第3幕 午前三時の明滅
「君は自らの魂の質量を知っているかね?」
彼は思わせぶりな視線で私を覗き込むと、自慢の口髭を撫で付けた。
「いいえ、知りません」
私は暫し思考を巡らせると、温かい紅茶を口に含んだ。新緑にも似た豊かな芳香と口に広がる微かな苦味が、過ぎ去った青い季節を思い起こさせる。
「ふむ。そうか」
彼はテーブルに肘を着いたまま呟くと、スプーンで角砂糖を突っ突いた。砂糖細工の施されたそれは、ほろほろと崩れて琥珀の液体に溶けていく。
「そもそも魂に質量が在るのですか?」
彼の紅茶に広がる波紋を眺めながら問いかけると、彼は徐に小さなガラスの器から二つ目の角砂糖をひょいっとつまみ上げ、そのまま口の中に放り込んだ。
「さあ、どうだろう」
とぼけた様に肩を竦める彼──アルベルト・アインシュタインは、謎かけを好む。いつでも一人思慮に耽り、そうして茶会の度に私に問いかける。それは昨日の地球の自転速度であったり、百年後の運勢であったり、恐竜の社交界でのマナーについてと言う事だったりした。
どれもこれも考えてみたところで私にはさっぱり分からない。そもそも彼は言葉遊びが好きなのであって、答えを求めているわけでは無い様だった。彼はきっと、この薫り高い紅茶と水滴の様な会話を楽しむ為に、この茶会を催しているのだ。
「……しかし在ると仮定しなければ、こうして毎晩お茶を楽しむ私達は一体全体何であろうか」
彼は仰々しくそう言うと、彼方に見える惑星に目を遣った。太陽の光を浴びて青い光を宿すその星は、どうみても地球そのものだ。
私は今日も暖かな布団に潜り込んだのであって、宇宙旅行に来たつもりは無い。寝ている間にスペースシャトルに乗せられたと言うなら話は別だが、目の前の彼等の存在を説明するには、タイムマシンも併用されたと考えなければならない。
「これは……夢ですから」
そうだ。これは夢なのだ。そうすれば全て説明がつく。月の上で時を越えて開かれるお茶会なんて、アームストロングも真っ青だ。最も此処が月だと言う確証も全く無いのだけれど。
何が夢で何が現実なのか。此処が何処でそれが本当に自らの思う通りの場所なのか。頭を捻って考えても無駄なのだ。この世界の殆どは分からない事で構成されているのだから。
「このカップは良い物ですね」
私は手の中にすっぽりと納まるティーカップを眺めながら言った。
分からない事ばかりの世界でただ一つ、私に分かる事があるとすれば、それはこの陶器が素晴らしい物だと言うことだけだ。
白く肌理細やかな磁器に施された繊細な細工。それをそっと指で追えば、思わず感嘆の声が漏れる。
「ああ、そうだろう」
彼は私の反応に満足そうに目を細めると、顔中を皺くちゃにして笑った。
身の回りに無頓着な彼がこの茶会に持ち寄るものは、世辞を言うのも難しい様な代物ばかりだ。この木製のテーブルに広がる毒々しいクロスなんて特に酷いもので、何故私が持ってこなかったのかと今でも悔やんでいる。
だがしかし、彼のティーカップを選ぶセンスだけはすこぶる良かった。
「チャールズが仕入れた茶葉が大変素晴らしい物で、思わず私も熱が入ってしまってね」
そう言うと、彼は自慢のカップの中で緩やかに踊る茶色の液体をこくりと飲んだ。
「チャールズはまた外灯の所に居るんですね」
尋ねると、アルベルトは片方の眉だけを器用に上げた。
私は新しく注いだ紅茶を飲み下すと、胸を満たす甘やかな苦味を空気ごと吐き出した。熱を帯びた水蒸気はゆっくりと空に溶けていく。
私達がこの月(と仮定する星)でお茶会を開き始めてからもう随分と月日が経つが、私はチャールズとはあまり言葉を交わした事が無い。
私とアルベルトは専らこのテーブルを囲んでいるのだが、チャールズはいつも自らが持ち込んだ外灯の傍らのベンチを好んでいた。
上品な作りのベンチにきちんと腰掛け、時折ちょこんと生えた鼻髭を弄びながら、時間の許すまで地球を眺めている。
その横顔は、どこかコミカルで悲しげだった。
「彼は一時も目を逸らさず、一体何を見ているのかしら」
彼を真似る様に、地球を見つめてみる。視界一杯に広がる青は煌き、何度見ても息を呑むほど美しい。だが、毎日ずっと見続けるのは流石に退屈なことのように思えた。
「さあ、僕にも分からない」
アルベルトはカップをテーブルに置くと、ぐいっと私に顔を近づけた。
「君の目には彼はただ毎日あそこに座っているだけのように映るのだろう?」
「ええ」
声を潜めるアルベルトに合わせるように小さく答えると、彼は茶目っ気たっぷりな顔で続けた。
「だが、僕の目には彼が映らない事の方が多い」
「どういうことですか?」
「簡単なことさ」
アルベルトは内緒話をするように、私の耳に丁寧に言葉を送り込んだ。
「彼は、絶えず明滅しているんだよ」
私はそっとベンチに目を遣った。チャールズは彼の気に入りの山高帽を頭に乗せたまま、やっぱり先程までと同じように、きちんとベンチに納まっていた。瞬きをこらえ目を凝らしても、彼の寂しげな横顔は変わらずそこに在る。
ああ、やっぱり彼の言うことは分からない事ばっかりだ。こんがらがった頭を整理しようにも、もうどこから手をつけて良いのか分からない。
首を傾げ唸る私を面白そうに眺めながら、彼はゆっくりと言った。
「さぁて、君は自らの魂の質量を、そしてその正確な在り処を知っているかね?」
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