第2幕 角に座す

 私は、その部屋の角を愛している。

 時折カーテンを揺らし入り込んでくる風や光も、遠く聞こえる商店街の喧騒も、全てその角に降り積もる。

 そこは、私の為のステージだ。

 暖かなスポットライトが私を照らし、さっきまでの体の痛みを嘘のように消し去ってくれる。

 やんわりと解けていく温度に、抱えていた膝をゆっくりと離し、足の指を2度3度動かした。折れていなかったことに安堵し、そっと息を吐くと、ほんのりと血の味がした。ずきりと痛む下腹部をそっと撫でる。

「だいじょうぶ?」

 私は私に問いかける。

 ステージの上では私は女優だ。殴られても蹴られてもそれは所詮お芝居なのだ。

(だから、平気)

 ヒロインは簡単には挫けたりしないものだ。

 壁に背を預けると冷やりと心地よい。ああ、やっぱりこの角は私を癒してくれる。私はあの男が帰ってくるまでの一時の幕間まくあいを、こうして壁に抱かれて過ごすのだ。

 この部屋を出れば、このお芝居は終わるのだろうか。そう考える事もあったが、狭い集合住宅で、しかしその出口は果てしなく遠かった。


 傾きかけた西日は、家具の陰を長く伸ばし、部屋の表情を変えて行く。

 次に彼が帰ってくる時がこのお芝居のフィナーレかもしれない。そう思うと笑いがこみ上げてきた。年老い、女優になる夢を諦めたこんな女に、なんておあつらえ向きのステージだろうか!

「鏡よ鏡。世界で一番美しいのはだあれ?」

 まだ物心も付いていないあどけない少女の頃。お遊戯会の為に何百回も練習した台詞。呟いて鏡を見ると、青黒く腫れた顔の女。

 これは一体何なのだ。ますます可笑しくなって私は腹を抱えて笑い転げる。

 このお芝居の結末は一体どうなるだろう。彼が私を愛してハッピーエンドか、素敵な王子様が助けてくれるのか。ああ、そんな事があるはずも無い。私は醜く、このステージでしか芝居が出来ないのだから。

ならば何を演じよう。彼に惨たらしく殺される被害者か、彼を殺す犯罪者か。ああ、どちらに転んでも演じきってみせようじゃないか。貴方が与えてくれたこの舞台で。

「愛しているわ」

 呟いた音は冷ややかな壁に吸い込まれ消えた。


 駆け抜ける電車の轟きに、立て付けの悪い窓が一斉に揺れる。

 まるであの日に聞いた喝采の様に。

「愛して、いたわ」


 ああ、最終公演の開幕まであと、少し。

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