五章

五章

次の週の水曜日の夕方に、花田からサークル室へ招集がかけられた。純永は、サークル棟へはまだ足を運んだことがなかったので、沢山の扉がある中で、目的の場所はどこなのか、少し迷った。廊下に乱雑に積まれたダンボールやパイプ椅子の横を、身体の向きを変えて擦り抜けながら、部屋番号を確かめつつ進んで行くと、二階の突き当たりにその部屋はあった。扉の表面には、部屋番号が刻まれた金属のプレートが貼ってあったが、その周りには、サークル名を示すものが何もない。

扉をノックする。

「はーい。開いていますよ」

花田の声だ。ドアノブを捻って、純永は扉を開ける。

「お、遠野君。ようこそ」

相変わらず、快活な花田の声。

「こんにちは。お邪魔します」

軽く頭を下げる素振りをして、純永はサークル室に足を踏み入れる。視線を上に上げると同時に、部屋の中を一望した。かなり散らかっていることが目に付いたが、それよりもまず、賽がパイプ椅子に座っていることに注意が向かった。

「一志木さん、来ていたんだ」

賽の方に少し近づいて、純永は声を掛けた。文庫本に視線を落としていた賽が、ゆっくりと純永の方に顔を向ける。

「花田にね、今日は初めてメンバがサークル室で揃う日だから、どうしても来て欲しいって言われたの」

やや呆れた表情で、顔を小さく左右に振りつつ、賽は言った。

「私は、サークルを成立させる為の名前だけの存在って話だったのにね。まあ、でも、一堂に会するサークルメンバの中に身を置くことに、それほど悪い気はしないわ」

「僕は、一志木さんが居てくれると、ゼミに居るときと同じ感じがして、少しリラックスできるよ」

「そう、それは良かった。それに、ちょっぴり嬉しいかも」

それとなく花田の方に目を向けると、花田はこちらの方を見てはいない。表情は笑顔だが、今の遣り取りを聞いていたのは確実だろう。そう考えると、その笑顔も意味深なものに思えてくる。

賽から少し離れたところに、郷子が座っていた。彼女も本を持っていたが、純永が入って来たので、前を向いていた。

「真柴さん、こんにちは」

「こんにちは、遠野君。もしかして、ちょっと緊張している?」

どうしてそう思われたのか、皆目分からなかったので、純永は少し驚いた。緊張の自覚は全くなかったが、緊張と驚きは似通った心理だ。

「そんなことはないですよ」

実際緊張していないのだから、こう素直に言えるはずなのに、質問に対する驚きのせいでぎこちないものになってしまった。郷子は微笑んだ。

「私は、ここに来たこともあるし、緊張はしていないの。遠野君もすぐに慣れると思うわ」

郷子の言葉から察するに、結局緊張しているという風に受け取られてしまったようだ。

その時、ドアがノックされた。花田が先ほどと同様声で応じる。

「どうも」

扉を開けて一言だけ。吾務人が部屋に入って来た。視線はすぐに前から斜め下になり、ほとんど周りを見ていないように見える。

「やあ、九葉君」

花田が手を挙げて挨拶を試みたが、吾務人は無視をしてパイプ椅子の一つに腰掛けた。花田は笑顔を絶やさずに、挙げた手をゆっくりと下ろした。

「さて、と。じゃあ全員揃ったので、まずは改めて自己紹介でも…」

「待った。自己紹介の必要性は、もうほとんど無いんじゃない?」

花田の切り出しに、賽がいきなり制止をかけた。

「いや、でも自己紹介って、何回か繰り返すと、味わいが増すような気が…」

「新しく入った遠野君に、私を除く三人は一度会っているのでしょう。そして、私と遠野君はゼミが同じ。つまり、今日この場で初めて自己を紹介すべき対象は、この中の誰にも存在しないわ」

「それはその通りだけれど…」

「それとも、一度自己紹介をして、それから今日に至るまでの短い間に、紹介をし直さなければならないほど自己が変化した人がいるのかしら?それなら自己紹介の繰り返しにも十分意味があるでしょう」

純永は、花田と賽の遣り取りに軽く吹き出しそうになった。いかにも賽らしい話し振りだったからだ。郷子は、花田に同情を含んだ視線を投げ掛けている。吾務人の方はというと、この状況に全く関心が無い様子だった。

「来たくないと言いながら、来た途端にこれなんだから…」

「聞こえているわよ」

「分かった。賽に従おう。自己紹介は止めて、早速本題に入ろうと思います。本題というのは二つ、一つはサークルの名前。もう一つは、活動方針です」

花田は気持ちを切り替えた表情をして、皆にこう言った。

「えっと…、二つ目の活動方針、っていうのは、もう決まっているんじゃないですか?」

郷子が、先ほどの賽の勢いにやや気圧されたのか、おずおずと少し手を挙げながら、発言した。

「確か、メンバの大学生活の向上、でしたよね」

「そう、活動方針というのは、抽象的に言えば、それです。活動方針という言葉じゃなくて、活動内容と言った方が良かったかな」

花田が郷子の方を見て応える。

「でも、いきなり活動内容を考えるのは少し性急だと感じていたんだ。というのも、『向上』という部分の意味について、メンバの間で共通理解が持てていない。どういうものを向上と言うのか、どうなったら向上と言えるのか。そして、付け加えるなら、共通理解が必要か、ということも」

郷子は、花田が言いたいことが分かったので、議題について考え始めたようだ。

「活動方針は予め、サークルに加入して貰う段階で伝えてあったのだから、『向上』の中身について、皆の中で、曖昧ではあってもそれぞれイメージがあると思う。そのイメージをお互いに言い合うところから、始めて行きたいと考えています」

「サークルの名前の方はどうなったわけ?」

賽が花田に質問する。

「それはそんなに深く考える必要は…あるかもしれないし、ないかもしれない。名は体を表す、という言葉は僕は好きだし重視しているんだけれど、まずは二つ目の方から始めた方が良いんじゃないだろうか」

そこで、少しの間、場に沈黙が訪れた。賽は、もう既に話すことが決まっているのか、悩んでいる様子はなく、再び文庫本に目を落としている。

(向上か…。どういう風に表現すれば良いだろうか…)

純永の頭の中には、先日考えていた「変化への興味」があった。どのように変化したいか、というものが定まっているならば、この場合の問題への答えにかなり近づくことができるだろう。しかし、純永の中では、その方向性は定まっていなかった。

誰からも発言が出なかったので、タイミングを見計らって、花田が最初に口を開いた。

「このサークルの発起人は僕だし、活動方針を考えたのも僕だから、まずは僕自身の考えを明らかにするのがフェアだと思います。それで、僕の考えというのは…」

「メンバの個性が現れる色々な活動を共同で行って、お互いに刺激し合い、それぞれの考え方や感じ方、あるいは少し高尚だけれどもセンスのようなもの、そういうものを高め合っていく」

賽が再び花田の言葉を遮って、淀みなく一気に話した。それを聞いて、花田は最初驚いたが、賽の言葉が途切れると同時に、面白いと感じている様子の笑みを浮かべた。

「相変わらずだね、賽」

「褒められているのか定かではないから、好意的に受け取ることはしないでおくわ。それで、あなた自身は個性を発揮するつもりがあるのかしら?」

「それは…」

笑みを浮かべていた花田の表情が、突然曇る。他の二人にはよく分からないだろうけれど、純永にはその意味がよく分かった。賽から花田の「計画」の中身を聞いていたからだ。

「面白そうですね!」

花田の逡巡に対して、郷子がやや大きな声で割り込んだ。

「今まで聞いた大学のサークルの話って、とにかく刹那的に楽しむことに終始するものが多かったんです。勉強会みたいなものもあったんですけれど、雰囲気が閉じている感じで、指導教官が居ないことを除いては、大学の正規のカリキュラムとして行われているものと似ているなって思ってました。そういうビジョンがあって、プロセスも結果も楽しめそうなものは、大歓迎です」

郷子は満面の笑顔で言った。

「私はちょっとすぐには賛同できないな」

真面目な顔をして、賽が意見を述べる。

「今私がある程度具体化した活動方針、目的は、本当に実現可能なものなのかしら?センスのようなものって、こういった意識的なグループ活動で高められるのか、という疑問がある」

「それは大いに議論されるべき問題だね」

花田が相槌を打つ。

「ええ、私もそう思うけれど、他方で、本質的に、議論といったものに馴染まない気もするの。センスに限定して話せば、それは、議論の対象になったり、意識的に発揮されたりするものではなくて、無意識的、無自覚的な、醸し出されるもの、そして、主観的にしか把握できないものじゃないかしら?」

「こういうアプローチ、志向そのものが、センスからはかけ離れた野暮ったいものである可能性が高いということだね?」

「そういうこと。追求されるものの一つではあるけれど、この場のような態様での追求は適切ではない。そう結論付けて、このままこのサークルを消滅させても何らおかしくないわ」

賽は微笑みながら言った。

「センスとは何かという問題はさて置き、何も高尚で純粋なセンスを高めることだけが大学生活の向上を意味するわけでもないだろう。僕がこれを言うのはちょっと矛盾しているかもしれないけれど、少なくとも、情報交換くらいはできるし、有意義なんじゃないかと思っている。他の意見を聞こう。遠野君はこのアイデアをどう思う?」

花田は純永に話を振ってきた。

「僕は、このサークルに入って、自分が変化することを期待しています。どんな風に変化したいか、その向きが自分でもよく分からなくて、だから自分からアイデアを出すことは難しかったんですけれど、一志木さんの…、というか花田君のアイデアは、僕の期待の実現にも結び付きそうなので、概ね賛成です。センスについての花田君と一志木さんの議論は興味深かったですが、そんなに肩に力を入れなくても、この場合、思い付いたことに自然に取り組めば、ひとまずそれで十分なんじゃないかという気がしています。センスについては、意識し過ぎたり、意識が足りなかったりすることになりがちで、そこのバランスの取り方が一番の問題であり、それを絶えず模索するのが大切ではないかと」

「うん、その通りだね。九葉君はどう?」

「僕も基本的には賛成です。一点だけ、僕は文章を書きたいです」

花田の言葉の終わりからほとんど間髪を容れずに、吾務人は言った。

「文章?例えばどんなものを?」

やや驚きながら花田は尋ねる。

「詩かもしれないし、小説かもしれない。評論のように、事実を積み重ねようとする文章になるかもしれない。そこはまだ定まっていません。でも、僕は、今のところ、文章を書くことでしか自分の目的を達成できないと考えているんです」

「文章を書く以外の活動は、全く駄目?」

「そんなことはありません。どんな活動でも、抽象的なレベルで、執筆に関係してくると思いますから。もちろん例外はあるでしょうが…。キャッチボールを一年間毎日十時間続けても、なかなかアイデアは浮かびにくいでしょう。浮かんだとしても、それはキャッチボールが影響したのではなくて、単純にキャッチボールが考える時間を提供した、と分析されるべき場合が多いのでは」

吾務人は、まるで台本を読み上げるかのように、滑らかに話し切った。

「じゃあ、個性が現れる活動の候補の一つとして、文章を書くことを保留しておこう。こうなってくると、文芸部みたいだね。同人誌を発行するタイプの」

「文章を書くことは、私も嫌いではないわ」

賽が吾務人の方を向きながら言った。吾務人も賽の方を向く。

「でも、私の場合、人を楽しませるような、喜劇や悲劇、エンタテインメント系のものは駄目ね。向いていないと思う。人を楽しませよう、っていう感覚・欲望を、私は持つのが難しい。楽しむ側に立つのは大好きなんだけれど」

賽は人差し指を顎に当てて、斜め上を見ながら話す。純永は、以前、アニメやゲームが好きだと賽が言っていたのを思い出した。

「僕も、そういった風に、人を楽しませようと考えて執筆するつもりはないです。ただ、結果として、楽しんで貰えるものが出来上がる、そういう可能性はあるかもしれない」

吾務人は賽を見ながら言った。

「私は、文章を書くなら、心が温まるような作品を書きたいな。自分の書いた物で、読んだ人がそうなってくれたら嬉しいわ」

郷子は、手元にある本に視線を落としながら言った。その本が、今まさに郷子が言っているような本なのかもしれない。

「遠野君は、文章執筆についてはどんな風に考えている?」

花田は純永に尋ねた。

「本を読むのは好きです。推理小説とか、SFとか、いわゆる純文学的なものも。でも、自分で何か書いてみようと考えたことは、今まで一度もありませんでしたね。文章を書くと言えば、試験の小論文などしか…」

「全く考えたことがないっていうことは、苦手意識があるわけでもないんだよね?」

「少なくとも、小論文が苦手なわけではないです」

「それなら、この際一度試みてみる、というのはどうだろう?」

「ええ、実際やってみると、色々と新しいことが見えてくるかもしれません」

純永は考えながら答えた。

「ところで、賽。もはやサークルの活動に積極的に参加するような雰囲気を醸し出していると思うのだけれど、名前だけの存在という立ち位置は止めにするの?」

「………」

賽は、不安にさせるような薄い笑みを浮かべて、目を細め、花田を見つめた。

「こ、こちらとしては、賽が正式に参加してくれると、活動が充実するだろうし、願ったり叶ったりなんだけれども…」

優位な立場から一瞬で転げ落ちるように、花田は言葉を従順とも呼べるものにした。

「ええ、参加させて貰いたいわ。皆さん今後とも、よろしくお願いします」

花田に対する態度とは裏腹に、賽は、他の三人に対して丁寧に頭を下げた。

「話を少し戻しますけれど、人を楽しませる目的での執筆か否か、ということが話題に上っていたわよね。そういう目的を持たない執筆というものが存在する、という話になったし、そもそも、私が最初に、自分はその目的無く執筆する、と言ったのだけれど、この場合、書き手本人は、何らかの意味で書かれたものに、あるいは書くという行為に、楽しみを見出すことになるのかもしれないわ。プロの文筆家の多くは、買い手である不特定多数の読者を対象として、彼らを楽しませる為に書いているけれど、私たちはそうではない、というだけで、書き手本人すなわち自分を含めて考えるならば、楽しませようという目的が全く無い、とまでは言えないと思うわ」

「微妙な問題ではあるけれど、最終的には自分以外のメンバに書いた物を読んで貰うわけだし、誰に向けて書くかは、それぞれ自由に考えて貰って良いんじゃないかな。もちろん、執筆過程も、その読み合わせも、楽しいものになることが望ましい」

花田は、賽のやや難解な話を、今回のサークル活動において最適な形に総括した。

「テーマとかは決めたりします?」

郷子が、思い付いたことを口にした。

「テーマを設定した方が、評価軸が定まって、作品同士の比較が容易になり、個性やその相違が明らかになりやすいかもしれない。けれど、僕としては、テーマの設定、何を題材にするか、ここに一番個性が現れると思うから、今回は、テーマも形式も特に予め固定しない方が良いと思うのだけれど、どうだろう?」

花田の提案に、四人は頷いた。

その日の活動は、それでお開きとなった。結局サークル名をどうするか、という問題は保留になった。

帰り際に、純永は、誰かの言葉が気になっていたことを思い出した。少しの間考えて、それに思い至った。

「でも、僕は、今のところ、文章を書くことでしか自分の目的を達成できないと考えているんです」

そう、九葉君の言葉だ。その時は、花田君がすぐに話を先に進めてしまったので、誰もこの言葉に深く注意を向けなかった。

(九葉君の目的…)

それは一体何なのだろう。皆目見当が付かなかったけれど、なぜかこの疑問が純永の心に引っかかった。


週末の土曜日、花田は自分のアパートでゲームをやっていた。対戦格闘ゲームだ。相手は、冴樹仁という、高校の頃からの友人である。彼は高校を卒業して、大学には進学せず、フリータをやって生活をしていた。

花田は、中学の頃、ゲームセンタで対戦格闘ゲームの腕前を磨いた。彼が通ったゲームセンタにおいて、花田に敵う者はほとんどいなかった。花田の運動神経、この場合は主に反射神経だが、それは対戦格闘ゲームにおいても大いに発揮された。花田は、自分が客観的に見てこの種のゲームに向いていると考えるようになった。ビギナはそもそも、いわゆる連続技さえまともにできないから全く相手にならなかったし、強者に属する者に対しても、花田は終始優位な状況を作り続けた。連続技をマスタした者同士の駆け引きになると、自然、そこに至るまでのプロセスが勝敗を分けることになる。スポーツで培った勝負勘のようなものが作用したのか、フレーム単位の微妙で繊細な技の応酬においても、花田は冷静さと隙を見逃さない目を持っていた。

そんな花田は、高校に入って、同じクラスだった冴樹と出会った。二人の会話は、自然と趣味の話になり、二人とも対戦格闘ゲームが趣味であることをお互い知るに至った。当然、じゃあ一勝負しようじゃないか、ということになった。

初めての冴樹との対戦に臨むに当たって、花田は、まず負けないだろう、と予測していた。少なくとも、良い勝負ができるはずだろう、と。冴樹のゲームのキャリアを聞いたところ、自分のそれとそれ程違いが無かった。経験量はほとんど同じだということだ。

しかし、結果は惨敗だった。試合が終わった後、花田は、少しの間呆然としてしまっていたが、すぐに直前の試合の過程を頭の中で再生した。

自分は、いつもの通りに戦った。いつもの通りに戦ったのに、全く歯が立たなかった。嵌め技を決められ続けた、などといった異常事態が発生したわけではない。最近の対戦格闘ゲームは、嵌め技やそれに近いものができないように、綿密に調整が為されている。相手が使用したキャラクタが自分のよく知らないキャラクタだったとか、相性が悪かったとか、そういう次元の話でもない。

「めちゃくちゃ強いな、冴樹」

敗因について全く答えが得られなかった分析をひとまず終えて、立ち上がり、向かいのマシンに座っている冴樹のところに行って、花田は言った。

「いや、花田も相当なものだよ」

「相当なものって…、ボロ負けだったじゃないか」

「確かに、結果だけ見れば、その通りだ。でも、花田の腕前は十分分かった」

「なんでそんなに強いんだ?」

「今は口で説明しないでおこう。花田とはもっと対戦してみたいから」

それからというもの、お互い暇な時には、花田は冴樹と対戦した。結果はほとんど同じような、つまり花田の負けがずっと続いた。一度だけ、花田が辛くも勝利したことがあったが、あまりに嬉しくて冴樹に近寄って確認してみると、冴樹の様子はおかしくて、どうやら体調が万全ではなかったから勝てた、ということのようだった。

そして今も、花田は冴樹と対戦している。相変わらず、負け続けている。

「なあ、俺とやっていて、本当に面白いのか?」

以前から既に何度か尋ねたことのある質問を、今日も花田は冴樹に投げかけた。

「うん、面白いね」

「だって、俺、ずっと負けっ放しだし、つまり、対戦格闘ゲームの一番の面白みである、負けるかもしれないし、勝つかもしれない、という緊迫感を、冴樹は全く感じられていないんじゃないか?」

「そんなことはない。それはずっと感じている」

「本当に?」

「うん」

「じゃあ、なんで俺は負け続けているんだ?」

「花田はさ…」

冴樹は口を斜めにして、画面を見ながら言った。

「自分の対戦相手のことをどう捉えている?」

「そりゃ、倒すべき相手だと思っているよ」

「自分が倒されるかもしれない、ということは?」

「当然それも考えているよ」

「僕もさ、相手を倒すべき相手だと思っているし、自分が倒されるかもしれないと思っている」

「同じじゃないか」

「でもね、僕は、相手が僕の選択如何で、倒すべきから『倒される』に変化することを強く意識している」

「それは、その通りだろう。選択次第で、勝敗が分かれる」

「違うんだ。僕は、相手を倒すべく存在している。僕が存在しているから、相手は倒される。他方、相手が存在しているから、僕は倒されるかもしれない。良いかい?僕が存在しているから、相手は倒されるんだ。選択が介在することは事実だけれど、本来確定的な前提とは成り得ないものを、前提として、最初に、そして絶え間なく更新しながら最後まで自分の中で規定するんだ」

「自分が必ず勝てる、と信じ切るということ?」

「勝てる、じゃないよ。勝つ、だ。勝つんだから、勝つという結果と一見分離が不可能なプロセスが、連綿とそこにはある。勝つ『ための』プロセスじゃないよ」

「なんだか無意味な精神論のように聞こえるんだけれど…」

「フレーム単位の駆け引きで、何が勝敗を分けるか、そこのところを話そうとしているんだ。勝つプロセスと勝つためのプロセス。両者の間の、思考と反射の経路の違いが、花田と僕との違いなんだよ」

「思考や反射の経路って、結局反射神経とかそういうものの話?」

「全く違う。花田は、自分のキャラクタと相手のキャラクタを別々のものとして見ているだろう」

「もちろんそうだ。だって現に別々の二人のキャラクタじゃないか」

「僕の場合はそうじゃない。二人のキャラクタを統合した一つの全体として見ている。極端な喩え話だけれど、ジャンケンをするとして、自分の左右の手で行うなら、左手に勝たせるか、右手に勝たせるか、いとも容易く決めることができるだろう?」

「………」

「繰り返しになるけれど、僕が存在するから、相手は倒されるんだ。読み合い、という表現は全く適切ではない。まだ読まれる対象と読む主体を区別している。そうじゃなくて、もっと大きな、可能な限り『自然な』枠組で勝負を捉えるんだ」

冴樹の言おうとしていることが、花田にはなんとなく理解できた。それと同時に、冴樹は反射神経が超人的なレベルなのだ、といった自分の過去の分析が、全くの誤りであることも悟った。

「自分が一方的に勝ち続けているのに、花田と対戦するのが面白いのはなぜか。それは、花田の中に、天性的な部分と、積み重ねられた部分、その二つが絶妙に交じり合って、『スタイル』があるからだ。そして、スタイルの中身は一定ではない。対戦する度に、少し変化したり、大きく変化したり、変化の規則性はほとんど見出せない。規則性が無い変化、ここが一番面白い。ただ、先ほど言った点で、花田と僕とは決定的に異なるから、花田がどのようなスタイルで僕に挑んできても、僕に勝つことは未だにできていない。一度花田が勝てた例外はあったけどね」

「あの時は、ゲームをやっていて一番嬉しかった瞬間だったよ。束の間の夢だったけれど…」

花田は苦笑した。

話が一段落して、その後も幾度か二人は対戦をした。理屈を教えて貰った花田は、戦いながら、理屈を知ることとそれを実践することの間の深い溝を感じていた。


大学の講義が終わって、夕食を外で食べ、アパートに帰宅したのが午後八時。郷子は、日課である実家の母との電話をするために、携帯電話のアドレス帳を開いた。

部屋の中のいつもの位置に座る。目の前には、父と母と自分が写った写真。実家を離れる直前に撮られたものだ。それを入れるための写真立てを買うこと、それが東京に来た郷子の一番最初の買い物だった。

ボタンを押して、携帯電話を耳に当てると、聞き慣れたコール音が聞こえてくる。

「もしもし、真柴です」

「あ、お母さん、私、郷子」

「ああ、えっと、ほとんどいつも通りの時間ね」

「うん。そうだね」

毎日娘と母が電話をするという取り決めは、郷子が言い出したことだった。母はすぐに承諾した。

「やっぱり家を離れるのが寂しい?」

母は、少し悲しげな、同情を含んだ笑顔でそう尋ねた。

「うん…、ちょっとね。でも慣れると思う。それに、毎日電話で話ができるし」

「何か困ったことがあったら、すぐに相談しなさいよ。大学が辛かったら、帰ってきても良いのだから」

「私そこまで柔じゃないよ。歴史の勉強がしたくて、遠くの大学を選んで、頑張って受験勉強して、行けるようになったんだから」

「あなたはあまり勉強が得意じゃなかったから、大学には行かずに、すぐに働くことになるんじゃないかってお父さんとは話していたんだけれど、合格できて、本当に良かったわ」

「うん、ありがとう」

郷子が、自分が通う大学として、実家から離れたC大学を選んだのには、歴史を学ぶに相応しい場所だから、という理由以外の訳があった。それは両親には話していない。話そうかと考えたこともあったけれど、とても抽象的で伝えることが難しそうだったし、両親に変な気を遣わせるような気もしたので、話さなかった。

電話口で、母が、今日身の回りで起きた出来事を、自分の娘がいつも通り学生として元気に暮らしていることを知ってか、安心した様子で話している。東京にいる郷子からすれば、それらは変化や刺激に乏しく、家族の間の会話でなければ、話題としてほとんど面白みに欠けていると感じられたが、それでも、不満などは郷子の中には起きなかった。いつものように、母の口振りに同調して、郷子も安心させられた。

「そっちは、何か変わったことがあった?」

「えっとね…、サークルに入ったんだけれど、今日初めて、メンバが全員揃って顔合せをしたの」

「まあ、サークル…、って部活とは違うのかしら?」

「違う違う。そんな堅苦しいものじゃないよ。もっと気軽なものなの、大学の集まりっていうのは。なんて言えば良いのかな…、ほら、よく、なんとか同好会、みたいなものがあるじゃない?うちのサークルは、何かの同好会っていうわけじゃないんだけれど、堅苦しさに関して言えば、同好会レベルかな」

「どんなサークルなの?」

「発起人の人が最初に決めたサークルの活動方針は『メンバの大学生活の向上』で、歴史は全く無い新しいサークル。メンバもまだ私を含め五人しかいないわ」

「あら、新しいサークルなら、色々とやらないといけないことが沢山あるんじゃない?あなた、新入生の勧誘とか、仕事を任されたりしたら、上手くやれそうなの?」

「お母さん、ちょっと心配し過ぎだよ。メンバの勧誘は、これからも続けるのか今はよく分からないわ…。というのも、発起人の人が四人全員を勧誘してきたの。花田君っていう男の子なんだけれど、彼は自分以外の人にも勧誘を頼むつもりだとは言わなかったし、他のメンバも、もっと人を勧誘してきた方が良いとは言いそうにない感じね」

「あなたはどうなの?五人ってちょっと少ないとは思わないの?」

「私は…、そうね、今のところ、五人で十分なんじゃないかなって思ってる」

「そう。あんまりサークルで遊び過ぎないように…、って、活動方針が大学生活の向上っていうサークルなのよね。積極的に参加すればするほど、あなたの大学生活は向上するということかしら?」

「もう、そんなに簡単に人間の生活は向上しないわよ。それはあくまで大きな目標なの。たぶん」

「じゃあ、結局、サークルの皆さんでワイワイ楽しく遊ぶことになるの?」

「ううん、そんなことはないみたい。大雑把に言うと、お互いを刺激し合えるように、メンバの個性が出るような活動を色々やっていくの」

「なんだかちょっと掴みどころの無い話ね…。つまり、何をやるの?」

「最初は、みんなでそれぞれ自分が書いた文章を持ち寄って、感想を述べ合ったり、議論をしたりすることになったわ」

「なあんだ、それって、文芸部、って言うのかしら?あれと同じ感じね。あなたは、中学生になった頃から本は沢山読んでいたように思うし、国語の成績も良かったから、大丈夫そうね。中学生になる前は、外で遊ぶのが大好きだったのに…」

「………」

そこでふと、郷子は部屋に飾ってある青い花に目を移した。郷子には、この季節、つまり春の花の中で、馴染みの深い花だ。五つの花びらがあって、真ん中が黄色い。太陽と言えば向日葵が連想されるのが一般的ではあるが、郷子は、この花から太陽をイメージする。人間にとって普遍的で変わらない存在。あくまで、人間にとって。

「五月病にでもなりそうになっているんじゃないかって心配していたんだけれど、大丈夫そうね。きちんとご飯を食べるのよ。それじゃあ、また明日ね」

「うん、また明日。おやすみなさい」

ボタンを押して、郷子は電話を切った。

再び、青い花に目を向ける。湧き上がってくるいつもの感情と疑問、そして不安。目の前の花は、今はとても綺麗だ。「今」という時間、瞬間も、自然と意識する。直後に意識は過去に遡っていく。繰り返されるその遡及は、回を重ねるごとに、細部は忘却され、核心は純化されていった。

郷子は気持ちを切り替えて、明日の講義の予習を始めることにした。サークルの課題、自分の文章のテーマを何にするか、という問題を頭の隅に置きながら。

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