第4話 あの日のバス

 田んぼのあぜ道で、君を見かけた。

 明るい色のワンピースが、夏の日を浴びて輝いている。


 じっとこちらを見ている君は、僕に気がつくとパッと表情を輝かせた。

 ああ、あの頃と少しも変わらない。まるで子供のように屈託のない、僕の好きな笑顔だ。

 僕は吸い寄せられるように、彼女を見つめた。

 きっとこの世界のどこにいても、僕は彼女を見つけられるだろう。

 君はそんな僕の気持ちなど知る由もなく、抱き抱えた子供の手を掴みこちらに手を振っている。


 僕はついに、観念する時が来たことを理解した。


 あまりにも眩しいその姿に目眩がする。

 僕は息を吐きながら、バスの背もたれに深く沈んだ。


 バスを降りたくない。


 このバスを一歩でも降りてしまえば最後、時間はものすごいスピードで僕を捕まえにやってくるはずだ。


 人づてに、君が僕の知らない誰かの奥さんになって、僕の知らない子供の母になったと聞いた。

 でも、こうして目にするまでは、どうしてかまるで本当のこととは思えなかったのだ。


 僕は彼女に、気持ちを伝えた事はない。

 だから彼女に少しも非はないのに、どうしてか心は重く陰っていく。僕は一体何をしたかったんだろう。


 彼女と過ごした夢のような青春の日々。

 僕はその宝物のような時間を、ひたすら反芻したかった。大人になんてならずに、美しい箱庭でずっと煌めく日々を見ていたかったんだ。


 バスを降りたくない。

 そうすればきっと、あの頃の二人はもろく崩れて消えてしまう。

 時間が僕に重なったその瞬間、あの頃の僕も君も完全に失われてしまうだろう。


 それは、死と同じだ。


 僕は会いたかったんだ。

 あの日の、君に。

 会いたいんだ。


 バスが停まる。

 プシューっと気の抜けた音を立ててドアが開いた。

 嬉しそうに駆け寄ってくる君が見える。

 それと同時に、僕の心を去っていく僕たちが。


 急速なスピードで塗り替えられていく、君のビジョンを、少しでも留めておきたくて目を瞑った。


「全然変わらないね! 元気だった?」

 バスの外。

 眩しい光の中で、君が言う。

「……君も少しも変わらないね」

 僕は叫びたくなる気持ちを堪えて、そう言った。

「そうかなぁ。もう完全なおばちゃんだよ」

 そう言って軽やかに笑う君は、もう、知らない人だった。


 僕だけが、あの時に取り残されている。

 確かに今、同じ場所にいるのに。

 君と僕のスピードはまるで違った。

 交差する彗星のように、違う方向へ流れていたのだ。


 でも、確かに一瞬。

 交差するその一瞬だけは、眩い時を共有していたのだ。


「会えて嬉しいよ」

 僕は「今」に相応しい顔を装って、笑った。

 途方も無い寂しさが、僕の胸に沈んでいった。

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あの恋の話をしよう。 ほしのかな @kanahoshino

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