一章 4~7

「それでは、軽く自己紹介をして頂きましょうか」

基礎演習の先生が、ゼミ生全員に向かって言った。少しぼんやりしていた純永は、自己紹介という言葉を聞いて、今日が基礎演習の一回目であるという現実に一気に引き戻された。

「では、そうですね、えっと、そこの方から」

「はい」

右斜め前方に居た男性が返事をする。机があるため、男性の下半身は見えなかった。髪の長さは短めで、ワックスできちんとセットしてある。Yシャツの袖を肘まで捲り上げて、右腕にオレンジ色のリストバンドをしていた。

「玖珠承太朗と言います。趣味、とか言った方が良いんですか?」

玖珠が先生に尋ねる。

「ああ、その辺はご自由に。あまり長くなり過ぎては駄目ですよ」

「はい。趣味は古着屋を見て回ることです」

「へぇ、古着屋ですか」

先生が相槌を打つ。

「よろしくお願いします」

「では、次の方」

「はいっ」

玖珠の隣は女性だった。ぱっと見た感じだが、男の子のような格好をしている。ボーイッシュ、と言うのだろうか、純永は一度もその単語を発音したことが無かったが、頭の中でその形容詞を目の前の女性に当て嵌めた。髪型が隣の玖珠とそれとなく似ている。しかし、髪を茶色に染めているところが違っていた。

「大越郁美です。趣味ですか…。ごめんなさい、ぱっと出てこないので、趣味の話はパスで」

頭をかきながら、郁美はそう言って先を促した。

「分かりました。ではその隣の…、貴方ですね、お願いします」

純永に順番が回ってきた。先生の声を合図に純永の頭もフル回転する。と同時に、少し焦っていた。いつも自分の頭の回転の立ち上がりの遅さを恨めしく思う。

「あっ、えっと、遠野純永です。趣味は特には…、読書くらいでしょうか。でもこれって趣味とは言えませんよね…」

「まあ、そうですね。大学生なら、本は読みますからね」

先生が笑顔で言った。

「そんなに趣味の話を広げようとしなくても大丈夫ですよ。お名前をきちんと言うことが大切ですからね」

「はい。皆さんよろしくお願いします」

座った状態のまま、少しばつの悪い感じを覚えながら、純永は頭を下げた。

「はい、ありがとうございました。では次の…、あ、彼女は私から紹介しましょうか」

純永の隣の女性の番になったが、どうやら先生自身がその女性を紹介するようだった。

「彼女は、海のどかさんと言います。実は、この大学の学生ではありません。事情があって、このゼミに特別に参加してもらっています」

隣に座っている女性が、このゼミで特別な存在だったということは、純永には全くの予想外だったので、純永にしては珍しく、少しの間じろじろと相手を見た。

髪の色は真っ黒に見えたが、改めてじっくり見ると、どことなく緑色が入っているように純永には感じられた。髪の長さは、賽よりも短い。純永のボキャブラリィで言えば、オカッパ頭、と表現されるべきものだった。白の長袖にジーンズという普通の出で立ち。髪の色、それも自分の錯覚かもしれないが、そこを除けば外で出会っても見過ごしてしまいそうな見た目だ。

相手をじろじろと見ている自分を自覚して、すぐに純永は目を逸らしたが、一瞬だけ、のどかと目が合ったようにも思えた。


朝の6時40分に郁美は目が覚めた。いつも目覚ましは掛けていない。日の光はもう地平線から姿を現しており、窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえてくる。

(頭…痛い)

郁美にとって、朝の頭痛はいつものことであった。薬で治す類のものではない、いわゆる偏頭痛である。錐でもみこまれる、というより、脳にかかる重力だけが大きくなる、そういうものであった。

羽毛布団を跳ね除けて、台所に行く。冷蔵庫から、真っ赤なトマトジュースのペットボトルを取り出した。コップに注ぎ入れたそれを一気に飲み干す。

(……不味い)

コップを水に漬けて、服を着替える為に部屋に戻る。

台所から二階への階段に向かう廊下の途中で、洗面所から声を掛けられた。

「おはよう、郁美」

伯母が出勤の支度をしていたのだ。

「おはよう、伯母さん」

伯母の方には一切視線を向けず、湧き出てくる欠伸を噛み殺しながら、郁美は階段を上り始めた。

「あ、郁美。私今日は仕事が遅いから。夕飯いつもみたいに適当に食べておいて」

「はーい」

曖昧な頭で伯母の言葉を軽く聞き流しながら、自分の部屋のドアを開けた。

(夕飯何にしようかな)

伯母の帰りが遅い時は、郁美は自分で好きに夕飯を食べることができる。出前でも、外食でも、自炊でも何でも良かった。

服を着替えながら、不味いトマトジュースのお陰で徐々にエンジンが掛かって来た頭で今日のスケジュールについて郁美は考え始めた。

(ああ、二回目の基礎演習の曜日か)

郁美が選んだ基礎演習の選抜試験は、民事法に関する基本的な論点についての記述式の問題だった。学生の数が多いのと同様に、設けられている基礎演習の数、つまり、基礎演習を担当している先生の数も多かった。それもあってか、郁美のゼミは、特段競争率が高いというわけもなく、最初の回のときに、自分のゼミの担当の先生が、一人だけ定員の関係でやむなく落とした、と話していた。

前の週で、ゼミのメンバと先生の自己紹介が軽く行われ、今後のゼミの流れの確認が為されていた。C大学は一学年の人数がとても多いため、そこには見知った学生は一人も居なかった。学生としての二年目であるから、皆自己紹介も手慣れたもので、その日は滞り無くゼミが進んだ。

(顔は覚えているけれど…名前はまだあまり自信が無いなぁ。あと、あの海さんって人、一体何者なんだろ)

先週のゼミの様子を思い出しながら、郁美は一人考える。

郁美にとって、民事法は、可もなく不可もなく、普通なものとして映っていた。もっと言ってしまえば、法律に対して郁美はそれほど関心を持てていなかった。数学が苦手だった高校生の郁美は、法学と経済学と文学の中で、一番無難そうだから、という理由で法学部進学を決めた。事実、入学してからも、自分で言うのもおかしな話かもしれないが、無難に過ごしてきたと思っていた。一学年の終わりの試験では、一科目だけ可があったが、他は良以上であった。

鏡に向かって髪型のセットをしている頃には、目も頭も完全に醒めていた。郁美のファッションは、髪型を含め、周囲の人間には不評であることが多かった。スカートを最後に履いたのがいつか、郁美自身も思い出せない。今も、七分丈のタイトなパンツに、Tシャツと薄いアウタを着ていた。髪型も、一応自分としてはセットしているつもりなのだが、周りからは「寝癖付いているよ?」と言われることがしばしばだった。

「こういうのが可愛いと私は思うんだけどなぁ…」

鏡に向かいながら、ぼそぼそと独り言をつぶやく。基礎演習のメンバにはどんな風に自分が映るか、それを考え始めると、俄然郁美は気持ちが昂ってきた。

「はぁ…今日も1日頑張りますか」

ベッドの脇のショルダーバッグの中身を出し入れし始める。そろそろ、このバッグの紐の寿命も近づきつつあると見えて、新しいバッグを買おうか否か、ほんの一瞬だけ考えた。


「意思主義と表示主義の問題について、皆さん試験でよく書けていました」

奈倉敬は、ゼミが始まって開口一番、ゼミ生達に言った。

「しかし、この問題は、もっと複雑に、いくつもの事柄に派生するものですから、少しずつそれを勉強して行きましょう。皆さんは、法律行為、という概念について、一応学んだはずです。また、意思表示、という言葉も聞いたことがあるでしょう。パンデクテン方式で組まれた日本の民法は、体系的に緻密に設計されています。体系、と言ってもまだそのイメージを明確に掴むことが難しいでしょうから、今は、システム、と簡単に言い換えて差し支えないでしょう。つまり、全体と一部が、それぞれ機能的に結び付き、全体として整合性を保って一つの法律が構築されているのです。それは、実は、日本の法律全体についてもそういう意図で作られています。その辺りのことは、一年の頃に法学概論で多少習ったはずです」

奈倉は学生一人ひとりに目を配りながら、身振りを交えて、多少の板書もしつつ話をした。

「皆さんは、法律を勉強するときに、法律学の教科書を読んでいると思います。教科書の他にも、概説書や専門書、論文や論文集といったものがありますが、皆さんが用いている教科書とは、イメージとしてはこんな感じです」

奈倉はホワイトボードに正三角形を書いた。その上の頂点から、三角形の中心に漸近する曲線を書き、その線を右の頂点に結びつけた。

「法律学の教科書とは、今書き出したこのエリア、この曲線と、正三角形の右上の直線とで囲まれたエリアを網羅しています。この三角形全体を体系すべてとするならば、教科書をただ読んだだけでは、このエリアのことしか分からないのです。だから、最初に教科書を読むときは、斜め読みでも、分からないところがあっても良いから、本の始めから終わりまで頑張って読みましょう。そして、次に読むときには、目次に注目してみるのが良いですね。良い法律学の教科書は、教科書自体もまたシステマティックに書かれています。慣れてくれば、初めて読む本でも、目次を見て、その段組から、その本のシステムを読み取ることができるようになります」

ゼミ生全員が、課題図書に指定した教科書に目を通している。

「皆さんは、大学を卒業してから、直接的に法律に関わる仕事には就かないかもしれません。しかし、この考え方、物事をシステマティックに捉える姿勢は、人間社会の色々な場面で垣間見えるものです。せっかく、システムの典型の一つである法律を扱う法学部に来たのですし、この際ですから、外国語を学ぶ気持ちで、それを身につけてみましょう。法律を学ぶのと外国語を学ぶのはとてもよく似ていますからね」

笑顔とともに、奈倉は言った。


純永は、基礎演習が終わってからサークルの部室に向かった。その日は雨だった。傘を差してアパートに帰るのが億劫だ、と感じる。傘を差していても、運動靴の爪先は濡れてしまい、足のところが気持ち悪くなってしまうからだ。昔、高校の物理の先生が、雨が垂直落下しているときは、傘を前に傾けながら歩けば良い、と言っていたけれど、それをしても、傘から落下する水滴でズボンや靴が濡れたりするし、最適な角度の見極めやその維持を毎回するのもやや手間だ。同じ雨でも、雨は毎回違う雨だからだ。考え事をしながら歩く癖のある純永には、その習慣を付けることは難しかった。しかし、この歳で、長靴を履いて、子供のように傘の中棒を肩に押し付けて、無邪気に歩くこともできない。そういえば、相合傘なんていう言葉があったな、と思い至る。オカッパ頭もそうだが、知っているけれど発音したことのない単語は沢山あるものだ、と一人で面白がった。

水浸しの床で滑らないように気をつけながら、サークル棟に辿り着いた。雨が降り込んだ階段を慎重に上り、荷物で見通しが悪い廊下を通って、サークル室のドアの前に来る。ドアがほんの少し開いていて、中から光が漏れていたから、既に中に誰かが居るということが分かる。

ノックして、合図を待たずにドアを開けた。

「やあ、遠野君」

中には花田が一人居た。本を開いてテーブルに向かって座っている。テーブルの上に飴の袋が置いてあった。

「花田さん、こんにちは」

荷物を所定の位置に下ろしながら、純永は挨拶をした。

「飴、いるかい?」

花田は飴の袋に手を伸ばしながら訊いた。

「あ、ええ、頂きます」

花田が純永の手に飴を一つ渡す。それはラムネだった。

「ああ、懐かしいですね、これ」

封を切りながら純永は言った。

「そうだね。でも懐かしいというものでもないよ。今も現役だからね」

自分の物言いが気に入ったのか、花田は口を斜めにしていた。

「何の本を読んでいるんですか?」

「政治思想の教科書だよ。なかなか難しいものだね。外は雨で嫌な天気だっただろう?」

「ええ、帰るのが嫌になります」

「かといってここに泊まるわけにはいかないからね。たぶん、泊まっていてもバレない気はするけれど…」

花田は笑いながら言った。

「ところで、遠野君。唐突な質問だけれど、遠野君は、基礎演習の先生は誰だったっけ?」

「奈倉先生ですね」

「ああ、やっぱり」

花田は笑顔になった。

「何がやっぱりなんですか?」

「玖珠という奴が同じゼミに居るだろう?」

「ああ、はい、居ますね」

「あいつは俺の知り合いなんだよ、実は」

「えっ、そうなんですか?」

「うん。旧知の仲という奴でね。あいつとは、中学も高校も一緒だった」

「へぇ、そうなんですか」

「なかなか格好良い見た目をしていただろう?」

「そうですね、さっぱりした、男らしい感じでした」

「あいつはそっち方面で努力を積んでいるからね。言ってしまえば、センスが無いんだよ。あれは、勉強の賜物」

「センス…ですか。僕も無いですね…」

「いや、遠野君はそういうわけではない。ではどういうことなのかと問われると…、それはちょっと話が逸れちゃうから、今は玖珠の話を少ししよう」

「はい」

純永は、センスに関しての花田の自分に対する分析に興味があったが、話の方向性を決められてしまったので、素直に従った。

「あいつは、典型的な男性の若者なんだよ。とても良い奴だ。人間関係における自分の計算力の無さを気にしているようだが、そんなものは無くたって良いものだ。そんなに裕福じゃないから、一生懸命古着屋で自分に似合う服を探しているんだ。とても健気だろう」

「そうですね、確かに」

「異性にモテたい、という素直な気持ちもある。モテたい、というと、不特定多数から、という意味になりがちだが、あいつの場合はそうではない。きちんとターゲットを絞って、その上でその人の好意を持たれたい、そういう順序で考えている。ただ、それが失敗続きだ、というだけだ。ああ、この話を俺がしたことは、玖珠には黙っておいてね」

「分かりました」

恥ずかしい部分がある話だとは純永は少しも思わなかったが、花田に黙っておくようにと言われたので、秘密を知ってしまったようで、純永は次に玖珠と会うときにプレッシャを感じそうだと思った。

「そして、頭も悪くない。奈倉ゼミといえば、実は一部では結構有名なゼミなんだ。いわゆる大穴というやつだね。奈倉先生はうちの非常勤講師だから、学内では影が薄いけれど、遣り手の先生なんだよ」

「物腰がとても柔らかい先生ですね」

「そう、滑らかに、滞り無く話される。本当は、もっときちんとしたポストを得られるオファが沢山来ているはずなんだけれど、ポストに伴う雑務を嫌って非常勤講師のままなんだ」

「やっぱりポストを得ると、色々と仕事が増えるんですね」

「聞くところに依ると、そういうものらしい。ずっと昔からそうなんだそうだ。こういう現実は、変えていかないとね。変えられないのだとしたら、当事者の方がある程度適応するしかない。つまり、奈倉先生のように、わざとポストを得ない、みたいな形になるね」

「お金を稼ぐのが難しくなりますよね」

「その通りだ。遠野君は研究者になりたいとか考えたりはしているの?」

「いえ、そういうことはまだ…。適性があるのかもよく分からないし」

「そうだね、法学、か…うん、確かに難しいところだ。さっきの話と同じで、遠野君の場合…」

その時、サークル室のドアが開いた。賽が、非常に大きな荷物を抱えて部屋の中に入ってこようとしていた。今にも荷物を落とすか、転倒するかしそうで、純永と花田は同時に立ち上がった。

「何を持ってきたんだ、賽」

慌てて近づきながら花田が問いかける。

「何って、見て分からない?人生ゲームよ」

「人生ゲーム?」

箱が裏返しになっていたから分からなかったが、ひっくり返してテーブルに置くと、でかでかとしたフォントで「人生ゲーム」とプリントしてあった。

「また場所を取るようなものを…、今時人生ゲームなんて時代錯誤だろう?」

一仕事終えた花田が、立ったまま両手を腰に当てて、非難混じりに嘆息する。

「何を言っているのよ。古今東西の人生はゲームであって、人生のゲームである人生ゲームが時代錯誤なわけないでしょう?」

椅子に座って早速蓋を開けようとしている賽が、自信たっぷりに自説を述べた。

「でも…これってすぐに飽きそうね」

箱を開ける手を止めて、振り向き様に賽は言った。

花田が、遣る方無い表情をして、純永の方を向いた。純永は二人がおかしくて、笑ってしまった。

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