第5幕 新界魚

 僕はその半透明の立方体を口に入れた。

 その四角はひやりと心地よく、まるで乾季の終わりの雨の一粒の様に舌に染みる。口の中で行われている緩慢な消失は、僕に想像以上の満足感を与えてくれた。

 僕はこの瞬間のために、この四角を密やかに守ってきたのだ。この四角は僕だけの特権でどんなにお金を積まれても、どんなに良い女に頼まれても譲る気は無い。

 ──いや、彼女だけは例外だ。

 僕は斜め後ろの席をちらりと盗み見た。

 彼女は相変わらず分厚い本に目を落とし、その長い睫が作り出す影が、彼女の目元を神秘的に彩っている。彼女になら頼まれなくても、この四角を与えてみたいと思った。

 “城戸きどまこと”というのは、とかく変わった人間で、終始一人で本を読んでいる。

 薄い壁で囲われた教室と呼ばれる箱の中で、彼女の存在は他多数のそれとは幾分かけ離れている様に見えた。日がな一日誰とも会話をする事無く、ただ一定のリズムで本のページをパラパラと捲る。時折風が長い髪を揺らしても、一向に構わない様子で、瞳を二度三度瞬かせるだけだった。

 そういう訳で、僕は城戸と話した事も無ければ、彼女の指と髪と瞬く瞳の他に彼女が動く所も見た事が無い。それでも僕は、彼女ならこの四角の感動を共に分かち合ってくれるのではないかと思ったのだ。

 僕は口の中の四角が完全に消滅した事を確かめると、いよいよ意を決しなければならなかった。

 今、世界で最後の氷が溶けたのだ。


* * *


 その日から僕はワニになった。

 もちろんごつごつとした無骨な河のワニではなく、優美な曲線と直線で形作られた海のわにだ。

 僕は幼少の時分から、この日が来たら鰐になろうと決めていた。

 “世界中の氷が溶け全てが海に飲まれるその日”が予測されてからというもの、自殺者の報道は連日加速し、やがて無くなった。僕の知っている人が僕を知っている人が、どんな道を選んだのか僕は知らない。僕の様に海の生き物に成った者も居るだろうし、死んだ者もいるだろう。どこかでは大きな船を浮かべて生活しているヒトもいるらしい。

 けれど彼らがどういう道を選んだとしても別段興味は無かったし、今となっては知るすべも無かった。

 エラから抜ける小さな気泡を目で追えば、煌めきながら何処までも昇っていく。

 海の底から見上げた空はヒトだった頃と少しも変わらず青く、太陽の光がオーロラの様に煌いていた。か細い光を反射する窓に、僕の姿が薄っすらと映る。

 ──ああ。誰もこの鰐が僕だとは分からないだろう。僕はとうとう一人になったのだ。

 力強く尾びれをしならせれば、ぐんと景色が流れた。体中の筋肉が俊敏に反応し、僕を遠くへ運んでいく。泡や漂うプランクトンを掻き分けながら、僕はぐんぐん泳いでいく。

 海草が眠たそうにふらふらと揺れる間にも、人類が長い時を掛けて培ってきた世界の意味は失われ続けているのだ。

 ──そして、それこそが本当の『自由』なのだ。

 僕は目の前を横切る小魚を一口に飲み込みながら、一気に海流を駆け上った。上も下も左も右も。僕を遮るものは何も無い。僕はこの世界のどこまででも行けるのだ。

 自由の女神のトーチを回り、万里の長城でイルカとレースをする。

 世界は果てなく、冒険は終わりを知らない。見たいものだけを見るために、僕は泳ぎ続けていた。

 そうして幾日か幾月か幾年か過ぎたある日。

 僕はふと、あの教室の窓際を撫でていく風の柔らかさを思い出した。

 僕はあの頃より一層大きく立派な白鰐になり、誰からも畏怖される存在になっていた。

 あの時まで確かに僕の世界そのものであったあのちっぽけな空間は、今どのようになっているのだろうか。

 僕は無性にそれが気になり、あのコンクリートの建物を目指して尾びれを動かした。


* * *


 茂る珊瑚と海草の合間にひっそりと校舎は佇んでいた。

 僕の体は無意識に正門を潜り、骨の様になった桜並木を通り過ぎた。昇降口を入ると、下駄箱にはタコやウツボや小さな魚達が住み着いていた。階段を上り、教室のドアを潜る。

 最後の日、クラスの女子達が書いた寄せ書きは黒板ごと消えていた。

 僕はゆらゆらと旋回しながら教室を見回す。

 壁は黒く変色し、机や椅子は僅かに形を残し乱雑に散らばっている。部屋の隅に嫌という程練習させられた合唱コンクールのトロフィーが転がっていた。

 この教室という空間が僕はあまり好きではなかった。行きたくないと思う日もあれば、馬鹿みたいにはしゃいでいるヤツらを鬱陶しいと思う日もあった。

 ああ。けれど──!

 教室の後ろに目を遣れば、耐水加工のされた集合写真が貼られている。

 懐かしいばかりの彼らは僕を見つめて優しく笑っていた。

 僕の慟哭は幾つかの泡になってすぐに消えた。涙すら出ない瞳は引きつったように震え、声にならない叫びが体を駆け巡り頭はガンガンと痛み出す。

 どうして僕は彼らの行く末を聞いておかなかったのだろう。僕が毎日何匹も食べていた魚やイルカ達だって、本当は僕の知っている誰かだったのかもしれない。いや、知り合いじゃなくても、ヒトだった可能性は十分にあるじゃないか。

 僕はただ強くて力強いものになれた事が嬉しくて、本能の赴くままに彼らを食べてしまったのだ。

 胃がぐっと競り上がり、僕は先程食べたばかりの魚の欠片を幾つか吐き出した。消化され始めていたそれらは、水を白く濁しながらゆっくりと教室の床に降り積もった。

 無機質な魚の目が、ちらりと僕を見た気がした。

 ああ。ああ! ああ!!

 僕はもう居ても立ってもいられなくなり、教室を馬鹿みたいな速さで旋回した。

 僕は一体何をした。僕は何だ。生きるためだ仕方なかったじゃないか。僕は強くなった。自由になった。だけどこれは何だ。何だ。何だ。これはなんだ。

 ああ。ああ! ああ!!

 僕の吐き出した魚の欠片に蟹や小魚が群れるのを見て、僕の空っぽの胃はもう一度大きく波打った。

 苛立ちに任せた何度目かの旋回を終えたとき、それはふと僕の視界に入った。

 窓際の前から三列目。そこに、鮮やかなオレンジ色が揺れていた。

 柔らかそうな触手がゆらゆらと手招くようにたなびき、僕は吸い寄せられるようにそのオレンジを覗き込む。

 それは小さなイソギンチャクだった。波を受けて揺らめく触手と僅かに動くその柔らかな体に、僕は直感する。

 ──これは城戸だ。

 僕は息を殺して慎重に城戸に顔を近づける。城戸はすっかり恐ろしいだけの生き物になってしまった僕の頬を、ふわりと撫でた。

『城戸。僕がわかるかい』

 出来るだけ優しい声音になるように気を付けて話しかける。けれども僕の口からはゴボゴボと泡が零れるばかりで、彼女に届く前に消えてしまった。

 ならばせめてあの頃と同じように彼女の髪がなびくのを見ていようと、彼女に寄り添ってじっと目を凝らしてみる。途端に僕は苦しくなって、慌ててくるりと教室を回る。鰐は一箇所に留まって居る事が出来ないのだ。命尽きるその時まで、泳ぎ続けていなければ呼吸が出来なくなってしまう。これまで気にしたことは無かったけれど、今はそれが忌々しい。

 そんな僕の葛藤を他所に、彼女はただ揺れていた。


* * *


『城戸、今日は海流が暖かくて気持ちが良いね』

 あの日以来、僕は一時も彼女の側を離れない。

 揺れるばかりで動かない城戸の周りを僕はただぐるぐると回っては、彼女に話しかける。他愛も無い一方的な会話だったが、僕の心はこれまでに無い程に穏やかだった。

『さっき教室を覗いたクエは田村だろうか。何だか顔が似ていた気がしないかい?』

 魚を食べることを止めた僕は見る間に痩せていったが、それ程飢えは感じなかった。これまでの蓄えが十分にあったし、ヒトと違って多少食べなくても体が持つように出来ている様だった。

『そういえば、城戸は何を食べるんだい』

 僕は彼女が何かを食べているのを見たことが無い。イソギンチャクは魚を食べる筈だが、少なくとも僕が見ている間には彼女は食事をしていないのだ。

 それがますます城戸らしく感じられて僕は無性に嬉しくなった。

 くるくるくるくる。

 朝も昼も夜も僕は城戸の周りを回る。溶けてバターになってもおかしくない程に。

 薄く角ばった体にはゆるやかな旋回でさえも辛くなった。

 けれども僕は今日も円を描く。

『キド。キド。キド』

 霞む視界でオレンジは変わらず揺れている。

 がくりと唐突に力の抜けた体は、制御を失い僕はすっかり仰向けになってしまった。

『キド……』

 僕の口からゴボリと大きな泡が立ち上る。海面に上がっていくそれを見送りながら僕の体はゆっくりと沈んでいった。

 窓から差し込む光が眩しく瞼を閉じる。

 背びれが床に触れ、僕は音も無く横たわった。

 哀れで恐ろしいばかりの僕の頬に、ふわりと柔らかな触手が触れる。

 途切れかける意識の底。風がふわりとカーテンを揺らし、賑やかな教室に心地よい空気を運ぶ。その傍らで本を読んでいる城戸が、僕を見てにっこりと笑った気がした。

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