八章
八章
1
「九葉君、この文献の和訳を来週までにやってくるように」
指導教官のSは吾務人に言った。
「分かりました」
吾務人は文献のコピーを受け取る。
Sと吾務人の繋がりは、吾務人がSに、Sの講義の後、質問に行ったときから生じていた。その時、Sは、吾務人のことを評価し、以降、吾務人に対して定期的に課題を出している。吾務人はその課題を着実に熟していた。
受け取った文献にさらりと目を通す。ドイツ語だった。参考文献のリストを見ると、半分以上は既に読んだことがあるものだった。
学部の図書館に足を向ける。昼休みということもあって、自習をしている者が比較的多かった。
いつもの場所に荷物を置く。席には座らず、ドイツ語の辞書と、先ほど確認した、今回の文献の参考文献の中でも未読のものが収録されている書籍を取りに行く。ルーチンそのものだった。
目当てのものが収納されている書架に辿り着く。背表紙をざっと見渡し、目的のものを見つける。
「………」
その時、一冊の本が、吾務人の目に一瞬だけ入った。既に何度か読んだものだ。当該分野の本の中でも、基本書として広く認知されているもので、古いものではあったけれど、近年その見直しが進められている。
「………」
目的の本を取り出そうとしていた吾務人だったが、それを中止して、再びその本に目を向ける。
吾務人はその本を手に取った。手に取る前から、目的は達成されていたと言えるのだが、その一手間を、吾務人は惜しまなかった。
「………」
ページは覚えていた。否、ページはおろか、該当箇所の文言は、暗唱ができるような状態であった。
黙って紙面に目を落とす。空調の静かな音だけが、耳に入った。
「………」
ふと我に返る。目の前には相変わらず、暗唱できる文言を記した書籍。聞こえるのは、単調で変化が無い空調の音。
「………」
吾務人はその本を書架に戻した。その後、目的の本を手に入れて、自分の席に戻ることにした。
2
三番目に文章を仕上げてサークルのメンバに回したのは郷子だった。日課の昼寝が終わった賽は、コーヒーを飲みながら、その文章に目を通す。内容は以下のものだった。
私は、頻繁に花屋の前に佇んでいる。頻度は週に二~三回程。花屋の前に行く度に、三十分くらいの間、花を見つめ続ける。色とりどり、形も様々な花が、綺麗に整えられて飾られている。
花だけでなく、それを選ぶ人、買う人の様子もよく眺めている。それぞれ、色々な事情があって、それはほとんどの場合明るいものなのだろう、選ぶ人の表情は明るいことが多い。
花の名前や種類を知っていて、指定して花束を作って貰う人もいれば、花のことがほとんどよく分からず、見た時の直観や、店員のセンスを頼りにして、選ぶ人もいる。私はというと、花の名前はほとんど知らない。色や形はよく覚えているから、もし自分が買いたいと思った時には、店員に特徴を伝えれば、ある程度すんなり手に入るだろう。
非の打ち所の無い花ばかり眺めていると、田舎にいた頃に目にしていた花のことを時々思い出す。もちろん、野生の花だから、花屋の花と比べれば、均整も取れておらず、洗練もされていない。
それでも、今の私は疑問に思うことがある。世の中にどんな花が存在するか、その多様さをほとんど知らなかった昔の方が、花の美しさに対して、鋭敏だったのではないだろうか、と。
花屋の花は、人それぞれ好みというものはあっても、どれも個性に溢れていて、その植物がもつ潜在的な美しさを極限まで引き出されている。それは、どんな人が見ても、ほとんど同じように美しさを感じられるということだ。
仮に、今実家に自分が帰省して、昔見た花がそっくりそのまま残っていたとしよう。その時それらの花を見て、私はどう感じるか。
「美しい」ではないかもしれない。きっと「懐かしい」だろう。つまり、失われてしまったものがあるのだ。失われてしまったけれど、失ったもの、失ったことは覚えている。
あの頃の私にとっては、目の前の花がすべてだった。それが世界で一番美しくて、それを眺めている自分がとても幸せで、枯れてしまったときには涙を流すこともあった。
私は、生き物を飼ったことがない。花が枯れる様を見ているうちに、それをしないように心を決めたのかもしれない。大切な何かが、自分の力ではどうしようもない形で、失われていくこと、それに耐えられそうになかったからだ。
季節が巡れば、植物は再び花を付ける。だから、待てば良いのだ、と幼い私は考えられなかった。だって、再び目の前に現れた花は、もう「あの花」ではないから。目の前で花が散ること、そこに美や風情を見出すという習慣が日本にはある。無くなってしまうこと、いなくなってしまうこと、それが美しい?全く理解できなかった。
花屋の花が、目の前で枯れることはない。それは周到に、店員の計らいで、客の目には触れないようにされている。でも、気に留めていた花が、いつの間にか無くなっている。それは、足繁く通っている私には分かる。でも、昔のように、涙を流すことはない。
涙を流していない自分を自覚したときに、「失ったもの」も鮮明に意識される。これも、大人になるということだろうか。大人になりたいなどと思わなくても、人は大人になる。失われるのは花だけではない。家族や友人の死にも直面する。昔の私が「あの花」に対して持っていた感情を再び持つことがあったら、そしてその対象が失われてしまったら、私はどんな風になるのだろう。
まず抱いた感想は、文中でも使われていた言葉だが、「懐かしい」だった。賽の過去にも、今こうしてこの文章を読んだ後においてならば、同じ感覚が確かに存在したと、自覚できた。しかし、驚くべきことではあったが、それをすっかり忘れていた。忘れてしまっていた賽とは異なり、それを明確に記憶し、こういった形で文章に書き表している郷子に、賽はある種の感慨を覚えた。
いつ頃に、自分はここで書かれている感覚を覚えたのか。少しの間、賽は考え込んだが、実家で飼っていた猫と接しているときだった、と思い至る。
ここに書かれていることはどういう風に言葉で表現できるだろう?唯一性、固有性、代替不可能性の感覚とでも言えるだろうか。神を信じない賽にとっても、ここで郷子が言及している、人間が抱く、対象の唯一性、固有性、代替不可能性の感覚は理解できた。
頭でこのように思考して、自分の言語による文章の要約が、あまりに不十分であることに、賽はやや呆れた。ちっとも郷子の文章の本質に迫れていない、そう感じたのだ。
人間が抱く、唯一性の感覚とは、全く幻想として処理されるべきものだろうか。対象が人間と人間以外の場合で分けて考えるべきか。
(ああ…、これが愛なのかな)
賽は一人薄く微笑んだ。自分の思考の飛躍が、少し愉快だったからだ。
3
「まず、僕が感じたのは真柴さんってとても優しいなってことだった」
花田が議論の端緒を作る。サークル室に、いつもの五人がいた。
「あくまで僕が記憶している限りだけれど、僕の人生において、ここまで繊細な、これと似た感覚を持ったことはなかったと思う」
花田が天井を見ながら言う。
「少し照れますね。特に何かを取り繕うつもりで書いたわけじゃなくて、自分が思っていたこと、ある程度長い期間思い続けていたことを、文章に認めたら、こういうものが出来上がっていた、という感じなのだけれど…」
郷子は手元と前を交互に見ながら、小さな声で話す。
純永は、その間、周りの様子を窺った。全体的に、しんみりとした感じが雰囲気として存在していた。前の二回の会合では、やはり議題となった文章の影響を受けてか、メンバ全員がピリピリとした、隙をできるだけ見せないような感じがあったのだが、今回の会合は対照的だった。
ふと吾務人の方に目を向ける。そこで、少し純永は驚いた。吾務人だけは、そういった雰囲気には全く呑まれず、相変わらずとでも言うべきか、独特の鋭敏さを保持していた。
「これは、言葉で表現するならば、何について書かれたものだと思う?この問い自体、かなり無粋なものである気がするのだけれど、議論する上での必要上、ここから話を始めた方が良いかなと思って」
花田が他の四人に問いかける。
しばしの沈黙。ちらりと賽の方に目を向けると、愉快そうにこちらを見つめ返された。何がそんなに愉快なのか、純永は疑問に思った。
「郷愁、かな」
吾務人がぽつりと言う。
「うん…、その言葉は一つのキーワードだよね」
花田が頷きながら言う。
「でも、単なる郷愁じゃない。どこが違うのだろう?この場合は、故郷を懐かしむって意味じゃないね。故郷じゃなくて、古いものをってことだと思うんだけど…」
「そう。でも、古くない。昔のことをって意味では確かに古いと言えるかもしれないけれど、感覚そのものの指向としては、ちっとも古くない」
吾務人が真剣な様子で話す。
「まさか、九葉君の口から、郷愁なんて言葉が出てくるとは思わなかったよ」
花田が少し笑いながら、愉快そうに言う。
それを受けた吾務人は、なんとも形容がし難い表情をしてみせた。無視、ではない。しかし、怒っているわけでも、驚いているわけでもない様子だった。
「えっと…、僕は文学的だなって思いました」
空気が変な方向に向かいそうだったので、純永は少し慌てて発言した。
「文学的か…、なるほど、良い線行ってる気がする」
花田が相槌を打つ。
「詩的、とも言えるかな。詩も文学も僕は詳しくないのだけれど、そういうものが果たす役割みたいなものは、結構明確にイメージとして捉えられている気がしていて、真柴さんの文章は、その役割を果たしているなって」
純永は続けた。
「あとは、対象の唯一性、といった概念だろうか」
吾務人は言った。
「真柴さんは、ある花に対して、それが唯一の存在だと感じていた。それは既に失われてしまった。失われる運命だった。そして、同じ種類の花を見ても、それは自分が唯一性を感じた花とは別のものだということを強く意識している」
「そういう風に言葉で言い表されちゃうと、なんだか恥ずかしいな。でも、その通りだと思う」
郷子は気恥ずかしそうに言う。
「僕も、花田君と同様、真柴さんの文章で書かれているような感覚は、これまでほとんど持ったことが無かった。むしろ対極に当たるような、つまり、どんなものでも、究極的には、代替が利く、そういう考えの方が、親しみがある。だから、この文章はとても新鮮だった」
「代替可能性、不可能性っていうのは、難しい問題だよね。個人の中で構成されるもの、ということは間違いなく言えると思うけれど、それが存在している限りは、良い方向に働く場合が多く、失われてしまわれたときには、場合によっては、破滅的な機能を果たす」
花田は考えながら言った。
「人間の場合をとりあえず考えてみようか。その場合の方が、きっと一般的で、分かり易いと言えそうだから。ある一人の人間、自分が唯一性を認めている人間、そういう人が失われたら、どうするのが一番だと思う?」
「元々そういう唯一性を認めないように、安全策を採るっていうのは?」
賽が楽しそうに口を挟む。
「もちろん、それは今回は御法度だよ、賽」
花田が一蹴する。賽は舌を少し出してみせた。
「ずっとその対象のことを思い続ける、っていうのが王道なのかな。こんな話題で王道なんて言葉を使うのは相応しくない気もするけれど、広く認められ、そして行われているのは、これだと思う」
花田は言った。
「そうね…、私はそれを選択してきたつもり。でも、人間の記憶って、なかなか思い通りに行かないもので、どうしても、対象への記憶って薄れてきちゃうものなの。そして、薄れて不足してきた部分に、後から、自分のイメージを付け足す。そうして一体となったものは、未来の時点から見ると、どこまでがオリジナルで、どこまでが付け足しなのか、分からなくなってしまう」
郷子は寂しそうに言った。
「オリジナルを維持することに、そこまで拘る必要があるのかな?」
吾務人は疑問を投げかけた。
「誤解しないでほしいんだけれど、そういう風に、対象のことを思い続けようとすること、それを否定したいわけじゃない。そうじゃなくて、自分ができる限りの度合い、形式で、現に対象を思い続けたこと、そこに価値が見出されるんじゃないだろうか」
「でも、それって、そうやって自覚した途端に破綻するわね」
賽が意見を述べる。彼女らしい鋭さだった。
「確かに、その通りだ」
吾務人は頷いた。
「思い続けるにしろ、しないにしろ、結局は自分が納得するか否か、そこがこの場合の分かれ目だと思う。味気ない結論に見えるかもしれないけれど、自分が納得するように、自分の感じるままに振る舞うこと、それしか道は無いのではないかしら」
「不思議だよね。思い続けることって、明らかに人間に対して負荷がかかっている。人類の歴史、社会全体が、人間の負荷を少なくする方向に邁進しているのに、個人は何をしているかというと、一定の対象に対して唯一性を認め、それを維持することに熱心に努めている。また、そうすることが『善』である、みたいな社会的な共通認識まである。誠実、なんて言ったりする。その負荷を取り除こうとする気運は一向に生まれない」
「クローンとか?」
郷子が思い付いたことを口にする。
「なるほど、確かにクローン技術はそういう方向性を少なからず持っている。でも、真柴さんの抱える葛藤には、クローン技術じゃ致命的に不足している。唯一性まで引き継がせることはできないだろう?」
吾務人は応えた。
「そうね…、私の認める唯一性って、どうにも扱いが難しいのね」
郷子は考え込んだ。
「一つは、エゴの問題だと言える。つまり、自分が死んでも、自分のことを思い続けて欲しい。そういう考えを持っている人間が、無視できない数いるということ。僕なんかは全く共感できないのだけれど、相手からの思いが無ければ、自分のアイデンティティを保持できない。そういう、人間の脆弱さがあるのかもね」
吾務人は、やや軽蔑を含んだような口調で述べた。
「確かに、そういう側面は否定できないと思うけれど、例えば、私が誰かを大切に思っていたとする。その人が亡くなる。その時、その人の願いを考えて、その人が自分のことを思っていて欲しいと思うからだという理由で、思い続けることを始めたりするものかしら?」
「それは…」
吾務人が口籠る。珍しいことだった。
「そうじゃなくて、相手の意向などとは無関係に、相手のことを思い続けたい、思い続けなければならない、そう感じて、思い続け始める。それが実際なんじゃないかなって。だからこそ、相手の意向を想定することができない、花に対する思いが成立するわけだし」
「やっぱり、愛についての話に議論が向かうのね」
賽が発言する。一同は一瞬沈黙した。
花田が笑いながら声を掛ける。
「なんだ、賽、そんな言葉を思い付いているなら、真っ先に言うべきだったじゃないか」
「ええ、でも、初めからこれを言ったんじゃ面白くないと思っていたの。私は、ここにいる皆が、この文章からどういう風に議論を進めるか、とても興味があった。あるいは、予想外の方向に向かうかもしれない、なんて少し期待していたけれど、良くも悪くも、愉快な流れではあったわ」
「愛ね…なるほどなぁ」
花田は顎をさすりながら、再び天井を見ている。
吾務人も郷子も、賽の言葉には少なからず驚いたようだった。しかし、その一方で、純永だけは、賽の言葉に揺り動かされなかった。
「変化が怖いんだと思う」
純永は発言する。
「変化?」
花田が尋ね返す。
「失われた瞬間が、一番思いが強い。語弊を恐れずに言うならば、失われた瞬間には、まだ失われていない。そのくらいの思いの力が、瞬発的に発揮される。その記憶は、思いの対象の記憶よりも、ずっとずっと強い」
純永はカーテンが開いている窓の方を見た。視線を前に戻す。
「そうやって残った記憶と共に、思いの度合いは少しずつ小さくなっていく。もちろん、波があって、一時的に大きくなることはあるかもしれないけれど、全体的な傾向としては、縮小、じゃないかな。ある時、ゼロに限りなく近くなって、ゼロとの間を行き来し始める。ゼロに成り切ったら、それが変化」
「………」
「自分の中で残存しているものが、思いの対象なのか、思いそのものなのか、区別が付かない。いや、敢えて区別が付かなくしている。そういうものかもしれない。いずれにしても、変化すれば、それは本当の喪失になる」
「既に失われているものを、そんな歪な方法で保存することの意義は?」
吾務人が鋭く質問する。
「分からない。でも、もう、きっと、自己保存と同じなんだと思う。それだけ、くっついていて、引き剥がせなくて、処遇に困るもの。くっついているのに、気を抜いていると消えてしまう。自分を保存するために、コンピュータはバックアップを分散させる。ちょうどそれの逆と言えそうだね。保存すべき自己を、外側に新たに作り出す」
「ああ、大局的に見るならば、生物は皆そうか。人間の特殊性とは、思いが存在するということ、つまり、外側にあるものを、外側でしか存在し得ないはずのものを、自己の内側にも持って来てしまう」
吾務人は自分で自分が言ったことを噛み締めた。賽は、儚げな色彩を持った瞳で、純永の方を注視している。
「愛と言えば、全体への希求という定義があるよね。全体っていうのは、初まりのこと、初めはすべてが一つであったこと、そこから分かれたから、その一つであった頃を、懐かしんで?かな、一つに戻りたい、そういう指向が人間には備わっているのだと」
吾務人は言った。
「これはある意味フィクションだよね。というのも、人間という存在が、たった一つの、一組の、親から産まれた、とは考えられない。もっと同時多発的だったはずだ。これは常識的に考えてもそうだし、いわゆるイブ仮説に関する誤解も、同じ形式であると言える。だから、人間の発生、霊長類における進化のレベルにおいての『全体』ではない。それこそ生命の起源、そのレベルまで遡った上での話だと思う」
「どうして私達は、そういった指向に対して基本的に無意識的なのかしら。愛って、常に、内側から湧き上がってくるものでしょう。何かを愛したい、と振る舞う人もたまにいるけれど、でも結局、その意識的振る舞いの結果として愛することに繋がったときには、その愛は無意識的なものになっている。愛するんだ、愛していると自分に言い聞かせ続けている段階では、それは愛として不適格だとされるでしょう」
賽は疑問を提出した。
「本物と偽物、という分け方、考え方が役に立つかもしれないね。内側から湧き上がってくるものは、まず間違いなく本物だろう。たとえ内側から湧き上がってきたものであっても、愛じゃないもの、それを愛だと錯覚する、そういうことも有り得るわけだけれど、少なくとも愛の必要条件として、それを人間は設定しているわけだ。定義が先のパターンだね」
花田が答える。
「加えて、人間は自分の起源を、完全に意識上に上る形で記憶して産まれてこない、という初期条件がある。あくまで、これは普通の人間の普通の状態の話だよ。普通の場合には、意識上に上らないだけで、人間はそれらを記憶しているし、産まれてくる過程において、起源からの進化を追体験している、夢として見ていると主張する興味深い小説はあるけれども…」
「私とあの花とが、起源を同じくしているから、その起源への回帰を夢見て、花を愛おしく思う、っていうのは、言葉で改めて表現すると、全然しっくり来ないですね」
郷子は軽く笑った。
「無意識的な人間の感情のメカニズムを、無理矢理言葉として表現しているからね。もちろん、メカニズムの説明として、不適切なものである可能性もある」
花田は言った。
「むしろ、こう言った方がしっくり来るかな。あの花は、私が失った『何か』を今も保持している。その『何か』は、かつては私の一部だった。あるいは、その『何か』は、私の一部だったものから派生したものである、だから…」
「起源が同じというだけではなくて、その起源からの派生までも、自分の一部として考えるというわけね」
賽が郷子の発言の整理をする。
「そう。つまり、今の私は決して持ち得ないものであるけれど、過去の時点においては、針が別の方向に振れたならば、私はそれを持ち得た、それに成り得たということ」
「ここまで来ると、愛という概念だけでは網羅し切れないレベルに達してきている気がする。いや、そもそも、今の一般的な愛という概念が、ここまで拡張されるべきものだとも考えられるか…」
花田は考え込む。
「いずれにしても、何を愛するか、ということを、人間が事前に知ることはほぼ完全に不可能だ。起源は一つであったとしても、起源からの世界の分化は、数では把握できないレベルの規模になっている。芸術一つを取り上げても、それは明らかだ。あの小説のように、起源からの進化の一つの道を胎児が夢見ているとしても、その結果としての世界を産まれたばかりの人間は知らない」
吾務人は言った。
「だから、生きるということは、自分が何ものであるか、それを知っていくプロセスそのものであると言えそうね。昨今の社会状況、特に個人が用いることができるネットワークの高速化、肥大化は、その流れ、プロセスを加速させ、オーバーフローするような勢いにもなっているわ」
賽が興味深げに語る。
「その結果、人間は、日常的な態度として、探し求めるということより、捨てること、見ないこと、選ばないことを強いられるようになっているね。ものを創っている人間であるならば、それは昔から変わりなく行ってきたことなのだけれど、ものを創らない人間に対しても、誰かが創ったものが、本人の意向とはほとんど無関係に、流れ込んでくる。そのすべてに対応するためには、人間のスペックとでも言うべきものが著しく不足している」
「私なんかは、日々流れ込んでくる情報に圧倒されることがとても多いの」
郷子は笑いながら言う。
「優先順位を付ける、という当たり前の方法しか、個人にできることはないだろうね。優先順位が入れ替わることは、頻繁にあっても良い。頻繁に変わると、自分が混乱するというのであれば、頻繁に変えなければ良い。とにかく言えることは、二十年くらい前と比較して、情報は個人に対して大幅に開かれるようになったということ。もちろん、肝心な情報はクローズドで属人的であることも多い。そして、開かれているだけで、すべてを知らなければいけないというわけではない」
吾務人は総括を試みた。
「愛する対象を得られるということは、人生における大きな幸運、生きる糧となる。でも、ほんの少し昔の人間は、そんなものをほとんど手に入れられなかった。手に入れられたとしても、その量は、現代と比べれば圧倒的に少なかった。それでも、生き抜いて、財を後世に残し続けた結果、今がある。膨大なストックが、既に地球上に溢れているんだ。焦る必要なんて全然無い。新しいものにキャッチアップしなければならないという気持ちは、焦りに繋がらない程度に留めて、スパイスくらいの気持ちで捉えるのが良い。もちろん、学問やクリエイティブな仕事に取り組むなら話は別だけどね」
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