第8話

 ソフィアは普段どおり買い物のために市場に来ていた。そしてこれまた普段どおりの冷ややかな視線が注がれる。こればかりはいつになっても慣れない。疎外感、孤独感。もしも竜だけが住む世界ならば、このような目に遭わなくて済むのだろうなと思わずには居られない。とは言え、今は人間の世界で生きる身。ならばその世界のルールに従うのは、致し方ないこと。ソフィアは握り締めたメモ用紙を見る。施設長に渡された、買い物リスト。今日は夕食の食材以外にも、消耗品である蝋燭なども含まれていた。とりあえず今はこれらの品々を買って帰る。余計なことを考えている暇などないのだ。

 ソフィアは大きな籠を手に、目的の品々を求めて市場を歩き回った。

 その最中のことであった。

 市場の人込みの中、ソフィアは次に向かう場所を探して辺りを見回した。そのとき、遠くに見えた布屋の店主がこちらを指差してきた。どうやら対応している男性客に何かを教えている様子。そしてその男性は、店主の指差しに従ってこちらへと向いた。目が合う。鋭く、敵対心が露わな瞳。ソフィアは思わず後退る。が、自分が見られていない可能性もある。なので指差しの直線上が外れてみた。しかし男性の視線は外れない。つまりは、あの男性の目的は自分なのだ。そう理解し、ソフィアは危険を覚えて移動を始める。明確な理由はない。ただ、あの男性は危険だと直感が警鐘を鳴らしていたのだ。周囲の人込みに紛れるように逃げる。はやく、はやく、はやく。もっと遠くに、遠くに、遠くに。胸中でそう唱えながら逃げ、ソフィアはふと目に入ったひと気のない路地へ。そしてそのまま物陰に身を潜める。直後、男性はソフィアの隠れている物陰の前を通過。気付くことなく何処かへと駆けていく。それでソフィアはほっと胸を撫で下ろした。

 しかし、さっきの人は何だったのだろうかと疑問に思った直後である。

「見つけたぞ、口なし」

 背後から男性の声。ソフィアは振り返る。先の男性とは別の人。ただ、こちらを害する意志は先の男性と同じ。なので慌てて逃げようとしたが、腕を掴まれてそのまま地面に組み伏せられてしまう。うつ伏せの姿勢。

「俺の部下を撒くとは、存外すばしっこいな、貴様。ま、そんなことはどうでもいい。それよりも貴様に聞きたいことがある」

 そう言って男性は、ソフィアの目の前にそのメモ用紙を放った。それは先日、レイフの両親が殺された事件の内容が綴られた用紙。ソフィアが馬に轢かれそうだった孤児院の子供を救った際に落とした物である。

「これを書いたのは、何処のどいつだ? 教えろ、口なし」

 そして目の前に落とされたペンと用紙。そこにその者の名前を記せということなのだろう。しかしソフィアは動かない。と言うよりも、疑問が脳内を支配していた。

 どうしてこの人は私を組み伏すのか。

 どうしてこの人はそんなことを知りたいのか。

「どうした口なし。はやく書け。言っておくが、拒否は許さん。俺は騎士団副団長デニス・ダールマン。これがどういう意味かわかるか? 騎士団は竜関連の事件鎮圧などの任に当たっているため、危険と判断された竜をその場で刑に処す権限が与えられている。つまりは、この場で貴様を処刑することも出来るということだ」

 死にたくなければ、言うとおりにしろ。

 それがデニスの通告であった。

 ソフィアは組み伏せられながら、なんとか文字を記す。しかしそれはデニスの命令に従った内容ではなく、ソフィアからの質問だった。

『どうしてそんなことを知りたいのですか』

「そんなことは貴様が知る必要はない。余計なことは考えず、さっさと書け」

 ソフィアは首を横に振る。

「この……。口なしの分際で逆らうのか、貴様」

 デニスはソフィアの頭を地面に押さえつけ、体重を乗せる。ミシミシと頭蓋が鳴り、痛みが走る。それでもソフィアは書こうとしない。デニスは舌打ちし、彼女の頭を解放。代わりに仰向けにさせると、上に跨がり、腕捲りをして右拳を握った。

「最後だ。書かないのならば、その顔面を叩き潰す」

 ソフィアはぐっと奥歯を噛み締め、これから自身を襲うであろう災難に備える。が、そこで気付いてしまう。腕捲りによって晒されたデニスの右腕。そこに、まるで抉られたような傷跡があったのだ。瞬間、ソフィアの脳裏にレイフの言葉が蘇る。

 ――右腕に抉られたような傷跡を持つ犯人が、倒れた両親を滅多刺しにする光景を見ていたんだ――

 幼いレイフを襲った事件。それを探るこの男性は、右腕に抉られたような傷跡を持っている。

 確証はない。だが、ソフィアは確信した。

 この男こそ、彼の両親を殺した犯人だと。

 そしてそんな男が彼を求める理由を考えると、答えは容易に出てきた。

 この男は彼を殺す気なのだ、口封じのために。

 ならば、絶対に知られてはならない。たとえこの命にかえても。

 そう決断したソフィアだが、視界の端に彼を見つけてしまう。ひと気のない路地とは一線を画す市場の喧騒。そこにレイフの姿があった。彼は何かを探す視線で辺りを見回し、こちらに気付いた。そして急いだ様子で駆け寄ってくる。おそらくは暴漢に襲われていると思ったのだろう。だが、今はまずい。この男の目的は彼なのだ。ソフィアは一瞬の葛藤の末、行動に出た。手に持っていたペンを固く握り締め、デニスの腕に突き刺したのだ。予想しなかった反撃を受け、デニスは怯む。その一瞬の隙をつき、ソフィアは上に跨がるデニスを押し退け、駆け出す。向かう先はレイフの方。彼はソフィアが向かってくるのを見て、出迎えるように手を広げる。しかしソフィアは近くにあった角材を拾うと、走る勢いそのままにレイフを殴りつけた。レイフはよろめいて後退る。どうして、とその目が訴えてきている。そこにソフィアは追撃。ふたたび殴りつける。レイフはその一撃で昏倒。周囲では悲鳴が轟く。口なしが人を襲った。口なしが人を襲った。それは伝言ゲームのように市場全体に伝わっていき、とうとう大騒ぎに発展してしまう。

 だが、これにソフィアはほくそ笑み、デニスは苦虫を噛み潰した。

 観衆に晒された中での傷害事件。こうなった以上は、ソフィアの断罪は決定的。まだ筆談相手を聞き出していないというのに、その手掛かりを殺さなければならない。

「くそ。やりやがったな、口なし風情が……」

 デニスは怨みを込めてぼやいたのだった。


 それからしばらく時間が経過した頃。

 市場の喧騒の脇で、ニコラスは地面に落ちているそのメモ用紙を拾い上げていた。

「これは……」

 同時に、市場の騒ぎの理由を耳にする。

 なんでも孤児院の口なしが人を襲ったらしい。そのため、騎士団は夕暮れ時に広間での打ち首を決定したと言うのだ。

「……まさか、あの子が?」

 にわかには信じられない。そう思う一方で、やはりあの子も口なしだったのだなとニコラスは失望のため息をついたのだった。

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