燃焼・魔猿・キューカンバ AERIAL AIR REAL

Yo羽ichi

一章 1~3

燃焼・魔猿・キューカンバ AERIAL AIR REAL


遠野 純永(とおの じゅんえい)(C大学法学部法律学科)

大越 郁美(おおこし いくみ)(C大学法学部法律学科)

玖珠 承太朗(くす しょうたろう)(C大学法学部法律学科)

海 のどか(わた のどか)(学生)

奈倉 敬(なくら たかし)(C大学法学部非常勤講師)


一志木 賽(いっしき さい)(C大学法学部法律学科)

花田 勇(はなだ ゆう)(C大学法学部政治学科)

真柴 郷子(ましば きょうこ)(C大学文学部日本史専攻)


ひとたび身につけた意味づけの体系――それが慣習として確立すると、それは逆にそれを身につけた人を捕えて放さない「牢獄」にもなる。それを捉えた人間を、今度はそれがとりこにするのである。捕えられた人間は、その意味づけの体系の決まりに従って、ものを捉え、行動する。人間は機械のように動き、すべてが「自動化」する。何かが起こっているようで、実は何も起こっていない――そういう世界が生じてくる。

(池上嘉彦『記号論への招待』岩波新書)


「あいつは玉子は出すがとりなんか出せやしないんだよ」

「どうして」

「どうしてって、出せないよ」

「だから小父さんも自動車なんか買えないの」

「うん。——まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」

「じゃキッドの靴さ」

 毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落して真事まことの足を見た。さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。

「赤かったのをうちでお父さんが染めたんだよ」

 津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄ことがらが、何だか彼にはおかしかった。学校の規則を知らないでこしらえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父の窮策きゅうさく滑稽こっけい的に批判したくなった。そうしてその窮策から出た現在のお手際てぎわくすぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。

「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」

「だってこんな色の靴誰も穿いていないんだもの」

「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多めった穿けやしないよ。ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」

「だってみんなが尨犬むくいぬの皮だ尨犬の皮だって揶揄からかうんだもの」

 藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみはかすかな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。

「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」

 津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。

「立派な何さ」

「立派な——靴さ」

(夏目漱石『明暗』青空文庫)


柔らかい雨が傘を打つ。仄かに甘い煙草を吸いながら、意識は微睡んでいた。煩くもなく、無音でもない。あちらこちらから、屋根や樋を伝って出来上がった大きな雨粒が、水溜りに大きな波紋を作る音が聞こえた。

「あ…」

何かを言い掛けた。でも、言うのを止めた。誰かにこの声が聞かれただろうか。誰かはこの声を聴いていてくれただろうか。

自分の指を見た。淡い黄色に変色している。煙草の吸い過ぎかな、と一人苦笑いをする。

意識を遥か遠くへ。それは未来へなのか、過去へなのか。自身にさえ、判然としなかった。瞼をゆっくりと閉じた。

耳には雨音。鼻には煙草とアスファルトの埃の臭い。視界は黒く、自分にだけ、自分の声の名残り。

穏やかな風が頬を打つ。息を吸う。水の臭い。鳥が飛び立つ音。太陽が雲間から光を投げ掛ける隙間。

包み隠された心。母親の鼓動。父親の手の平。足が地面を叩くリズム。健気な笑い顔。

雨は霧雨に変わった。鼻歌が溢れ始めていた。


一章

大学二年生になった遠野純永は、民事法のゼミを履修することにしていた。一年生の頃にゼミが一緒だった一志木賽は、刑事法のゼミに行くと決めたので、2人がゼミの時に顔を合わすことは無くなることとなる。

花田勇が発起人となって出来上がった名も無きサークルは、メンバの大掛かりな自己紹介文の交換の後も淡々と活動を続けていた。九葉吾務人は、自分の勉強の都合で、出席できない回が増えていたが、その他の4人は、それぞれできるだけ都合を合わせて集まって、絵を書いたり、漫画の回し読みをしたり、映画鑑賞をしたりと、傍から見たら、遊んでいるとしか言いようが無い活動に勤しんでいた。活動の中心には賽が居て、彼女が持ち込んだ媒体やアイデアが、サークルの活動に大いに貢献していた。

純永の法律学の勉強は、順調に進んでいた。そもそも、一夜漬けなどとは無縁な性格なので、日々の課題や講義に予習復習を欠かさなかったし、期末試験の時に、周囲の学生達が慌てふためきながらノートの遣り取りをする中、時々目敏い学生に呼び止められては、ノートの写しをプレゼントしていた。

二年生になる直前に、導入演習の次の演習である「基礎演習」の先生を選択しなければならなかった。導入演習の時は、先生方が一同に会して、新入生に向けてマイクパフォーマンスをしてくれたが、もう大学生活に慣れたであろう二年生向けの基礎演習では、そういったものはなく、ただ先生が自分の演習の概要や意図、テーマを記したものの纏めが冊子として渡されるだけだった。

純永は、一年生の頃から引き続き、民事法の先生のゼミを履修しようと考えた。そのことを賽に言うと、賽は少し目を見開いて、微笑んだ後にこう言った。

「そう。私は刑事法の方に目を向けてみようと思うわ。なんて言えば良いのかしら、やっぱり、ある程度予想していたとはいえ、民事法は私には少し退屈なのよね。『切った張った』が少ないじゃない?もちろん、重要性が低いなんて言わない。どちらも、歴史的に膨大な積み重ねがある。でも…、そう、刑事法のゼミの方が、アグレッシブな人が集まりそうだな、って。結構、私って、出不精なところあるから」

刑事法に「切った張った」が多いという捉え方は、容易に理解できたが、賽に出不精なところがある、という自己分析については、純永にはさっぱり分からなかった。このような会話を経て、純永と賽は履修するゼミを違えることとなった。


時刻は昼過ぎ。食事を終えた純永は、法学部棟1階のロビーの椅子の一つに腰掛けて、大学から配布されている基礎演習の要項の冊子をパラパラと捲ってみた。傍らのエレベータの扉の方から、電子音が聞こえた。次の講義に向かう物憂げな学生達が、ぞろぞろとエレベータに乗り込んでいく。

沢山のゼミの紹介が載っている中、一人の先生のそれに目が留まった。頭から最後まで、ある程度時間を掛けて目を通す。

(…………)

純永がその時気に入ったのは、個々の言葉、センテンスの意味、扱われようとしているテーマ、それらのバランス、必要十分な言及はもちろんのこと、その上に感じられる、その紹介文全体の構造、背後に感じられる書き手の意思、その文章から感じられる固有の雰囲気、人柄のようなものだった。

(この人にしてみようかな…)

ドッグイヤーを作って、気持ちを切り替えて辺りを見渡す。学部の掲示板の前に佇んでいる一人の女性が目に入った。

純永は、その容姿にフォーカスした。どこにでも居る大学生、そういう印象の服装と髪型だった。綺麗な手を髪に当てながら、掲示物に集中した視線を落としていた。もう一方の手には、テキストやノートなどの冊子を纏めて持ち運ぶための透明なファイルケースを持っている。

女性が突然こちらを向いた。もう少しで目が合いそうになるところで、純永は慌てて他所を向いた。

(僕が見ていたことは気づかれていないよな…)

首にぎこちなさを感じながら、慌てて荷物を纏めて純永は生協に向かった。

生協に向かう道程で、何か忘れ物がある気がして引き返すと、ロビーの机の上にペンケースが置き去りになっていた。ペンケースを拾い上げて鞄に入れながら、掲示板の方に再び目を向けると、さっきの女性の姿はもう無かった。


「承太朗、最近調子はどうだ?」

自作の模型飛行機を、右手で仮想的に操りながら、花田は携帯に向かって尋ねた。

「調子はどうって…。お前そんなことにはちっとも興味が無いんだろ」

スピーカから短調な声が響いて来る。花田は笑いながら応じた。

「人間関係は、『調子はどう?』から始まるって、中学校の英語の授業でもそう習うだろう」

「どうやら古くからそういうものらしいな。いや、俺も実際深くは知らないが…。それはそうと、お前の方は、一年間楽しく大学生活を送れたみたいじゃないか。順風満帆という感じか」

「俺は醇風美俗の方が好きだぞ」

「なんだそりゃ」

「ん…まあ、あれだ。寅さんだよ、寅さん」

「寅さん?あの古めかしい映画のことか?あれのどこに好きになる要素があるんだ?」

「そんなことも分からないのか…仕方ない奴だ」

デスクの上に飾ってある、自作した模型の数々に目を移しながら、花田は、旧友である玖珠承太郎の問いに軽く応じた。風呂上がりで身体が火照っていたから、これまた古めかしい瓶のラムネを飲んでいた。

「お前の方はどうなんだ、承太郎。大学生活は楽しいか?」

「別に…。普通だよ。まあ、でも、あれだ、意中の女の子は一人できたかな」

「ほう…。面白そうな話じゃないか。お前もようやく積極的にそういう話ができるようになってきたか」

「俺は昔から積極的だよ。ただ、なかなか相手が自分の思うようにこちらを向いてくれないだけで…」

「前から言っていると思うが、それについてお前に責任は無い。お前は常にベストを尽くしている。俺から見た限りはな」

「そうだよな…。勇にそう言われるんだから、実際俺もそう思う。しかしこの場合、むしろ、その事実が逆に救いが無いな」

「そうだな…、返す言葉も無い」

「お前しか返せる相手は今居ないだろう」

「その事実もまた、救いが無いな。携帯越しじゃ、お前に今飲んでいるラムネを奢ってやることさえできない」

「そんなお子様みたいな飲み物要らないよ」

ふと花田は、斜め前にあるガラス窓の外を眺めた。雨が降りそうで降らないという、なんとも言えない天気だった。

「あれだ、今度の恋は、より良い結果になるように、占い師にでも占って貰ったらどうだ」

「占いか…。あれは結局、コールド・リーディング、だっけ、あれと、統計的な推測で成り立っているものなんだろう?」

「そうだな。故に、そんなに馬鹿にできる代物ではない。ただな、あれは、客観的かつ自覚的な事柄については、その事柄を補強するように働くことしかできない場合が多い。並の占い師ならまず間違いなくそうなる。そんな中で、未来を変えようとするなら、神のみぞ知る、いや、神さえ知らない突破口を探すしかないこともあるだろう」

「知らないことがあるような神なんて、そいつは神として役者不足だろう」

「神という役があるのかも定かじゃないがな」

花田は、自分が発起人となって作ったサークルができて間も無い頃のことを、視線の遠くで思い出していた。もう一年が経とうとしていた。目の前のガラス窓を改めて見る。規則性の無い、雨粒の模様。雨粒を見て、初めて雨が降り出したことを認識した。

瞬時に頭を切り替える。

「まあ、そういうことだから、あまり人の意見、もちろん俺を含むが、周りの意見を参考にし過ぎても、身動きが取れなくなるぞ。出会いというのは、突然訪れる。しかし、狙って起こすものでもある。たしかに、俺の経験から言っても、出会いから筋書き通りに線を引くことは困難を極める。修正の連続だし、予定は未定ではあるが、予定調和でもある。たしか、ライプニッツだったか…」

「ああ、そうだ、俺は今プリッツを一箱空けたところだよ。暖房の効いた部屋で飲むビールは美味いな」

「ビールを飲んでいるのは予想できたが、摘まみまでは分からなかったよ」

「今度、あの子とポッキーゲームでもやれたらな…」

(まず、その、恋に関して発想が貧弱なところから何とかしないとな)

雨粒の跡を無作為に指で結び付けながら、花田はラムネを一口飲んだ。

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