第3話

 遠ざかっていく主の背中を見送った後、レイフは行動を始めた。

 まずは指示どおりに稽古場へ行き、ヴィダルの言葉を伝えること。

 レイフは踵を返し、砂利道を踏み締めて稽古場へと向かう。道中、すれ違い様に人々が挨拶をしてくる。レイフはそれにいちいち頭を下げて応えた。それはカールシュティン家に泥を塗らぬための行為。挨拶をしてくる人はレイフにではなく、その背後にカールシュティンを見て挨拶しているからである。

 彼女と出会ったのは、市場の雑踏を横目にする道を歩いていた時だ。

 レイフは今日も賑わっているなあ、と思いながら市場を横目に歩いていた。しかしこのとき、前方の曲がり角から少女が飛び出していた。レイフがそれに気付いたのは、衝突する直前のことだった。ぶつかったことにより、相手は尻餅をつき、持っていた荷物を落としてしまう。レイフは慌ててその荷物を拾う。紙で包まれたそれは、おそらくは肉だろう。柔らかく、また若干の血の臭いがする。お使いを頼まれたと言ったところか。そんなことを考えながら、未だに尻餅をついている相手に手を差し伸べた。少女は自身の尻の痛みを気遣った後、ようやく顔を上げてレイフを見た。目が合う。瞬間、レイフはその少女の容姿に釘付けになった。

 同年代くらいだろうか。着ている物は見窄らしいが、それでも彼女の美しさを隠すことは出来ていない。肩まで伸びた髪はサラサラで、輪郭も鼻筋も人々の理想に近い。瞳はすこし儚げで、それが却って彼女に神秘さを付与させていた。

 少女は差し伸べられた手を見て、若干の戸惑いを見せながらも握った。それにレイフはどきりと胸を高鳴らせる。初めての感覚。異様なまでに鼓動が速くなっている。背中に脂汗が滲む。そんなレイフの怪訝に見ていた少女が小首を傾げたのと同時に、レイフはハッとし、慌てて少女を引っ張り起こした。そして拾ってあげた荷物を手渡す。すると少女はうやうやしく一礼。レイフは慌てて言葉を探した。このままでは、頭を上げた途端に彼女は行ってしまう。どうにかこの場に引き止められないだろうか。何故かそう思ったレイフは、なにか言葉を口にしようとした。しかし声が出ない。緊張しているのもあるが、やはり耳が聞こえない弊害だろう。彼女の頭が上がり始める。そこでレイフは思い立った。普段から意思疎通に困らないようにと、筆談のために持ち歩いている手帳。そこに自分の名前を書き、少女に見せたのである。

「?」

 少女は手帳を見て、それから小首を傾げた。

 レイフはすぐに自分を指差し、手帳の文字を指差す。

 それで少女は理解したようで、なるほどと言った様子で頷くと、レイフから手帳を預かり、なにかを書いてから返却。そこには彼女の文字が記されていた。

『私はソフィア・テオリーン。郊外の孤児院で暮らしてるの』

 レイフは心の中でその文字を読み、すぐに彼女の名前だと理解した。

 ソフィア・テオリーン。

 今度は口を動かして読む。無論、声は出ていない。

 手帳から顔を上げ、少女――ソフィアを見る。

 彼女はにこっと微笑むと、ふたたび頭を下げ、行ってしまった。

 レイフはその背中を見送り、そして手帳の名前を見る。

 ソフィア・テオリーン。

 何故かその名前と、彼女の微笑みが頭から離れてくれなかった。


 剣の先生にヴィダルが休む旨を伝えたレイフは、ヴィダルとの待ち合わせの時間まで郊外の原っぱに寝転がり、時間を潰すことにした。

 その最中、流れる雲を見上げながら彼女のことを思う。

 ソフィア・テオリーン。

 何故、彼女は声を用いなかったのか。こちらの耳が聞こえないことを知っていたとは、あの反応からは考えがたい。となると、向こうも声を用いられなかったと考えるべきか。

 ここでレイフは、そう言えばと思い至る。

 たしか孤児院には口なしがいると聞いたことがある。それが彼女なのではないだろうか。

 口なし――竜。

 戦争終結後、人は逃げ遅れた竜を無力化するためにその舌を引き抜き、そして人と竜を完全に区別すべく三つの禁則を設けた。

“竜を呼んではならない”

“竜を信じてはならない”

“竜を愛してはならない”

 これにより、人と竜の間には明確な線引きが成されたのである。

 しかし、これにはとある噂がある。

 この禁則が設けられたのは、まったく別の理由があるのだと。

 竜が舌を取り戻すのを防ぐ方策。

 それを防ぐための三つの禁則なのだと。


 陽が地平線に沈み始めた頃、レイフはハッと起き上がる。ついついうたた寝して、気付けば空は夕焼けに染まっていたのだ。

 ヴィダルとは夕方頃に落ち合うことになっている。陽の様子からしてもその時間帯だ。本来ならば主が待つという事態を避けるため、早めに待ち合わせの場所にいなければならないのに、なんたる失態。いや、まだ間に合うかもしれない。

 一瞬のうちに考え至った結論に従い、レイフは行動を始める。来た道を走り、待ち合わせ場所へ。その途中、孤児院の側を通りがかり、ふと走らせていた足を止めた。

 元教会のそこには、礼拝堂以外にも巡礼者が寝泊まりする部屋が多く備わっていた。今やそこは孤児たちの私室に取って代わっているという。

 その私室の一つ。二階の角部屋の窓に、気になる人影を見た。

 夕陽が窓ガラスに反射してよく見えなかったが、何故かその人影が彼女に思えた。

 竜の少女、ソフィア・テオリーン。

 レイフはどうしたものかと狼狽。手を振って挨拶するか、しないか。しかし相手が彼女とは限らないのに、挨拶をするなどおかしくはないか。いや、そもそも彼女とは知り合いでもないのに、挨拶をすること自体がおかしくないか。そんな葛藤をしばらく繰り広げていると、窓の人影が小さく動いた。それが控えめながらも手を振っているのだと気付き、レイフは咄嗟に大手を振って返し、そして満足してヴィダルとの待ち合わせ場所に急いだのであった。

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