第9話
レイフが目を覚ますと、そこはカールシュティン家の自分の部屋だった。何故、自分は寝ているのだろうか。そう疑問に思いつつベッドから起き上がる。そして何があったのかを整理しようとして、頭に走る痛みに顔を顰めた。
そこでドアが開き、ヴィダルが入ってきた。
『おう、目が覚めたか。ずいぶんと寝てたな。どうだ、怪我の具合は?』
ヴィダルはベッド側の椅子に腰を据えると、手話を用いて尋ねた。
レイフは小首を傾げる。
『まさか覚えてないのか? お前、孤児院の口なしに頭を角材でぶん殴られて気を失ったんだ。そして市場の野次馬共に屋敷まで運ばれた、と。思い出したか?』
その話に、レイフはハッとした。
『彼女は、ソフィアはいま何処にいるんですか?』
レイフの手話を用いた問いに、ヴィダルは眉根を寄せる。
『そんなことを聞いてどうする』
『竜である彼女が、人間である僕を殴った。となると、厳罰は避けられない。だから僕がその罪を軽くするよう頼みに行きます』
『お前、自分が殴られたのに、犯人を庇うのか』
『彼女のことです。絶対に訳があります』
『なるほど、これは重症だな。……お前、そんなにその口なしが好きなのか?』
レイフはうっと息を飲んだ。しかし意を決して頷いて返す。
ヴィダルは仕方なさそうに吐息を洩らした。
『そうか。それは残念だな。……その口なし、処刑が決定したぞ』
瞬間、レイフはヴィダルの胸倉を掴んだ。
どうして彼女が処刑されるのか。どうして、どうして、とその目が言っていた。
『罪のない人間を故意に殴ったんだ。それも騎士団がこの町にいる最中にな。場所は広間、時刻は夕暮れ時。ってことは、そろそろだな』
ヴィダルが落ち着き払った様子で窓から空を見上げ、次いでレイフが空を見上げた。夕空。執行予定時刻の夕暮れである。
慌ててベッドから出たレイフだが、そこでヴィダルに足を掛けられて転倒。すぐに体を起こして主へと振り返る。
『なにをするんですか』
『何処に行く気だ、レイフ』
『もちろん、彼女を助けに行きます』
『それは許さん。お前は、もうその口なしと関わるな』
『何故ですか』
『罪を犯した口なしと関係を持っていると知れたら、お前も何かと嫌疑を掛けられる』
『僕はそれでも構いません』
『お前に嫌疑が掛かると、雇っているカールシュティン家にも嫌疑が掛けられる可能性があるんだよ』
『それは……』
『だからお前には行かせられない。ここにいろ、レイフ・スヴェンソン。ソフィア・テオリーンとのことは、思い出として胸に留めていろ』
レイフはなにも言い返せなかった。
両親を殺され、独り身になった自分を拾い、ここまで育ててくれたのはカールシュティン家なのだ。召使いということで苦労も多かった。しかし不幸と感じるようなことはなかった。それだけこの屋敷での生活は良かったのだ。
レイフはヴィダルを見る。
適当な性格だと言われる彼だが、声が聞こえないためにコミュニケーションが取れない自分のためにと、彼は手話を覚えてくれた。それだけ優しい人なのだ。
出来ることならば、これからもこの屋敷で暮らしていきたい。心からそう思う。
だけど。
レイフはゆっくりと立ち上がると、口惜しげに下唇を噛み、ヴィダルをまっすぐに見据えてしばしの葛藤の末、頭を下げて部屋を出ていった。
別れの挨拶。
それはとても短く、呆気ないものだった。
別段、ソフィアとカールシュティンを天秤に掛けた訳じゃない。また、恩を仇で返すつもりもない。だけど、やっぱりここで彼女を見殺しにしてはいけない気がするのだ。
だから、走る。
ソフィア・テオリーンを救うために、夕暮れの下、レイフ・スヴェンソンは広間を目指して走った。
◇
広間では、町中の人間がひしめき合っていた。
皆が注目するのは、その昔に使われていた処刑台。今や展示品と思われているその高台に、新たな犠牲者が立つ。後ろ手に縛られたソフィア・テオリーンである。彼女は広間を見渡す。人、人、人。そこにあったのは、竜を睨む人の群れだった。
最後までこのような目で見られてしまうのか。
こんなことなら、はやい内に竜の世界に行くべきだった。
「――なんてことを考えてる目だな、おい」
ソフィアの側に立ったデニスがそんなことを言った。
「だが、それは無理だ。貴様が生きられたのは、この人の世界だけ。つまり貴様は、人にも竜にも受け入れてもらえない存在だと言うことだ」
どういう意味か、と問うようにソフィアはデニスを睨む。
「ははは、やはり知らないか。これは極秘事項だが、死を間近に控えた貴様に教えてやろう。――そもそも人と竜の戦争に勝者などいないのだ」
怪訝に眉根を寄せたソフィアに、デニスは囁くように話す。
「何百年と続いた人と竜の戦争だが、なかなか終結は見られなかった。そんなある日、人の王が竜の王に講和を提案した。竜が平地から去るならば、人は空を侵さない。この提案はすぐに受諾された。しかしこのとき、互いにとある条件を出し合っていた」
互いに勝者として戦争を終えたことにしたい。だから互いに生け贄を差し出そう。
「この生け贄は、敵社会の中で見下されるために差し出された。人は竜を、竜は人を。そうすることで互いに戦争に勝利したのだと国民に信じ込ませたわけだ。――そう、山に逃げ遅れたとされた竜は、その実、仲間であったはずの竜から差し出された生け贄なのだ。この意味がわかるな。つまり貴様に、存在が許された場所など初めからなかったのだ」
「――ッ」
ソフィアは信じられない話に瞠目したが、それ以上はなにも反応できなかった。ただわかっているのは、先の話が彼女に絶望を与えたと言うことだろう。
一方、デニスはいい気味だと口の端を釣り上げた。本来の目的である生存者の情報を隠し通されてしまったことに対する腹いせ。それがここまで効果を発揮するとは、愉快。デニスは腰に携えた剣を抜き、ソフィアをその場に跪かせた。
「昔はギロチンがあったらしいが、今は撤去されて何もない。だから代わりに、俺がじきじきに貴様の首を落としてやろう」
ソフィアの首に刃が当てられる。死はもうすぐそこ。悔しさを噛み締め、ソフィアは空を仰ぐ。夕空。竜として、最後にあの大空を飛んでみたかった。
その時である。
ソフィア・テオリーン。
それは綺麗な発音ではなかった。酷い発音。まるで濁った川のように聞くに堪えない。
だが、声はふたたび鳴った。
ソフィア・テオリーン。
デニスは慌てて眼前の人込みを見渡す。処刑執行人として、罪人の名前くらいは記憶している。ソフィア・テオリーン。それは、今に殺そうとしていた口なしの名前である。つまり今、その名を呼んでいる者は、禁則を破っていることになるのだ。
「どいつだ! 今、口なしの名を呼んだのは、何処のどいつだ!」
デニスが叫ぶのと同時に、ふたたびその名が叫ばれた。そして観衆が動き出す。一人を見据えながら後退り、その者を囲うように孤立させたのである。
レイフ・スヴェンソン。
彼はふたたび彼女の名を叫ぶ。
それに遅れてデニスが叫んだ。
「そいつを捕らえろ! 禁を破った大罪人である!」
これに応じてデニスの部下たちが動き出す。しかし観衆が邪魔でなかなかレイフに辿り着けない。その隙をつくようにレイフは走り出す、処刑台の方へ。観衆は大罪人を避けるように道を譲る。まるでモーセが海を割ったかのように、眼前には一本道が出来ていた。レイフはそこを突っ切る。誰もそれを止められない。
そしてレイフが近付いてくるのを見て、ソフィアは涙した。
私はあなたを殴ったのに、それでも私の側に来てくれるのか。
それでも私の名を呼んでくれるのか。
ソフィア・テオリーン。
処刑台の真下で声がした。レイフがもうそこに居たのだ。彼は上を見上げ、腕を広げている。さあ、飛んでこい。僕が受け止める。そう言っているような気がした。
その意図に気付いたデニスは、咄嗟にソフィアへと刃を振り下ろそうとする。が、それよりも僅かにはやく、ソフィアは思い切って処刑台から飛び下りた。目を閉ざし、後は彼が受け止めてくれるのを信じて。
そんな彼女を、レイフはその両腕で受け止めた。が、勢いが強くそのまま背中から倒れる。それでも彼女を胸に抱え、放さなかった。しっかりと受け止めた。
大丈夫?
腕の中で瞼を閉ざす彼女に問う。
ソフィアはゆっくりと瞼を開け、柔らかく微笑んだ。来てくれてありがとう。信じてくれてありがとう。呼んでくれてありがとう。そう言っている気がした。
だからレイフは応える。
何度でも呼ぶよ。
いつだって信じてるよ。
だって、僕はきみを愛しているから。
“竜を呼んではならない”
“竜を信じてはならない”
“竜を愛してはならない”
竜が舌を取り戻されないために設けられた三つの禁則。
だからなんだ、とレイフは思う。
彼女が舌を取り戻すことで、彼女は声を取り戻せる。その三つの禁則は、それを阻むだけの価値があるのか。少なくともレイフ・スヴェンソンには無いように思える。
だから。
レイフはソフィアと唇を重ねる。愛している。その言葉を行動で示してみせる。
瞬間、ソフィアは瞠目し、そして事は起きた。
二人を飲み込むように凄まじい勢いの火柱が立ち、一帯に強烈な熱風が走ったのだ。
観衆のすべてがその光景に息を飲む。
わかるのだ、その炎の壁の向こうに圧倒的な存在がいると。
火柱は次第にその勢いを弱め始め、炎の壁の奥にいる存在を露わにさせていく。
獅子の比ではない鋭く太い爪牙と強忍な顎、視界に収めるもの全てを戦慄に震え上がらせる血走る双眸、大地を掴む屈強な二脚、荘厳かつ堂々たる体躯、剣傷すら許さない全身を覆う堅強な鱗、それら重装を身に纏ってもなお飛行を可能とする巨大かつ力強い翼。
「
誰かがそう呟いたのと同時に、竜は雄叫びを上げた。まるで大気を揺るがすような咆吼。これまで封じられてきた声。
皆がそれに怯む中、レイフは心が震えるのを感じた。
これは感動だ。ここまで凄い声は聞いたことがない。これが彼女の声なのだ。
と、そこで。
レイフははたと気付いて自身の耳に触れる。
今、なぜ彼女の声が聞こえたと思ったのだろうか。もしかして耳が聞こえるようになっただろうのか。
そう思ったところで、竜――ソフィアがゆっくりとレイフを見下ろした。その目が告げる、背中に乗るようにと。
レイフは耳のことなどどうでも良いかと思い直した。今、彼女の心がそのまま理解できる。ならばそれでいいと。だから彼女の意志に従い、その背中をよじ登った。
同時にソフィアは翼をはためかせ、真上へと飛び上がる。そして上空をしばし旋回した後、何処へと飛び去っていった。
皆がその光景に圧倒されていた。なにも言えず、なにも出来ず。ただただ竜という存在に瞠目し、その姿を見届けるしかなかった。
そしてようやく一人、また一人と意識を覚醒させる中、デニスがハッとする。
「しまった、逃げられた。――追え! すぐに追え!」
部下に命令を下す。
そのとき、処刑台に一人の男性が上がってきた。ニコラスである。彼はいつもどおりの表情でデニスに近付くと、挨拶をしたのちにそれを示した。
「このメモの内容に覚えはありますかな?」
「それは――」
レイフの過去話。あの、一〇年前にデニスが起こした殺戮事件。思わず声を零したところで口を押さえるが、遅かった。ニコラスは目を細める。
「半信半疑でしたが、どうやら覚えがある様子。……すこし前にこのメモを拾い、内容が内容でしたので、図書館で当時の新聞を調べてみたのです。すると一〇年前、たしかに村人が殺戮された事件があるとのことでした。しかし、新聞では竜による犯行となっておりましたが、このメモでは人間の仕業と書かれている。そこで次に気になったのは、このメモを書いた者が誰なのか。答えはすぐに出ました。この町に筆談をするような者は限られておりますので。同時にあなたを思い出した。ずいぶんと筆談にこだわっておられたので、このメモの書き手を探しているのでは、と。そしてその目的を考えると、幾つかに絞られた。その中でも最も可能性として考えたくなかったのが、あなたが殺戮事件の犯人だと言うことです。……副団長様。あなた、その右腕の傷はいつからあるのですか?」
デニスは悔しげに奥歯を噛み締めるも、諦めずに言い返す。
「ニコラス殿。まさかあなたは、この件を国王に報せるつもりではないでしょうね。あなたもこの世は人間によって管理されるべきと訴えていたではありませんか。ならば我々は同志。どうか内密にしていただきたい」
「それは叶いません」
「なっ――。あなたは竜を庇うと仰せか! それでも人の世の聖職者ですか!」
「聖職者だからです。たしかに私は竜を嫌悪している。しかし、だからと言って竜に罪を被せるためだけに人を殺戮するなど、許されるはずがない。あなたにあなたの正義があるように、私にも私の正義がある。当時の村人の遺留品なども残っているでしょうし、再調査がなされれば真実はおのずと浮かび上がってくるでしょう」
「そんな、馬鹿な……」
これにデニスは自身の破滅を悟って膝を屈したのだった。
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