第4幕 Ear

 私という存在を話して聞かせる時、決して欠かすことの出来ないものがある。たとえ朝が来なくとも海が空に零れようとも、それだけは無くちゃならない。これは絶対だ。逆を言えばそれさえあれば後は何にも無くたって構わない。本当はこんなちんけな文章だって必要の無いくらいなのだから。

 さて、それがいったい何なのか。その疑問に率直に答えるならば、それは耳だ。象の様に大きな、あるいはミジンコよりも小さな、それは耳だ。あるときは冷たいコップの中に、あるときは無人島の廃屋の扉の裏に。吐き捨てられたガムの様にへばり付くそれは耳だ。生まれる前から私は耳で、生まれてからもやっぱりこうして耳だった。窮屈な渦巻き官をぶら下げたひだの寄った薄い肉。それ以外に私を表す言葉は無い。

 一体全体どのようにして私が人と同じくこの世に生を受けたのか、今となっては知る由も無いが知る必要も無いだろう。私の姿は誰から見ても奇異に映り、私にとっての世界もまた同じだった。

 世間の言葉が聞こえても私は言葉を話さない。世間の騒音に捲かれても私はそれを聞き漏らさない。私は耳だ。いつでもどこかで真実を聞いている。それだけはゆめゆめ忘れることの無い様にご注意願いたい。


* * *


 あれはまだ私が公爵夫人のドレープの隙間で甘ったるいワルツばかり聞いていた頃──そう。カムチャッカの鶏が自由に大空を飛びまわっていたちょうどその頃の話だ。

 どこをどう彷徨ったのか。気がついたときには既に私は柔らかなサテンの合間にぴったりと張り付いていた。ビーズやレースの飾りの様に、つややかな絹糸でしっかりとスカートに縫い付けられていたのだ。コサージュの影に隠れる様に、私は居た。標本の様に貼り付けられ少しも動くことが出来なかったが、別段困りはしなかった。公爵夫人はガサツで落ち着きが無く、食事をポロポロと良くこぼしたものだから、私はただぼーっとしているだけで食事にありつくことができたのだ。

 公爵夫人は鼻持ちならない奴だった。だからあれほど香水臭くても平気で居られたのだろうか。腐った花の匂いを撒き散らして得意げになっていたのだろう。あの時ほど私は自分が耳で良かったと思ったことは無い。もしも鼻だったとしたら、今日こうして君と話す機会さえ持てなかった筈だ。

 まあ今となってはどうでも良い話。とにかくこの夫人ときたら昼夜問わずあちらこちらで噂話裏話。婦人が住むのは嘘で塗り固めた砂の城。昨日は赤かったりんごが今日は紫。夫人の口から飛び出すことは何もかもがでたらめだった。

 しかも吐いたそばから嘘を忘れてしまうもんだから始末が悪い。夫人は都合が悪くなると、権力と金を総動員してでもその嘘を本当にしようとした。もう自分でも収拾がつかなくなっていたのだ。

 ある日。夫人の元を大勢の人が尋ねてきた。隣の領地の一人娘を中心に誰も彼も黒衣をまとっている。顔を薄いベールで隠した娘は小さく嗚咽を漏らし、悔やみの言葉を口にした。

 それを聞いた召使は驚いた。顔を真っ青にしながら公爵夫人の元へ駆け込んだ。

『公爵夫人様! 一大事に御座います。公爵夫人が亡くなられたとの知らせを受けてグレントリアのご息女が弔いにお見えです!』

 それを聞いた公爵夫人は驚いた。顔を真っ青にしながらこう言った。

『まあまあ! そんな嘘をついたかしら。どうしましょう。嘘つきだと思われるのは耐えられない。急いで死ななければならないわ』

 そうして公爵夫人はあっというまに毒を一飲み。嘘の代わりに血を吐いて死んでしまった。

 慌てる召使の傍で若い女の高笑いが一つ。

「ああ。公爵様の言うとおり。愚かな年増は死んでしまった」


* * *


 またある時は私はある家の居間の柱時計の中に居た。

 正確な時を刻む振り子の根元、金具の隙間に螺子と同じくらいの小ささで綺麗に収まっていた。一時間に一度の大騒ぎを除けば、こつこつと時を刻む音が大変心地良い。母の胎内はこんなだっただろうかと、私はこれまでに無いほどに幸せだった。

 その家には父と母と娘が二人住んでいた。銀行勤めの父と専業主婦の母。それから女学校に通う双子の娘。四人は仲良く暖かな家庭を築いていた。

 ある日、双子の元に縁談の話が舞い込んだ。二人に用意されたのは正反対の相手。

 一人は父の勤め先の上司の息子。太り気味の体系にぱっとしない顔立ちだったが、性格は温和で将来有望な若者だった。もう一人は従兄弟の友人。凛々しい顔立ちとすらっとした長身だったが、派手好きで落ち着きの無い若者だった。

 双子は二人の若者を比べて息を吐いた。

「お姉さまはどうするつもり? やはり高橋様のご子息? この方ならきっと安定した幸せな家庭が作れるわ」

「確かにそうだけれど、顔が嫌いよ。こんな豚のような男に抱かれ続けるのかと思うと、気が滅入ってしまいそう。こちらの方なら見目良いし生まれる子もきっと美しいわ」

「それもそうね。生まれた子供が子豚だったら育てる気さえしないほど。でも子供が成人して年をとったその時に、顔だけじゃ何にもならないのよ」

「……そうよね。でも先のことなんてわからない。どっちかなんて選べないわ」

「……ねえ。お姉さま。私にいい考えがあるの」

 それから間も無く、双子は若者達と結婚した。

 縁談は滞りなく進みそれぞれが理想的で、幸せな家庭を築いたのだ。

「私たち毎日夫を取り替えればいいのよ。私たち見た目は同じなんですもの分かりはしないわ。美しい子種も安定した生活もどちらも半分こにするの。ね? いい考えでしょう?」


* * *


 戦争の始まり。教師の嘘。天と海の情事。偽善者の罵り。朝焼けの秘密。羊飼いの食事。小麦にやる肥料。鶏のはしか。大地の苛立ち。科学者の戯言。真実の嘘。聖職者の気まぐれ。本当は嫌いなあの子。親子の約束。七つの海の夜明け。密やかな嘲笑。六角牛の蹄の行くえ。確証の無い醜聞。



 そうして世界を、時代を旅してきた私は、今。

 

 君の横に居る。

 

 君の頭骨に根を張って、さも元からそこに居たように振舞っている。特に違和感も感じなかっただろう? だが、確かに私はそこに居る。今、耳の中が少し痒くなっただろう? 脳髄に根を伸ばし少々刺激を送ったのだ。そのせいだろうか。どうしたことか君の思考まで鮮明に『聞こえて』くる。この話を読みだして微かな既視感を覚えただろう? そう。私は何度となく君に語りかけていた。お世話になるからには一言挨拶しておこうかと思ってね。

 私はもう疲れたのだ。彷徨うことに飽きたのだ。私は君の体の一部となって、他の耳と同じように終点を得る。なんて素晴らしいことじゃないか。そうは思わないかね?

 ああ、ああ。そう気持ち悪がる事もない。私は黙ろう。こうして人の手を借りて、文の力を借りて君に語りかけることはもうしない。これからはひっそりとただ君の傍にありつづけよう。

 けれども。

 私は今この時も、世界の音を──君の音を聞いている。


 私は耳だ。


 いつでも真実を聞いている。


 それだけはゆめゆめ忘れることの無い様にご注意願いたい。

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