六章

六章

花田から、自分の文章が出来上がった、という連絡が、他の四人に伝えられた。その連絡と共に、花田の文章が四人にメールで送られた。五人が一堂に会してから花田以外の者が文章を読むのでは、時間が勿体無いからだ。

花田の文章は、次のようなものだった。


小さい頃から、ヒーローが大好きだった。人々がピンチの時に、颯爽と現れて、悪者を華麗に倒して行く。その姿に憧れた。憧れたけれど、それに成りたいとは思わなかった。

悪者、という言葉の後に、犯罪者、という言葉を知った。犯罪者は、裁判所の判決に従って裁かれる。裁判官はヒーローだろうか。ニュースなどで、犯罪者の犯罪に至る経緯を知る。そこには、小さい頃に憧れたヒーローが退治した悪者のそれと同じような、凶悪とも呼べる人間の性質があったりする。しかし、そうじゃない場合もある。子供がひどい虐待を受けて、それを理由に親を殺すとか、介護に疲れ果てた夫が妻を殺すとか、そういう事件もある。彼らもまた、犯罪者であるらしい。もちろん、量刑において差が付けられているし、事情をよく知る者は、彼らを「凶悪な」犯罪者だとは考えないだろう。

ところで、そのような「凶悪な犯罪者」は、ヒーローが退治していた悪者と同じなのだろうか。彼らはそもそも裁かれるべき者なのか。ヒーローが退治した悪者は、基本的に、自分の側が正義だと考え、自分の行為の正しさを確信していた。①自分の行為の正しさを疑っているなら、それは典型的なフィクションの悪者と同じではない。②自分の行為の正しさを確信しているなら、その者には一見すると選択の余地が無い。

①の場合も、②の場合も、裁かれる(「責任」の)根拠は、本で読んだところに拠れば、結果としての法益侵害と、それに伴う「反社会性(規範に対する攻撃的な態度)」に求められるという。①の場合なら、「迷っていた」という事実から、「規範に従う(犯罪者にならない)可能性があったのに、それを怠った(怠慢の問題だ)。だから責任がある」という理屈が導かれる。②の場合については、異常な発育環境、状況などによって、心の底の底まで違法性の意識(の可能性)が欠けていたならば、専門家の間でも犯罪の成否の結論が分かれ得るが、殺人などの場合(自然犯)では、よっぽどのことがあっても(殺人に正義を見出すような人間の場合でも)、違法性の意識(の可能性)は「擬制」に近い形で認定されるようである。あくまで比較的レアなケースではあるけれど。

殺人行為に至るまでに、深く深く悩んで、どん底まで追い詰められた末に、何十人もの人間を無差別に殺したとしよう。そういう人間に、「規範に従う可能性に基づく責任」などというものを、本当に追及して良いのだろうか。

精神疾患に依る人殺しというのがある。この時には、端的に、犯罪成立要件の一つである責任が阻却される。究極的には、適格な殺人(先ほど挙げたような殺人)と不適格な人殺し(精神疾患に依る人殺し)とは、どこに違いがあるのだろう。

大人になった今になって考えることがある。あの頃憧れていたヒーローは、悪者が居たから現れたのではなくて、ヒーローが必要だったから、悪者が生み出されたのではないかと。近頃のフィクション作品には、そういった視点を明確に取り入れたものが出て来ている。けれども、多くの人は、正義の「中身」に関心を持たないまま、正義で「あること」に酔い痴れたいのではないだろうか。

現実のヒーローは、正義という信念あるいは理念、理想に基づいた、絶対的な支持やコンセンサスに支えられたものではない。そんなヒーローは存在しない。ただ、人類は、まるでプログラムからバグを取り除くように、圧倒的な力で「よく分からないもの」を排除しているようだ。それしか方法がないからだ。誤解の無いように付け加えると、僕はその排除が全面的に間違っていると言うつもりはない。ただ、正しい割合と間違っている割合、そのどちらが大きいか、大衆が考えるほど、その勝敗ははっきりしていないという気がしている。

比較的新しい知見として、「世の中に絶対悪などは存在せず、悪を生み出す『システム』があるだけだ」というものがある。部分的に正しいことは間違いないだろう。社会科学も、人文科学も、経済を支える自然科学も、このシステムのバグをできるだけ発生させないために、叡智を積み上げ活用している。その活用とは、結局、(社会)システムの構築・改善であり、すなわち、バグを排除し、原因を究明し、フィードバックして、システムをより良いものに(しようと)する。

バグが完全に発生しなくなることは、未来永劫ないだろう。歴史は繰り返す。でも、歴史の流れは、円環ではなく、螺旋であろう。同じ所をぐるぐると繰り返し回るわけではない。そこには必ず変化がある。正義や悪という言葉はこの先も残っていくだろうが、その中身は、時代に応じて深く考え抜かれ、可能な限り適切な、より普遍的で正しいものへと近づけられていくだろう。でも、人間が変わるなら、普遍性というものの存在も怪しく思えてくる。独裁者が支配する国は、決して遠い過去のものではない。現代の独裁国家は、見かけ上の圧倒的な支持に支えられているだけなのかもしれないけれど、実質的に、心の底から独裁者を大衆が支持した国は確かに存在した。後世になって、その為政の価値が徹底的に否定されるような独裁者を、だ。

僕は、僕の素朴な感覚の、その素朴さに疑問や危機感を感じてこの文章を書いた。ヒーローをカッコ良いと思い、憧れる感覚。悪質な犯罪を憎む感覚。そういうものの不確かさ、曖昧さ、危うさ。自分が信じるに値する、自分の理屈を見つけること、選ぶこと、構築すること。それが比較的適切な人間の有り様だと思う。僕は、今のところ、そう信じている。


純永は、花田から送られてきたメールを、自分のパソコンのモニタで読んだ。一読して、最初に抱いた印象は、「花田らしくない」だった。文章を読んだ後に、純永は花田に対する自分の印象を修正することを迫られた。

純永が持っていた花田の印象は、自分の価値観や価値基準、考え方などに関して、容易にはぐらつかない確信のようなものを持っていそうだ、というものだった。周りにあまり影響されにくいタイプで、自分がしっかりしているから、他人に対しても、それが初対面の者であったとしても、変に緊張したりせず、自然に向かい合える。それを裏打ちする、必要十分な自己への好評価。

この印象形成には、当然、以前賽から聞いた花田に関する話が深く関与している。賽は花田のことを「何でもそつなくこなす優秀な奴」と評した。そういう人間であるならば、自然と自分というものの確かさも積み上げていくことができそうである。この場合、周りにあまり影響されない、というのは、頑だ、という意味ではない。むしろ逆だ。何がより良いかを見極める目と、それを受け入れる柔軟さを持ち合わせているから、結果として確かなものが、選別を経て積み上がっていく。その結果としての花田が、純永の目の前に現れた花田という男だ。これが純永のある程度の分析を含んだ印象だった。

文中に示されている花田の疑問、それは純永にも、核心的なものだと感じられた。犯罪と刑罰のことを語っている部分が多いから、法律の分野の問題のように一見思えるが、話はそれほど単純ではない。現代でヒーローと言えば、裁判官よりも政治家を思い浮かべるだろう。日本ではそうではないかもしれないが、世界に目を向ければ明らかだ。もちろん、フィクションの世界の話ではなく、現実世界の話。現代に限った話ではなく、英雄とは、戦場で功を成す人間を指す場合もあるが、古くから、優れた為政者の意味合いも強い。花田が法律学科ではなく政治学科を選んだ理由が、純永にはなんとなく分かった気がした。

(「自分の理屈」か…)

花田の文章は、この言葉と共に締め括られている。自分の理屈、というものを、純永はあまり深く考えたことがなかった。というのも、純永には、理屈を考える余裕が欠けていた。理屈でどうにかできるような、何かを変えられる類のものではない、そう判断せざるを得ないような現実。そちらの方に、これまでの純永の意識の大部分が割かれていたのだ。

(一志木さんなら、この花田君の文章に対して、確固たる何かを提示できるような気がする…)

賽がこの花田の文章に対して、どんな反応を示すか、純永には興味が湧いた。そして、その場に居合わせる自分は、どんな風に考えるか、何か「自分の理屈」に相応しいものを皆に提示できるか、考えを巡らせた。

そのためには、もっと花田の文章を深く読み込む必要がある。そう判断した純永は、花田の文章を読み直すことにした。


前回サークルのメンバが集合した時間では、全員の都合が付かないことが判明したので、土曜日の昼過ぎから純永達は集まることにした。昼食を共にした五人は、この場では花田の文章に関する話はしないことに決めて、それぞれの近況の話や、大学の面白い先生の話などをして過ごした。

昼食後の談話の区切りが付いたところで、サークル室に移動し、五人は前回と同じ席に着いた。もしかしたら、誰がどの席に着くかは暗黙の内に決定し固定されたのかもしれない。

全員が席に着いて、筆記用具などを準備し、いよいよ議論が始まる、というところで、花田が口を開いた。

「議論を始める前に、僕に少し話をさせて貰いたいと思います」

「何の話?」

皆が花田に注目する中、賽が尋ねる。

「もちろん、今回の自分の文章の話」

「ああ、それなら当然ね。納得の行くまでどうぞ」

やや突き放した感じで、口を斜めにして賽は言った。

「ありがとう。既にみんなは僕の文章を読んでくれていると思うけれど、これを書いた理由というか、経緯といったものを少し話したいと思います。これは、僕が法学部の政治学科への進学を志望した動機の一つを、やや詳しく論じたものです。高校生くらいの頃から、ここに書かれてあるような疑問や考えを持っていて、個人的に刑法の教科書などを読んだりして、関係する部分を勉強したり調べたりしていました。今は、大学に入って、講義を通じて高校の頃に知ったことの復習に近いことをやっていて、個人的に関係する論文などの文献も読んだりしています。でも、僕の抱いている疑問に対して、明確な答えを示してくれるものにはまだ出会えていません」

「たぶん、見つけることはかなり難しいでしょうね」

賽が、花田の話が一区切りついたところで、口を挟んだ。

「かなり抽象的に表現すれば、あなたの疑問というのは、つまり、個人の、特に犯罪者の責任と共同体の正義、そして両者の関係、といったところかしら」

「……」

花田は一瞬黙り込んだ。表情はほとんど変わらなかったが、純永の目には、少し驚いているように映った。

「そう…、そうだね、そういう風に表現できると思う」

視線を斜め右上に上げたまま、花田は答える。

純永は、話をしている二人以外のメンバ、つまり、郷子と吾務人に目を向けた。郷子は、唇を真一文字にして、手を太腿の上に置き、花田と賽を交互に見ている。おそらく、郷子もなにがしかの意見や考えを、既にこの花田の文章に対して持っているものと思われるが、それを切り出すタイミングを見計らっているのだろう。

一方、吾務人の方はというと、腕を組んで、姿勢良く椅子に座り、視線は真っ直ぐ前を向いている。目が全く動かず、その様は、彫像のようにも見える。退屈しているといった様子ではなく、むしろ、高速で頭を回転させているのか、あるいは何も考えていないのか。純永には判断がつかなかった。

「僕が最初に述べたかったことは以上です。では、僕の文章に関する感想をそれぞれ伺おうかな。もちろん、僕の疑問への明快な答えとなるような、核心に迫るものである必要は無いから」

花田は、賽以外の三人にそれぞれ視線を送りながら言った。

「えっと、じゃあ私から…」

郷子が右手を挙げて、最初に感想を述べる者として名乗りを上げた。

「私は、花田君の文章を読んだ時、花田君の疑問や危機感のようなもの、それらが、正直に言って、よく分からなかった。犯罪を犯した人達のことは、あくまでテレビや新聞を通してしか知らないんだけれど、やっぱり彼らは、例外はあるのかもしれないけれど、基本的には、ルールに従い得たと言えるのに従わなかったわけだし、それによって、誰かの大切なものを毀損したわけだから、罰を受けて然るべきじゃないかなって」

郷子は、花田の方を見ながら、時々手元に目を向けて、自分の考えを纏めたメモだと思われる紙を見つつゆっくりと話した。

「私も、ヒーローが登場する作品は結構好きで、子供の頃から、それなりに観ていたわ。あれって、爽快なのよね。悩むところがほとんど無いから…」

郷子はここで、少し間を置いた。そこで、賽が、郷子の話を引き継いだ。

「いわゆる戦隊物に限った話ではなくて、インディ・ジョーンズとかもここで言うヒーロー物に加えて良いと思う。こう考えると、映像作品では、かなりの数のものがヒーロー物と言えるんじゃないかしら。もちろん、単純じゃない物もある。単純じゃないっていうのは、つまり、自分の振る舞いは正しいのか、相手を倒すことは正義なのか、そもそも正義とは何で、どこにあるのか、そういった問題を、観ている者に考えさせる内容であるということね」

「現実世界の正義の問題は、一部のフィクションのように、明確な線引が容易なものではない。それは正しいと思う。でも、大筋において、現実においても、正義の問題はかなりの程度議論が詰められていると考えられるし、実際の法の運用の場面で、限界事例に該当する人は無視できない数いるのかもしれないけれど、大体は上手く行っている、私にはそう感じられる」

花田の方を向いて、郷子は言った。

花田の目付きが瞬きとともに鋭くなる。

「僕は、限界事例における正義の問題、それについては、興味が無いわけではないけれど、あまり関心は無いんだ。そういうものではなくて、もっと『身近な』正義っていうのかな、つまり、普通の人が、普通に生きていく上で、正義というものはどういう役割を果たしていくのか、いくべきなのか。これは僕個人の問題とも言えるのかもしれない。僕は僕自身の正義感が定まらない。だから、自分が納得できる理屈を事ある毎に考えているんだけれど、そういう理屈を考えていくときに、究極的に、『自分が納得できること』だけが判断基準となるのか、その時に、周りの人間、今で言うなら、ここに居る僕以外のサークルのメンバ、そういう人の感じ方、考え方が、僕の考えや納得とどういう風に関わっていくのか。そういうことも明らかにしたくて、僕は最初にこの文章を提示したんだ」

花田は時々少しずつ間を取りながら、自分の考えを明らかにした。

「ああ、そういうことなの」

賽がやや気の抜けたような声を上げる。

「ごめんなさい、私の発言はちょっとミスリードだったわね」

花田は賽の方を向いて頷いた。賽は言葉を続ける。

「法律って、普通に生活していたら、それほど強く意識したりはしないじゃない?交通事故とか、結婚とか、不動産の売買とか、そういうイレギュラな事柄に直面したときに、改めてその存在を自覚する。正義っていうのも、そういうものなのではないかしら?つまり、ヒーロー物の映像作品を見るとか、そういう非日常に際してのみ、意識し、個人の中で機能する。何が言いたいかというと、それほど『普通の』生活において意識する必要は無いもの、その程度のものってこと」

賽は滑らかに意見を述べた。語り終えた後、賽は口を斜めにした。

「賽、本心とは掛け離れたことを言っているね?」

花田は間髪を容れずに言った。賽は両手を顔の横に上げる仕草をする。

「原理的な話を少ししても良いかな」

突然吾務人が口を開いた。戯れ合いのような遣り取りをしていた花田と賽は、少し驚いた様子をして、二人で一瞬見つめ合った後、吾務人の方に目を向ける。他の二人も吾務人の方に注目した。

「最大多数の最大幸福という考え方があるよね。これは、ほとんど文句の付けようがない考え方のように見えると僕は思う。この一つのアイデアで、すべての物事は整理できるかのように錯覚しそうになる。でも、これだけでは話は終わらなかった。例えば、一人の、社会的に危険な、害悪としか評価のしようがない人間がいたとする。その一人を排除しなければ、社会は極めて大きな被害を被る。だから、その個人に対して、社会はどんな仕打ちをしても構わない、端的に言えば、その個人をどんな手段を用いてでも、社会から抹消してもOKだ、と言える。こういう理屈が、単純な功利主義からは導かれるわけだ。じゃあ、実際の社会でそういう人間に対してどういう処遇が為されることになっているか。ここで、適正な手続、というものが持ち出されるようになった。もう一つは人権というやつだね。人権と適正な手続は、最大多数の最大幸福に勝るものとして扱われるようになったわけだ」

吾務人は言った。

「ここまでの話が、花田君の疑問とどう関わってくるかというと、正義というのは、理屈の上を行くものだということなんだ。社会的に危険で害悪としか評価のしようがない人間、そういう者の利益が、最大多数の最大幸福に勝るのはなぜか。これに対する答えは存在しない。強いて挙げるなら、『同じ人間だから』という理屈だ。皮肉なことに、大衆は『同じ人間』として考えられない、考えたくないような人間の話なんだけどね。ここでは、それが『正義に適う』と表現される。言い換えるなら、人間の有り方、人間が作り上げる社会の有り方として、そうすることの方が、より良い、上だ、という根拠の無い感覚の問題にスライドしている。今は、死刑の存在や、凶悪なテロの首謀者に対する報復行動など、実際の現実とはやや位相を異にした次元の話をしている。少なくとも、理念的には、ここまで正義の考え方は高次なものになってきているということだね」

吾務人の話を聞いていた賽が、考えていたことを口にする。

「だけど、実際には、死刑は無くなっていないし、害悪とされる人間の抹殺は世界中で行われているわけでしょう?そのことを無視して、理屈の上でいくら高次の正義を求めても、そんなものに何の力も重要性も無いんじゃないかしら?」

吾務人は答える。

「そんなことはない。いくら現実において、理想通りに物事が進んでいないからといって、理想の方向性、その中身を確定できているのとできていないのとじゃ、雲泥の差がある。この種の問題における、人間の無意識的、無自覚的な感覚の鋭さは、僕は驚嘆すべきものだと思うね」

「じゃあ、結局、正義に関する理屈を考えることに意味が無いと九葉君は言うのかい?」

花田は言った。

「まあ、究極的にはそうだと言って差し支えないと思っているよ。最後は感覚の問題になる、このことは疑いようがないと思う。ただ、あくまで、感覚というのは、動的なもの、揺らぐもの、そして個人的なものであるから、社会システムにそのままの形で反映することができない。コンセンサスを得るプロセスにおいて、より普遍的なもの、正確に言えば、多数の人間に普遍的であると感じさせるもの、そういう『型』に落とし込む必要がある。けれども、利口な人は、型に嵌められていようとも、感覚の差を議論しているな、と見抜くことができるだろう」

少し間を置いた後、吾務人は付け加えをした。

「ただ、感覚の問題だからといって、考えることを止めることには、僕は全く賛成しない。意味が無いからといって、人間は生きることを止めたりするものかな?感覚を普遍に昇華させようとする運動、人類の歴史は正にこれだと言ってもいいくらいじゃないか。こんな風に言い切るのは野暮だと言われると僕も確かにそう思うけれど、人間は、自分の感覚を、自分の中だけで完結させるという能力が致命的に欠けているんだね」

吾務人の正義論が一区切りつくと、純永は何かが引っかかると思った。

(九葉君の言っていることは、概ね正しい。でも、何かが足りないような…)。

鋭さを増した目付きをして、賽が吾務人に意見を述べる。

「たしかに、学問の分野、学者の間では、正義の概念、思想はそこまで高められていて、しかもそのことに自覚的であるかもしれない。でも、やや繰り返しのようだけれど、花田の疑問はそれだけでは、それを知ることだけでは片付かないと思うの」

賽の発言を受けて、花田はややぎこちなく頷いた。おそらく、吾務人が言ったことを自分の中でまだ消化し切れなくて、それに対する思考の進展が並列していたからだろう。

「どういう点で不足していると?」

吾務人は尋ねる。

「それは…」

「自分の感覚と、そして現実が、学問的に高められた正義と圧倒的に差がある、ということじゃないかな」

純永は思っていたことを口にする。

賽と吾務人、花田の三人は、純永に顔を向ける。

「花田君は、迷っている、と言っていた。それは、正解が分からないから迷っているという可能性もあるけれど、そうじゃなくて、正解は分かっているけれど、それを納得して受け入れることができない、あるいは、それを受け入れるべきなのか、そもそもそれをどう処遇すべきなのか、ということが分からないのかもしれない」

「この場合の正解とは?」

今度は純永に向かって吾務人は尋ねる。

「ここでは、正解の中身はそれほど重要じゃない。仮に、九葉君が述べたことが、正解だったと仮定しても良い。正義とは、畢竟感覚の問題だ、が正解であると。そういう考えに触れたときの、自分の態度、それを自分の中でどういう風に活かすのか、扱うのか、そこが本当の核心なんじゃないだろうか」

「そうか、ここで、さっき花田が言っていたことが関わってくるということか」

賽が口を開けて、ちょっと驚いたように発言する。

「そういうこと。僕達は、立場を固定しないと、議論することが難しい。他方で、物事にはいくつもの側面がある。にもかかわらず、一人で相反する二つの立場に同時に立つことはできない。それは論理的ではない、とされている。だから、その矛盾を回避・解消するために、学問では体系的な理論が構築される。花田君の抱えている疑問って、この原理、現代では表立って一般的に考えられることが少なくなったこの基本的な不自由に起源があるのではないか」

純永は続ける。

「ほとんどの人は、正義に関する完璧な理論や思想が、世界のどこかにはあって、それを人類は探し出せていないだけなんだ、と考えている。『感覚の集合』などという、曖昧かつ主観的なものではない、異論を排斥する強力なモノが存在すると期待している。もちろん専門の学者はそんなに牧歌的じゃないよ。もっと、人類の限界について、思索を巡らせている。確かに、正義に関しては、相対的であってはならないんだ。なぜなら、対象がすべての人間であるから。人類が社会を管理し運営していく過程で、利害が対立し、意見は分かれ、その中でルールを構築する際の基盤が必要になった。基盤であるから、それは固定的なものでなければならない。容易に変わってはならず、方向性をコンパスのように普遍的に指し示すものでなければならない。そしてそれは、個人に対して、一時的にではあれ、立場を固定することを要求する。是々非々、人それぞれ、ケースバイケース、そういう有り方を本質的に否定するんだ」

純永は、拡散しかけている自分の発言内容を一旦総括しようとした。

「これは結局、人間が複数存在する現実世界において、個体としてそれぞれの人間は明確に異なる存在であるのに、『人間であるから』という括りを設けることによって、等しく扱おうとすることが原因であると言える。こうやって考えていくと、正義という言葉や概念に反応して、人間が何を考えるべきなのか、という一段上の問いに到達することができるかもしれない。もちろん、到達したとしても、まだそれは始まったばかりなのだけれど」

純永の発言を受けて、一同は沈黙した。それは、それぞれが、事前に準備していたややステレオタイプな意見や感想では、議論の本筋に寄与しないことが明らかになったからだった。

花田と郷子は、ノートにメモを取った。その後、花田の文章に関して、目立った意見や感想はその場では出なかった。

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