第2話 ヴィーナスにさよならを

明星は二度昇る。


白み始めた空を掠めるように明星がゆく。

ちらちらと煌くあかる星は、持ち主不明の落し物だ。

刹那の輝きは、ポケットから転がり落ちた一粒の金平糖の様に──あるいは砂塵にまぎれた桜貝の様に、現れるとも知れない持ち主を待つ、宝物のそれに似ている。


儚く灯る空の火は、己の美しさに気がつくことは無い。

観測者の羨望などお構いなしに、申し訳なさそうに存在するだけだ。

ただいつまでも、ひっそりと。

ただどこまでも、穏やかに。

宛ての無い周回軌道は、昼と夜の隙間を縫って、今日も僕に辿り着く。


「行ってらっしゃい。──それとも、さようなら。かな」


掠れた声は空には届かず、哀れな僕に降り積もる。

ならば。と手を振ろうにも、投げ出したままの手足はもう少しも動かなかった。


腫れた頬がずきずきと痛む。きっと赤く無様な痕になっているのだろう。

じわじわと放射状に広がる熱に、けれども愛しさばかりが込み上げる。


「……流石に、ちょっと、痛すぎる」


夜明けの風は、身を切るように冷たい。


天体観測倶楽部は今日でおしまい。

悲しいけれど、それが全て。


* * *


天体観測倶楽部は数人の部員で形成された、小さなクラブである。

人数も少なく明確な活動目標も無い為、学校からの正式な認定は下りていない。

極めて物好きな先生の下、自由気ままに天体観測に勤しむ、一風変わった集まりだ。

癖の強いクラブ員達の間にはチームワークなど皆無に等しく、程よい無関心が心地よかった。

意思を持たぬぼんやりとした集合体──そう。僕たちは例えるならば『宇宙そのもの』だ。


雲の少ない夜、僕らは大抵屋上に居た。

暗幕と埃だらけの部室から引っ張り出した馬鹿みたいにデカイ望遠鏡を囲み、皆思い思いの時間を過ごすのだ。夜空の下で本を読んだり、シェルフに包まり寝転がったり。好き勝手に時間を費やす部員達の横で、僕と月子先輩は、星や惑星や銀河の話なんかをした。

アルテミス・オリオン・ヴィーナス・ヘパイトス。

月子先輩は星座に纏わる神話を好み、流星の尾の様に白い指で空をなぞっては、僕に古い幻想を囁きかけた。

先輩の口から紡がれる神々の恋物語は甘やかな音色で僕の耳をくすぐり、僕は呆けたように細く美しい指先が星と星を結ぶのを眺めていた。


観測者はいつだって公平な目で物事を測らなければならない。

──だから決して感情的になってはいけないの。

星を浮かべた瞳が僕を見て笑う。

──わかるかしら。やちよ君。

水琴窟すいきんくつの声が、僕を呼ぶ。


野池好訓のいけよしふみという僕の名前を、まるきり好きなように解釈したその呼び名。先輩が戯れに付けたその名前。知らない星を名付けるように、僕に冠せられた一つの名。

先輩の唇がその名を紡ぐたび、僕の胸は銀河を流し込んだように煌いた。

──やちよ君。

先輩の笑顔が、望遠鏡を操る細い手首が、僕を僅かに見上げる黒曜石の瞳が──。

その言動一つ一つが僕の中で甘い灯火になって弾ける。飛び散った火種は燻るようにじりじりと胸を焦がし、立ち上った煙は淡い桃色の星雲となって僕の心を埋めていく。

月子先輩と共に居れば、僕はどんな天気だって心に星空を描くことが出来る。

心に散りばめられた煌くもの。胸を回る一つの天体。

それが何か。観測せずとも知っていた。

僕は月子先輩に、恋をしているのだ。


 

「変わらないものなんて無いわ。だからこそ一つの夜がこんなに愛おしいんじゃない」


望遠鏡のレンズを覗き込みながら先輩はそう言った。

前かがみになった先輩の胸元で、セーラーの赤いスカーフが揺れている。

僕は闘牛になったみたいにその赤から目を離すことが出来なかった。


先輩は変化を慈しむ。


とめどない時の流れを愛し、星の一瞬の瞬きを愛でる。限りある季節も、移り行く草木の色も、先輩にとっては皆等しく愛おしいものなのだ。

確かに僕もそう思う。──いや、そう思っていた。でも、それは単なる思い込みに過ぎなかったのだ。今となってはハッキリとわかる。僕は先輩の愛するものを愛したかっただけなのだ。先輩と同じものを見て、同じものを好きでいたかった。


──だって、僕は。

変化を愛す先輩の隣で、ずっとずっと不変を願っていたのだから。




「──やちよ君」


星空は夜毎姿を変えていく。

同じように見えても、まるきり同じ空は二度と無い。

間違い探しの様な些細な違いを積み重ねて、空は時間を運んでくる。


「私」


そうして。

季節と共に変わっていくのは、僕らもまた、同じだった。


「転校するわ」


早朝。まだ夜明けと呼ぶには早い時間。

屋上に呼び出された僕に、先輩はぽつりとそう言った。

零れ落ちるように紡がれたその言葉は、おかしな時差を伴って僕の脳内を揺さぶった。


「……いつです」

僕の口が意思を伴わない音を発する。

自分でも可笑しくなる様な、掠れ、間の抜けた声だった。

「……明日」

先輩は俯いたまま、だからこの学校に来るのも今日が最後、と付け加えた。

「冗談ですよね」

「ごめんなさい」

「急すぎませんか」

「ごめんなさい」

「どうして、もっと早く言ってくれなかったんです」

思わず強まった声音に、先輩の細い肩がびくりと跳ねた。

「……ごめんなさい」

先輩は相変わらずコンクリートの地面を見つめたまま、動かない。

震える肩と、美しい髪。

僕から見えるのは、それだけだ。

「月子先輩」

風が先輩のスカートを揺らす。

「こっち、向いて下さい」

先輩の細い首が力なく左右に揺れた。

「先輩」

光年に阻まれた様なその距離を一歩、詰める。

先輩が怯えたように一歩後ずさる。

「先輩」

僕は苛立ちに任せて先輩の二の腕を掴んだ。力を入れれば折れてしまいそうなその腕の細さに眩暈がする。先輩が我に返った様に身をよじる。

ふわりと靡いた髪から、先輩の香りがした。

くらり。

脳内を揺さぶるその香り。

気がつけば僕は先輩の腕を引き寄せ、その華奢な身体を抱きしめていた。

「や、やちよ君!」

耳元で、先輩の声がする。

焦っているのか少し余裕の無いその声音。

いつも落ち着いている先輩からは想像も出来ない声。

「やちよ君。離して」

聞いたことも無い気弱な震える声。

「先輩」

抱きしめる腕に力を込めて見下ろせば、先輩は耳まで真っ赤に染めて潤んだ瞳で僕を見上げていた。

「月子先輩。僕は嫌です」

その目を見つめたまま言えば、先輩は耐えかねたように視線を落とす。

「でも、もう決まったことなの。私にはどうしようも出来ない」

「先輩が居ない天体観測倶楽部に、僕の居る意味なんて無いんです」

「ごめんなさい」

先輩はそう言うと僕の胸を控えめに突き放した。

ぽたり。

先輩の震える声と共に、煌く水滴がコンクリに落ちる


それを見止めた瞬間。

僕の意識は陽炎の様に揺らいだ。


掌から伝わる暖かな体温。

唇に触れる柔らかな感触。

見開かれた先輩の瞳。

そして。

頬への鋭い一撃。


痺れるように広がる頬の熱さに、収束するように意識が戻る。

自分の行動に驚いて立ちすくんでいた僕を、先輩は強く見据え、今度こそ遠慮なく突き放した。

鉄扉を勢い良く開けると、そのまま振り返る事無く走り去る。

残された僕の傍で、扉がキイキイと寂しそうに鳴いていた。


「……泣きたいのは僕の方だ」


ひりひりと痛む頬を押さえると、僕はその場に倒れこんだ。

頬の痛みが全身に広がり胸に集まる。

僕の身体はまるで痛みの固まりになってしまったように悲鳴を上げていた。


* * *


どれくらいそうしていただろう。

視界の端を明星が過ぎ去ってもなお、僕はコンクリに背を預けたまま空を見上げていた。


先輩は今頃どうしているだろうか。

部室に居るだろうか。それとも教室に居るだろうか。

どちらにせよ、きっと泣いているだろう。

僕はまだ、自分の思いすら伝えていなかったのに。

先輩の気持ちも無視して、あんな事をしてしまった。

「……最低だ」

今になって、じくじくと後悔が込み上げる。


星を隠す太陽が、空を白く染めていく。

僕たちの最後の夜が、今終わったのだ。


「先輩」


瞳を閉じれば、先輩の笑顔が蘇る。

──やちよ君。

囁くような先輩の声。


明日からは、もうその名で僕を呼ぶ人は居ない。

もう、居ないのだ。


痛む頬をするりと水滴が撫でた。


「このままじゃ駄目だ」


これで終わりなんて、良い訳無い。

先輩に謝ろう。許してもらえなくてもいい。謝って、僕の気持ちを伝えよう。

そうして今度は、ちゃんとさよならを言おう。


僕は重い体を起こすと、ごしごしと瞳を拭った。


今ならばまだ、先輩と僕は同じ空の下に居る。

共に過ごしたあの星空の延長線上に。


明星が再び空に昇るまで。

僕は先輩の“やちよ君”なんだから──。

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