第7幕 Carnival kitchen

 美味しいスープを作るために重要なのは出汁と火加減だ。

 汗がじっとりと肌を濡らす様な暑い日でも、私は大きな鍋でスープをつくる。

 母から譲り受けた鍋は、ずっしりと重く、一度に大量のスープをこさえる事が出来た。

 夫は私の作るスープが好きで、沢山作ってもあっという間に無くなってしまう。だから沢山沢山作っておかなければならないのだ。 ふつふつと泡立つ琥珀色の液体をゆっくりかき回す。大きめに切った玉ねぎは透けるように溶け、ジャガイモは形を崩している。

 出汁をとる為に入れていた骨を菜箸で一つずつ丁寧に取り出す。骨の周りにへばり付いていた肉も、すっかり茹で上がり白っぽい肉はほろほろと剥がれた。


 スープが残るようになったのはいつからだったろうか。ふとそんな事が頭を過ぎる。

 掴んでいた骨がポキリと折れた。

「そろそろかしら」

 白い木棚からガラスのビンを取り出すと密封されていた蓋を開ける。ふわりと華やかな香りが辺りに広がった。庭の木から摘み取った月桂樹の葉だ。

 家の庭には月桂樹やら金木犀やらの小さな木や花が植えられており、家を心地よい香りで包んでいる。裏庭には畑と豚と鶏の飼育小屋、大きな逞しい桜の木があり、どちらも曾祖母の時代から手入れを欠かした事はない。

 まだ結婚したばかりの頃、夫は良く畑仕事や畜作業を手伝ってくれた。暑い日でも寒い日でも夫と一緒なら、楽しかった。

 夫が見事だと唸った桜は、近頃めっきり元気が無い。花の色も薄く褪せ、風に散る花びらは紙切れの様に無様だった。

 でも、今年は違う。きっと美しい花を咲かせることだろう。

 その姿を想像すると心が弾んだ。

 ビンの中から数枚の葉を取り出すと、パラパラと鍋に放り込む。

 途端にスープは何とも美味しそうな香りを放つ。

「良い匂い」

 取り出した骨を手近な笊に入れながら、次の料理を考える。

 肉はまだ沢山あるし、野菜も裏庭の畑から取り放題だ。

 素晴らしいこの日の為、是非とも豪華な料理を食卓に並べたい。

 私は頭を抱えて考える。

「ステーキが良いかしら。それとも薄くスライスして冷しゃぶサラダにしても良いわよね」

 魚屋が使うような大きな包丁を布巾で拭く。脂がついたままでは、肉は中々切ることが出来ない。シンクに無造作に置かれた肉の中に手を突っ込み一際大きな塊を引っ張り出す。

 肉から覗く太い骨は中途半端なところで折れ、ギザギザと鋭く尖っている。間接を上手に外すことが出来なかったのだ。そこに指を滑らせて見れば、ぷつりと肌が裂けて血が溢れた。肉から滴る血と、私の指先から流れる血が混ざり合う。

「ふふっ」

 嬉しさに思わず笑みが零れる。

 頭と肉を抱えたままくるくると回り、溢れるままに歌を歌い足を打ち鳴らす。足の下にあった豚の塊は、リズムに合わせて水音を立てた。

 大きくステップを踏んだ瞬間に、豚の塊から細い手首が外れて床を転がった。汚らしい血を撒き散らして私の家を汚しているその手には、美しい指輪がはめられている。

 忌々しいその手首をさっと掴むと、指ごとそれを食いちぎる。口に広がる臭い血を、フローリングに張り付いている豚の顔にはき捨てた。歪な顔のまま固まっている豚は楽しそうに見えた。さっき夫と抱き合っていた時よりも、今の方がずいぶん美しい顔をしている。頬や髪に自分の指を貼り付けて、馬鹿みたいに見開いた目で空を見ている。濁った眼球に血が滑る。

 この目が夫を映したのか。大きい子犬の様な目で夫を誘惑したのか。豚の癖に。指の無くなった手首を眼孔に突っ込む。硬そうに見える眼球は案外あっさり潰れてしまった。ぶちゅりと嫌らしい音が鳴り、暫くしてどろりとした物が眼孔と手首の隙間から流れだす。 ああ、本当に汚らしい。

「ほら、あなたよく見て頂戴。あなたはこんな汚らしい女に入れ込んでいたのよ。どこがよかったというの。こんな豚。挙句の果てに私に別れてくれだなんて……。ええ。もちろん私は分っているわ。あなたは何も悪くない。あなたはただ騙されてただけのよ」

 腕にすっぽりと収まる頭をゆっくりと撫でる。私が愛した柔らかな髪が手の中で大人しくそよいでいる。

「大丈夫。心配しないで。あなたと私はずっと一緒」

 顔を抱えるようにしてそっと夫に口付ける。

「スープにステーキ。生姜焼きにカレー。あなたの好きなものを一杯作ってあげる」

 火にかけたままの鍋がコトコトと音をたてている。

「血は桜に骨は野菜に。きっと良い肥やしになるわ。あなたはあなたの好きなものになって、私はそれを残さず食べるの。何て幸せなのかしら」

 炊飯器が水蒸気と共に静かな唸りをあげる。

「でも、あなたは駄目」

 床の上で奇妙に曲がった女の体を蹴り上げる。大きく膨れた腹が裂け、中からごろりと赤ん坊が飛び出した。

 血と脂にまみれた赤ん坊は弱弱しく手足を動かしている。

「驚いた。ゴキブリみたいにしぶといのね」

 顔をくしゃくしゃにして鳴き声を上げる赤ん坊は、女だった。

「ああ。どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのかしら」

 力任せに女の顔を引っぱたく。すっかり折れていた首は勢い良く曲がり、眼球を失い手首を生やした目で赤ん坊を見つめるようにうつむいている。

「この赤ん坊どうしようかしら。今からバラすのも億劫だし、これいじょう私の家を汚されちゃ堪らないわ」

 女の腹と赤ん坊を繋ぐへその緒を、包丁で切り離す。

「迷子の豚さんは小屋に帰してあげるのが正解……よね?」


 私のキッチンでは今日も摂れたての野菜と肉が並んでいる。

 美しく咲き誇る桜を眺めながら、食べるご飯は一層美味しく感じられる。

 近頃は裏の豚小屋に若い男たちが集い、豚を種付けしては帰っていく。その度に男たちが幾らかの金をくれるものだから、夫がいなくても十分に生活していけた。

 豚から産まれた子供が雄だったら食卓へ。雌だったら飼育小屋へ。


 そうして私のキッチンは永遠に循環していく。

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雛鳥たちのサーカス【短編集】 ほしのかな @kanahoshino

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