地が良いんだろうね」
「まあ、そんな感じとも言えますね」
会話が途切れたので、ふと、純永は、メンバが増員されるべきか否か少し考えてみたが、自分としては、入ってくる人次第だということと、他方で、現状にも全く不満が無いな、と結論付けた。
ゼミは法学部棟の2階で行われていたので、2人は、エレベータを使わず、吹き抜けになっている1階ロビーへ通じる階段を降りて、法学部棟を出た。夕日が照りつける心地良い天気だった。
横に並んで学食に向かう間に、純永は玖珠の服装を横目で見た。薄いピンクのワイシャツを着ていて、その上に濃いグレーのジャケットを羽織っている。下は、ベージュのズボン、たしか「パンツ」とも呼ぶはずだが、脚にフィットしていて、スタイルが良く見えた。靴も、普通の運動靴ではない、かといって革靴でもない「趣味の良い」靴(純永にはそれ以外の表現が浮かばなかった)を履いている。
純永の方はというと、白のポロシャツに、くたびれたカーディガン、スーパーで買っただぶだぶのズボンに薄汚れた運動靴という出で立ちだった。普段は全く意識しないことだが、こうして2人が並んでいると、服装から来る他者の自分への印象がいつもと異なるのではないか、玖珠との対比で自分のセンスの無さ・服装への不真面目さが際立つのではないか、そんなことをぼんやり考えた。
二人は4階まで階段で上がるか否か話し合い、結局エレベータに乗ることにした。エレベータには鏡があって、純永は自分の服装を目で確認した。アパートにこんな大きな鏡はないし、日頃エレベータに乗るときにも滅多に気にかけないから、服を着る時にその概観を自覚しているにもかかわらず、少しがっかりした。自分ももうちょっとお洒落をしてみようか、という考えがほんの少し立ち上がる。
4階のマクドナルドは空いていた。これから混み始める時間帯だった。学食のマクドナルドはセルフサービスなので、2人はそれぞれ自分の注文をして、食事を持って席に着いた。
玖珠は、いただきますの意味合いなのか、両手を少しの間合わせて、ジュースを飲み始めた。純永も自分のアイスコーヒーに口を付ける。
「課題の話をする前に少し雑談しても良い?」
玖珠は話を切り出した。
「良いですよ」
純永は軽く応える。
「さっきも少し話した花田と遠野君のサークルのことなんだけどね。去年の始め頃から活動してたって聞いているんだけれど、どんなことをやってたの?」
「えっと、最初は、『メンバの大学生活の向上』を共通目的としたサークルだということで5人が集まったので、それぞれが書いたある程度の長さの文章を交換して、それについて話をする、といったことをやっていました」
「どんな文章をみんなは書いたの?」
「それは…、人それぞれですね。後の議論の中で、正義に関する文章だ、とか、自由に関する文章だ、とかいったふうに、ある程度個々の文章のテーマは絞り込まれましたが、だいたいは、散文というか、エッセィみたいなものですね」
「ふーん、エッセィを好きに書いたと」
「今振り返れば、みんな面白い文章を書いてきたので、その場の議論は例外なく結構盛り上がりました」
「一志木さんって女の子がいるよね?」
「いますね。一志木さんがどうかしたんですか?」
「いや、どうってことはないんだけどさ。彼女はどんな文章を書いてきたの?」
「一志木さんは、今も少し話した自由に関する文章を書いてきましたよ。わりとストイックな、インパクトのある文章でした」
「それってちょっと読ませて貰えたりしない?」
「えっ、玖珠さんが、ですか?」
「そう」
「うーん、別に、部外秘って話にはなってませんでしたけど…」
「けど?」
「一志木さんに一言断らないといけないかなって」
「断ってもらえない?」
「それが…、たぶんダメって言いそうで」
「やっぱり」
「やっぱりなんですか?」
「ああ、いや、やっぱりというか、なんというか」
「玖珠さんは一志木さんともお知り合いなんですか?」
「うん。一応ね。高校が一緒だった」
「ああ、花田君と高校が一緒だったってことは、そうなりますね」
「遠野君から見て、一志木さんってどんな人?」
「うーん、どんな人か、ですか…」
ここで少し間が空いたので、純永には考える余裕ができた。自然な流れだったので見落としそうになったが、どうやら、玖珠は賽のことを聞きたがっているようだった。理由は色々考えられるけれど、純永は一番単純かつ明快なものを想定して話を進めることにしようと静かに判断した。
「あくまで、僕から見たら、ですが、不思議な人ですね。何を考えているのか、真意というか、そういうものが読み取れない人です」
「うんうん。他には?」
「あとは、どうも、聞くところによると、一志木さんは不真面目だったり、出不精だったりするみたいですが、一年でゼミが一緒だったのでそれも含めて考えるなら、特にそんなことはなく、真面目な人ですね」
「不真面目で出不精なの?」
「自分でそういうふうに言ってました」
「へえ…」
玖珠は、ポテトを数本掴んで口に入れて、ジュースを飲んだ。現在進行形で特にカロリィを消費しているのかもしれない。
このままだと、なんとなく自分が窮地に立たされそうな気がしたので、純永は切り返した。
「玖珠さんから見て、高校の頃の一志木さんはどんな人だったんですか?」
「俺からはね…、うーん、完璧超人、かな」
「完璧超人?」
「そう。完璧超人。なんでもできる人だったからね、一志木さんは。勉強では最後まで敵わなかった。スポーツでも、ね」
「スポーツって、一志木さんは部活をやってたんですか?」
「そう、剣道部。俺と同じ」
「へえ、一志木さんは剣道部だったんですか。全然知らなかった」
「そうなの?サークルやゼミで自己紹介が…って、ああ、隠してたわけね、なるほど」
「そうです、隠してたみたいです」
「彼女、剣道では物凄く腕が立つんだよ。うちの高校は団体戦で県大会より先に進めなかったけれど、彼女だけは全国レベルだったんだから。それに彼女は、高校の練習には全く参加していなかった」
「参加していなかったって、どういうことです?」
「試合のときだけ登録されて参加する選手だったってこと。実際腕が立つから、そういうことも可能だったわけだ。高校以外の場所で練習しているんだろうって部員の間では噂話されてたよ」
「それは…特殊ですね」
「そう。試合にだけ颯爽と現れて、自分の相手を倒して、帰って行く。でも、よく分からないところがあって、前の試合で圧倒的な動きをしていたかと思うと、次の試合で、あっさり負けたりするんだ。剣道の団体戦は勝ち抜きだからね、一志木さんが全員倒せば団体として全国に行くことも可能だったんだけど、そういうことがあって、うちの高校は地区予選で負けてしまった。気分屋なんだね」
「それは、僕にもよく分かります」
「だろう」
玖珠はジュースを一気に飲んで、ジュースが無くなったことを知らせる音を鳴らした。
「勉強でも全く同じだった。学校の成績はそんなに取れてなかったんだけど、模試の成績がピカイチなんだ。うちの高校はそれほど大した進学校じゃなかったけれど、教員も絶句するような点数を模試で叩き出すわけ。でも、数学だけは苦手だったみたいだね。ああ、ちなみに、数学といえば、花田は数学が得意だったよ」
自分には得意科目は特に無かったな…とぼんやり考えていた純永に、玖珠は言葉を継いだ。
「一回一志木さんに『どうやったらそんなに剣道で強くなれるの?』って訊いたことがあるんだ。そしたら、何て言ったと思う?」
「修行あるのみ、とかですか?」
「いや、違う。『こんなの、にらめっこと一緒よ』だって」
「どういう意味なんでしょう?」
「まあ…ある種の極論ではあるね。一応、武道的にも筋が通った考え方ではある。ただ、理論と実践というものがあるからね…」
玖珠は、飲み物を買いにレジに向かった。純永は、にらめっこなんて最後にしたのはいつだろう、と過去を振り返った。自分はすぐに負けていた気がする。きっと、賽には剣道でもにらめっこでも全く歯が立たないだろうと思った。
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