第6話
ソフィアの衝動が収まり始めたのは、彼女が涙を流してしばらく後のことである。
しかしレイフ達が周囲から注目されることはなかった。せいぜいすれ違い様に好奇な目を一時的に向けられるだけ。それは市場の近くとは言え、路地という人通りの少ない道だったということと、彼女が声を出して泣けなかったことが理由として挙げられる。
二人は側の石壁に背中を預け、座り込んでいた。ソフィアは路地の小さな空を赤く腫れた目で見上げ、レイフは泣かせてしまったことを自責していた。
しばらく何をするでもない時間を過ごしたところで、レイフが手帳に書き込む。この沈んだ雰囲気をどうにかしようと雑談を試みようと考えたのだ。
『こんな話を知ってるかな? 僕がよく読む本に書かれた物語なんだけど』
それは、今や内容が内容のために絶版となった童話の本。
遥か昔、人と竜は同じ「天使」と呼ばれる存在だった。しかし人は羽を捨てて地に降り立ち、竜は羽を巨大化させて空を飛び続けた。地と空。交わることのない人と竜。しかし地と空の中間の“とある丘”では、人と竜が共存していたという。
その丘の名を「ハル」と呼ぶらしい。
人と竜が平和に暮らす。その内容のために王国が絶版指定した童話。しかし読書家であるヴィダルの父は販売されてすぐに購入したため、書斎にその本が残っていたのだ。
『じゃあ竜を嫌わないのは、その本が理由なの?』
ソフィアの問いに、レイフは首を横に振る。
『たぶん、僕が幼い頃に竜に助けられたことがあるからだと思う』
『助けられた? どんな風に?』
『村の商人だった両親と一緒に、町の方に商品を仕入れに行った帰りなんだけど、盗賊団に囲まれたことがあるんだ。周囲に人家のない所で、両親は荷物をすべて渡すことでどうにか見逃してもらおうとしてた。だけどそうも行かない雰囲気で、僕が連れていかれそうになった。そんな時だよ。突然に一帯が陰ったんだ。雲だと思ったんだけど、上空でなにか音がしたから見上げたら、そこにいた』
レイフはその荘厳な姿を今でも覚えている。
大きな体での飛行を可能にする、巨大な翼。
見る者すべてを震え上がらせる、鋭い眼光。
いっさいの攻撃をはじき返す、全身を覆う鱗。
それは少数種族ながら人間と戦い続けた竜の姿だった。
『その竜はじっとこっちを見下ろしていたんだ。それに驚いた盗賊団は逃げていった。それもそうだよね。だって、すこし前まで戦争をしていた相手だからね。負けた腹いせに殺されるかもしれないと思うのは、たぶん自然な流れだと思う』
そう書いたところで、レイフはあっと気付く。失言。竜である彼女を前に、なんてことを書いてしまったのか。すぐに訂正しようとしたが、そこでソフィアが手帳を取る。
『いいよ、気にしなくて。それで、その続きは?』
『盗賊団がいなくなると、その竜は山の方に行っちゃった。これはあくまで想像だけど、あのときの竜は、僕たちを助けてくれたんじゃないかなって思うんだ』
気紛れだったのか、それはわからない。だが、あの出来事があったからこそ、レイフ・スヴェンソンは竜に悪い偏見を持たずに済んだのだ。そしてまた、あの童話を読んでしまうのは、そのときの竜の姿があまりにも荘厳だったからだろう。
『へえ。じゃあそのことがあったから、私に優しくしてくれるんだね』
え? とレイフは首を傾げる。
『その竜のお陰で、優しくしてくれるんでしょ? だから私もその竜に感謝しないとね』
え、いや、ちがう。
レイフの口は、声を発さないながらもそう動いた。
その竜とは無関係に、きみと一緒にいたいから僕は……。
そう言いたいが、そんなことを手帳に書き込めるほどレイフに度胸は備わっていない。そもそもそんなことを書いたら、彼女から『どうして?』と聞かれてしまう。『その竜とは無関係なのに、どうして私と一緒にいたいの?』と。
言いたいけど、言えないジレンマ。
レイフはどうしたものかと頭を抱える。
そんな様子をソフィアは不思議そうに見詰めるのであった。
と。
レイフはその雰囲気を変えようと、ふたたび違う話題を振ることにした。ものはついでなので、先ほど泣かしてしまったことを謝する。しかし彼女は手帳を受け取って『気にしなくていいよ』と書き込み、続けて『嬉しかったから泣いたの』と書き加えた。
嬉しかった。優しく接してくれたから嬉しかった。
その言葉が意味する悲しさが、ニコラスと話したレイフにはよく理解できた。
きっと誰にも信用されることなく、愛されることなく生きてきたのだろう。竜だから。たったそれだけでの理由で、彼女は辛い想いをし続けてきたのだろう。誰にも胸の内を明かせず、誰にも理解されず、ただただひとり孤独に過ごしてきたのだろう。
レイフはぐっと喉の奥に力を込め、決めた。そして手帳に綴る。
『僕も耳が聞こえないということで、いろいろと苦労したからわかるよ』
周りと違う。それだけで周囲からは奇異な目を向けられる。しかし共感してくれる人はいない。その孤独感は、堪らなくつらい。
ソフィアはその文を読むと、レイフの耳へと指を伸ばした。触れる。レイフはぎょっとし、緊張で体が硬直させた。しかしソフィアの表情を見てハッとする。悲しげな表情。その口が動く。聞こえないの、と尋ねられた気がした。レイフは心配させまいと首を横に振ろうとしたが、逡巡した後に頷いた。そして綴る、その理由を。
『聞こえなくなったんだ、両親を目の前で殺されたあの日から』
竜に助けられたその日、両親はあった出来事をそのまま村人たちに話した。そして、竜は聞いていたほど悪い種族ではないと伝えた。
それから数日が経った夜、村は悲劇に襲われる。村人全員が一夜にして皆殺しにされたのだ。後日、調査に来た騎士団は、死体に残った傷から竜によるものと断定した。が、レイフは知っている、その殺戮は竜ではなく人の手によって行われたことを。
『あの夜、村の異常にいち早く気付いた両親は、僕をベッドの下に隠して、自分たちは確認に行こうとしたんだ。だけど家のドアを開けた途端、誰かが入ってきて両親を斬り殺した。僕はその一部始終をベッドの下で見ていた。父さんと母さんの断末魔も聞いた。地面に倒れ、血を絶え間なく流す両親を見た。何も出来ず、ただただ見ていたんだ。右腕に抉られたような傷跡を持つ犯人が、倒れた両親を滅多刺しにする光景を見ていたんだ』
そう、今もあの光景が忘れられない。両親が刺されるたびに吐血する音が耳から離れない。忘れたくても、忘れてはならない気がして、忘れられない。
レイフのペンは止まっていた。ただただ呆然と過去を思い返していた。その様子を怪訝に思ったソフィアが、手帳を覗き見る。その際、互いの肩がぶつかり、レイフはハッとする。そして自分の書いた内容に気付くや、そのページを破り捨て、苦笑いを浮かべた。こんな暗くなるような話を見せて、相手に気を遣わせたくなかったのだ。
しかしソフィアはその破り捨てられたページを拾い、その内容を確認すると、突如、レイフを抱き締めた。いったい何事、と困惑するレイフ。彼女は温かく、柔らかい。そして優しい匂いが鼻腔をくすぐってくる。しかしそんなことはどうでも良い。それよりも現状が理解し難い。なんで、どうして。よりいっそうに困惑するレイフの耳元で彼女が何かを囁いた。耳が聞こえないはずなのに、何故かその言葉が聞こえた気がした。辛かったね。でも、もう大丈夫だよ。私が側にいるよ。そう囁かれた気がした。そしてその言葉の意味を頭で理解するよりも先に、何故か瞳から涙が溢れた。久しく聞いていない誰かの声。優しい声。温かい声。それが心に染み込んでくるのがわかった。だから泣いた。彼女にすがりつき、子供のように泣きじゃくった。恥も外聞もなく、すべてを彼女に委ねるように泣いた。そんなレイフを、ソフィアはいつまでも抱き締めていたのだった。
◇
陽が沈もうかという頃、郊外から町へと駆けてくる馬の群れがあった。それぞれに大柄の男が跨がり、颯爽と平原を駆ける様は、誉れ高き騎士団そのものである。
「副団長、あそこが目的の町です」
一人が先頭を走る男に告げた。
「うむ、わかっている」
デニス・ダールマン。現役の騎士団副団長で、狡猾そうな瞳を持つ四〇代前半の男。鍛え抜かれたその体は、歴戦の勇士のものである。
そんなデニスだが、副団長と呼ばれるたびに思わずにやけてしまう。
原因は一〇年前の事件である。
それは小さな村で起きた、殺戮。一夜にしてその村の住人は皆殺しにされたのだ。犯人は竜。それが国の決定だった。
だが、現実はちがう。
あれは村が襲われた数日前のこと。あの村の村長が騎士団に報告してきた。村に竜を褒める一家がいる、と。スヴェンソン家。なんでも盗賊団に襲われそうになったところを、竜に助けられたのだと村人たちに言いふらしているという。まだ終戦して間もない頃である。そんな時期に竜を褒めるなどあってはならない。竜は残虐で、恐ろしい存在でなくてはならない。それがデニスの考えだったのだ。ゆえに、そんな話を振りまく者は生かしておくわけにはいかない。その夜、デニスは信頼のおける部下を伴い、村へと馬を走らせた。そして殺戮を行った。スヴェンソン家は当然、話を聞いた村人も、報告に来た村長も殺した。そして調査という名目でふたたび訪れ、竜による仕業と国王に報告。同時に、犯人に仕立て上げた竜を斬ったことで、副団長の地位を得たのである。
ゆえにデニスは副団長と呼ばれ、堪えきれずに笑い声を上げた。
「くくく、あははははは!」
愉快、愉快。そう馬上で笑っていたために前方への注意が疎かに。このとき、側に建つ孤児院の庭から子供が飛び出してきた。しかしデニスはこれに気付くのが遅れてしまう。慌てて手綱を引くが、間に合わない。子供は馬の接近に気付いて硬直。このままでは轢いてしまう。最悪の光景が脳裏によぎる。しかしこのとき、もう一つの影が飛び出し、子供を抱えると、そのままの勢いで転がるように危険地帯から離脱。デニスはようやく止まった馬を操り、子供を救った人物を見た。少女だった。彼女はまだ子供を抱えたまま地面に転がっていたが、もう安全と気付くや、子供を解放。子供は少女に礼をすることなくそそくさと孤児院へ走っていく。そんな非礼は慣れているのか、気にした様子もなく少女も孤児院へと向かう。その間際、デニスに黙礼。声は発していなかったが、下げられた頭はお騒がせしてすみませんでした、と告げていた。デニスは孤児院へと戻ろうとする少女を呼び止めようとした。子供を殺さずに済んだことを礼しようと思ったのだ。しかしそのとき、先ほどまで少女が転がっていた場所に、数枚のメモ用紙が落ちているのに気付いた。彼女が落としたのだろう。デニスは馬から飛び下り、その用紙を拾う。文字が書かれていた。何気なしに読む。そして、デニスの表情が険しくなる。
そこには、一〇年前の事件について書かれていた。それも、犯人が人間であることを知っていると書かれている上に、内容からして村人が書いた物と判断できるものだった。
つまりは、一〇年前の事件には生存者がいたのだ。
デニスは驚いて少女の背中を睨み据える。そして、大きく安堵の吐息を洩らした。
「とりあえず、これを手中に収めたのは大きい。こんな物を誰かに読まれたら、真偽はともかく面倒事になる可能性があった。だが、今やこれは俺の手の中。不幸中の幸いってやつか。まったく、我が事ながら悪運が強いな」
デニスは孤児院を見上げ、にやりと口の端を釣り上げたのであった。
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