サクラ・スケッチ

カエデ

さくら・スケッチ


枝垂れた柳は風鈴のように揺れていた。用水路程の小さな川を真鯉がぬるり、ぬるりと泳いでいく。

 手に持った色鉛筆をクルクルと回し、目の前の小川と描きかけの絵を見比べる。

 柳の色がまだ鮮やかだ、もう少し重くしよう。緑青色を何度も重ねる。光の当たりを意識して、それを守るだけで見栄えは幾分も違う。川はもう少し水色にしようか、この透明感を出すのが難しい。

”チリンチリン!”

 背後でしたベルの音にハッと我に返った。まただ。また、集中してしまっていた。

 黒い自転車に乗った豆腐屋のおじさんがすぐ後ろを颯爽と通り過ぎる。

 絵を描いていると、時折何も聞こえなくなる時がある。自分も周りも何もかも忘れて、目の前の絵と風景だけしか見えていない。

 無心になる、という言葉は何て的を射た言葉だろう。

 切れてしまった集中は易々とは戻らない。ぼんやりと描いた絵を見つめてると、そこ背後から人影が伸びた。

「和子、そろそろ時間だよ」

 画板を背に持った文ちゃんが三つ編みを揺らしながら言った。

「文ちゃん、吃驚した」

「和子また、入っていたでしょう?」

 先ほど私が集中していたのを見ていたのだろう。文ちゃんが意地悪く笑う。

「からかわないで文ちゃん」

 文ちゃんは時たま妙な言葉遣いをする。入っている、という表現も気に入っているらしい。

 私のスケッチを覗き込みながら文ちゃん短く口笛を吹いた。

「上手! 風景画好きだよね。私はどうも苦手で」

「え、どうして?」

「だってこんなもの所詮遠近法の復習でしょ? やっぱり絵ってのは心象風景じゃなきゃ」

「そんな事ないわ。綺麗な景色を残す事も絵として大事よ」

「それなら写真でいいのよ」

 その言葉につい眉をひそめる。文ちゃんはとてもさっぱりとした性格の持ち主だ。

「でもカメラなんて高価なもの、そうそう持てるものじゃないもの」

 私の悔し紛れの反論に文ちゃんがケラケラと笑う。

「本当よね! 色鉛筆に画板とは違うもの。カメラ欲しいなんて言ったら父ちゃんにぶん殴られる!」

 文ちゃんの明るい笑い声に連られて笑う。

「ねえ、そろそろ戻ろう。先輩に怒られるわ」

「あ、本当! 急げ急げ」

 駆け足で学校へ戻る中、慌てて閉まった色鉛筆達が箱の中でカシャカシャと踊っていた。








「ズレてるねえ。ちゃんとパースを意識して」

「濃淡をもっとハッキリさせなさい。誤魔化そうとしてるのが見えているわ」

 美術部を終えた帰り道、先輩と先生の言葉がずっと頭の中でグルグル回っていた。今日は特別注意される事が多かった。部員達の前で延々、自分の絵に駄目出しされ続けていると、自分という存在まで否定されているような気になってくる。

 指摘に間違いは無いし、ありがたいと思っている。でも何だろう、この気持ちは。私はこんな思いをしてまで絵を描きたくなんて無いのに。

「もう……やめちゃおうっかなぁ……美術部」

 自分でも意識しないまま言葉から漏れた。

 どうせ画家になんてなれっこなんて無い。時代遅れの風景画ならなおさらだ。それならいっそ、ずっと一人ひっそりと描き続けてしまおうか。

 その発想は自分でも情けないと思いながらも、気楽な誘惑があった。

 その時、ザァッと髪をなびく風と共に、目の前へ桜の花びらが舞い込んだ。

「あ、この桜並木」

 すっかり、忘れていた。脚を止めて、ストンと草の上に腰を落とす。

 そこは私が一昨日からずっと描き続けていた場所だった。部活とは別に、文ちゃんにも内緒の私の場所だ。

 本当はこの絵も先輩や先生に見せた方が良いのかもしれない。だけど、それだけはどうしても躊躇われた。

 ここの桜だけははただ私の好きに描きたかった。技術的な事なんて抜きに、ただ筆の進むままに。

 桃色の鉛筆ををシャッ、シャッと紙の上でなぞらせていると、それだけで楽しく思える。そうして段々完成に近づいて行くとワクワクしてくる。

 二月だというのに色をつけはじめた桜を見ると、今年の春は随分と気が早く思える。

「それなら写真でいいのよ」

 文ちゃんの言葉をふと、思い出していた。


 終戦して十五年たった。幼かった私は戦争の記憶なんてものは無い。それでも母や父の話を聞くと、大変な時代だったと思う。父や母の年代の人は歯を食いしばって日本を立て直した。そして五年前、高度成長期なんて言ってどんどん街が活気づいていく。

 何だかそれと同時に人々まで変わっていってる気がする。車が増えて、工場が増えて、皆セカセカとせわしない。欧米諸国へ追いつけ追い越せとやっきになっているように思える。

 そんな世の中だから桜まで気を急いでしまったのだ。全く、誰しも少し落ち着くべきだ。

 ゆっくりだっていいじゃない。

 絵の中の桜へ一筆一筆語りかける。その時、隣でしたカシャ、という音にはっと振り向いた。

 カメラを構えた学ランの男子校生が居た。

「安部先輩?」

 以前、学校新聞を一緒に作った事がある。私は絵を描き、先輩は写真を撮った。クッキリした眼を持つ二枚目だ。同級生で憧れている人もいた。

 私の声が聞こえていないのか、先輩は未だファインダーから眼を離さなかった。

「日野くん」

「は、はい」

 カメラを構えた姿勢は変わらないで声をかけられた。上擦った声で返事をする。

「僕は昨日も一昨日も、君の隣で写真を撮っていたんだが今初めて気づいたのか?」

 しまった、と顔をしかめた。きっと”入っていた”時だ。まるで気づかなかった。

「すみません。集中していたもので……」

「いや、謝る事じゃない。だが、ものはついでだ。お願いがあるのだが」

「何ですか?」

「その場所で写真を撮っていいか?」

 その時初めて先輩はカメラから顔を離した。真っ直ぐ私を見つめる瞳は、変わらず様になっている。そう言えば大真面目な顔で妙な事を聞く人だった。

「構いませんよ。どきますね」

「いや、その必要は無い。少し後ろに立たせてもらうよ」

 そう言いながら先輩は私のすぐ後ろに立ってカメラを構えた。背後でするカシャ、カシャという音を聞きながら、桜に色を重ねる。

 息づかいが聞こえてきそうなくらい近い存在感に、何だか妙に落ち着かなかった。

 気を紛らわしたくて話題を探した。

「学校新聞の時も使ってましたけど、そのカメラは先輩のですか?」

「ああ。叔父から誕生日祝いに貰った」

「カメラをですか。豪胆な叔父様ですね」

 先輩の「フッ」と鼻で笑った音が聞こえた。何か得意げに笑う先輩の顔が浮かんだ。

「いや、君。僕の叔父は本当に変人でね。東京で記者などやっているのだが、僕が写真に興味があると言ったらね、自分が持っているキャノンのフレックスをまだ中学生の僕に突然渡して”ヒロ坊、これから毎日写真を撮って勉強しろ。高校を卒業したら俺の所へ来い。専属カメラマンにしてやる”と、こうだよ。毎月叔父に写真を送っているが、電話越しに構図が悪いだの、テーマが無いだの叱責されるのだから参るよ」

「面白い方ですね」

「端で聞く分にはね。身内に居ては困るよ」

 先輩はそう言いながら私の背後から離れた。もう写真は撮れたのだろう。

 いつのまにか、胸の鼓動がドキドキと速まっていた。

「君はいつもここで描いているのかい?」

 先輩が何気なく聞いた。私はそれだけでも驚いて、色鉛筆を落としそうになる。

「はい。ここから見る桜並木の風景が好きなので」

 先輩はまたも私のすぐ側に立って「ふぅん」と頷いていた。

「確かにここからの眺めは絶景だ。もし良ければスケッチブックを拝見してもいいかな」

「それは構いませんが……面白いものじゃないですよ、風景画なんて……」

 未だ文ちゃんの言葉が引っかかっていた。こんな拗ねた言い方をしてしまったのが恥ずかしかった。

「僕は風景画が好きだ」

 先輩は意にせず答えた。パラパラと、スケッチブックを見つめる顔は真剣だった。

「柔らかいタッチだ。見ていて安らぐ」

 そんな事を大真面目な顔で言うのだ。耳が熱くなっていくのを感じた。

 一枚、一枚、先輩は褒めてくれた。美術部では技術的な批評ばかりだったので、新鮮で嬉しかった。

 桜の絵を見て先輩は微笑を浮かべた。

「桜の絵ばかりだな」

「ええ。桜、好きですから。早く咲いて欲しいですね」

 私の言葉に先輩が少し眉をひそめた。目の前のスケッチブックをもう一度見た後、目の前の桜を見た。

「桜はもう咲いているよ」

 先輩の言葉に自分でも首をひねった。私は何を言っているのだろう。開花したてとは言え、桜の花はもう咲いている。今だってずっと花の色を塗っていた。

 私の頓珍漢な言葉に、先輩は笑ったり、いぶかしんだりしなかった。

 ただ、真面目な顔でスケッチブックを見つめ、合点がいったように「そうか」と呟いた。

「君の桜はまだ咲いていないのだな」

 そう言いながらスケッチブックを手渡される。

「花が咲いたらもう一度見せてくれ」

 スケッチブックを受け取りながら先輩の言葉を反芻する。一体どういう事なのかさっぱり分からない。

 私の困惑などよそに先輩がカメラを仕舞いながら言った。

「まだ少し時間はあるかな? 少し商店街の方へ行かないか」



 桜並木から商店街へ向かう途中、私はドキドキっし放しだった。こんな所同級生に見られたらどうしよう。絶対にからかわれる。いや、それよりも先生に見つかったら大目玉だ。

「先輩は、叔父さんの言う通り卒業後は東京へ?」

 頭一つ高い先輩へ、見上げるように聞いた。先輩は前を見つめながら言った。

「そのつもりだよ」

「東京へ行く事に……不安だったりしませんか?」

「もちろん不安はあるよ。父と母からも反対された。まさか叔父の言葉を本気で受け取っているとは思わなかったのだろうね。それでもやはり僕は東京へ行きたいのだよ」

「私は……」

 言い掛けると、初めて先輩がこちらを向いた。

「私はこの焼津の町が好きです」

「いや誤解しないでくれ。僕だってこの町が嫌いな訳じゃない」

 私は俯いてしまった。先輩が眩しかった。夢を持ち、将来を考えている先輩が。私はずっと、のほほんと絵を描いてるだけだ。それが何だか恥ずかしくて、変な事を言ってしまうのだ。

「やあ、ここだ」

 先輩は肉屋の前に着くと止まった。私の言葉を気にしている素振りはなかった。

「ここのコロッケが絶品なんだ。絵を見せてくれたお礼に奢ろう」

「えっ」と思わず声が出た。

「か、買い食いですか?」

 そんな事をした事も、しようとすら思った事がなかった。

「嫌かな?」

「先生に見つかったら大変ですよ」

 私の言葉に先輩は意地悪くニヤッと笑ってみせ、肉屋の店主にコロッケを二つ注文した。

 そうしてこちらを振り向くと少し大きな声を出した。

「僕は東京へ行く」

 余りの唐突な言葉に面を食らった。先輩は続けた。

「東京へ行く。そんな冒険の前に、買い食い等という些末な事に躊躇していてはいかんのだ。目標には大なり小なり壁がある。それは案外ヒョイと乗り越えられたり、思ったより苦心する。だがその壁の向こうにはきっと何かがある。そして、その何かは」

 そこまで言う店の人からコロッケを受け取り。

「食べた者しか味わえない」

 かじりながら、湯気が登ったコロッケを差し出した。

 私はたまらずそれを受け取り、一口かじった。

 サクッとした衣の感触のすぐ後に、じんわりとした肉の温かみと旨みが口に広げる。

「おいひぃです」

 私の言葉に先輩が満足そうに頷く。

「買い食い程コロッケを美味く食べる方法は無い。まず家のコロッケ、これはどうやっても肉屋のコロッケには叶わない。餅は餅屋、コロッケは肉屋だ。しかし肉屋のコロッケも家に持ち帰っている間に冷めてしまう。これは最早家のコロッケより数段劣る。蕎麦に入れるという手がある。なるほど、あれは美味い。だがやはり邪道だ。コロッケというのはサクサクとした衣の歯応えが……」

 この時ようやく先輩は私が声を抑え笑っていることに気付いた。

 先輩はやや頬を赤くして照れたように咳払いをした。

「あー、コロッケ演説はまたにしよう」

 それがトドメだった。私は声を上げて笑った。先輩も笑いながらコロッケをかじった。

 こんなに美味しいコロッケを食べたのは初めてだった。






 先輩は「絵、楽しみにしているよ」と言うと颯爽と去っていった。

「ただいま」

「お帰り、遅かったね」

 家に返ると母が夕飯の準備をしていた。帰宅するとすぐ眼に入るエプロンの後ろ姿は、毎日の事ながら、家に帰ってきたという安堵がある。

「絵描いてたから……。何か手伝うことある?」

「そうねえ……じゃあ、お芋の皮を剥いてくれる?」

 水にさらしてあるジャガイモを手に取る。「もしかして」という思いがよぎった。

「ねえ、今日コロッケじゃないよね?」

「え、ポテトサラダにしようかと思ってたけど。コロッケが良かった?」

「ううん、違うならいい」

 母が眉をひそめ、首をひねった。

「ねえお母さん」

「何?」

「お母さん、東京に行った事ある?」

 私の言葉が意外だったのか、何か物言いたげに私の顔をしげしげと眺めた。

「あるよ。兄さん……あんたの叔父さんが戦死したのは知ってる?」

「うん」

「赤紙が来た時ね、東京召集だったから母ちゃんと三人で兄さんをお見送りしたんだよ。その時三人でちょっとだけ観光したよ」

「そうなんだ。やっぱり東京ってすごかった?」

「うーん、戦時中だったからねえ。人はすごくいっぱい居たよ。あんた、東京へ行きたいの?」

 母から聞かれても自分の本心は分からなかった。東京へ行きたい、と言ってもピンと来ない。

「別にそういう訳じゃないけど……将来どうしようかなぁ、て考えて」

「良い縁談でもあればね」

 その言葉を聞いて、脳裏に安部先輩の顔が浮かんだ。

 ああ、もう。私はこんなに浮ついた性格だったのだろうか。馬鹿馬鹿しい、頭を振って脳裏の映像をかき消す。

「まあ就職するなり、嫁ぐなり何でも良いけどね。あんたのやりたいようにして欲しいね。お母さんの時代は、そういうの無かったから」

「お母さん……」

 何か言う前にガラガラと扉の開く音がした。

「おー帰ったぞ! 飯!」

 工場から帰って来た父だった。

 玄関先で遊んでいた弟二人も同時に家に飛び込んでくる。

「よっし、早い所作っちゃおう」

 母が活発な声で言った。


 その日、部活は休みだというのに私は美術室に向かっていた。休みの日だろうと先生はいつも美術室に居る。

「私部活辞めます」

 たったの七文字。言いに行くんだ。朝からずっとそれだけを考えいた。もう私は好きに生きると決めた。辛い思いをしてまでなんて描きたくない。どうせ画家になる訳じゃないんだ。絶対になりたい、なんて熱情も無い。なら、もうやめよう。こんな気持ちで描くのは本気で描いている人達にだって失礼だ。

 美術室の扉の前に立つと、動悸がした。辞めますなんて言ったら先生は怒るだろうか。先生は髪の長い美人だけど、怒ると怖い。

 コンコン、とノック。

「失礼します」

「どうぞ」

 ソロソロと、扉を開ける。先生が教卓に座って珈琲を飲んでいた。

「あら、日野さん。どうしたの? 今日休みよ」

「はい、分かっています。今日は……あ、あのー……ですね……」

 言おう。言うんだ。そう思っても喉がカラカラと乾いて言葉が上手く出て来ない。

 そんな私を見て、先生が切れ長の眼を少し細めて笑った。

「もしかして……部活辞めたくなっちゃった?」

 ドキッ! という音がした。あんまりに驚いたので、つい「どうして分かったんですか」と聞いてしまった。

 先生は微笑を浮かべながらも少しだけ眉をひそめた。

「昨日、ちょっと言い過ぎちゃったものね。あなた、ブスッってむくれた顔してたもの」

 カッ、と顔が熱くなるのを感じた。注意されてむくれていただなんて子供みたい。恥ずかしくて今すぐここから逃げ出したくなった。

「大丈夫大丈夫。誉められたら嬉しいし、貶されたら悔しい。指摘が正しいとか間違っているとかそんなの関係無いもんね。全く、皆一緒だわ」

 クスクスと笑いながら言う先生の言葉が少し引っかかった。

「皆って……今までも辞めたいって言う人居たのですか?」

「当たり前よ。卒業した皐月さん、覚えてる?」

「はい」

 それは私が一年の時、三年生だった先輩だ。絵が、特に人物画がとても上手で、先輩の絵を見る度こんな風に描けたら楽しいだろうなぁ、と思っていた。

「あの子なんて在学中何度も辞めたい、って言う子でね。一度、描いてる途中突然立ち上がって「辞めます!」て叫んで筆真っ二つに折っちゃったのよ」

 それはにわかに信じられない話だった。私の持つ皐月先輩のイメージは知的で大人しい人だった。

 私が眼を丸くして驚くと、先生が笑いながら「他の人には内緒よ」と言った。

「道具を壊した事については怒ったけど、嫌になる時なんて誰しもあるのよ」

 そうなんだ、と思いながらも未だくすぶった気持ちは消えなかった。だって先輩はそれでも挫けない程、絵が好きな人だったって事だ。でも……私は……。

 シン、と沈黙の中、先生が珈琲をすする音がした。

「ねえ、一年生の時の絵ってどうしてる?」

 出し抜けに先生が聞いた。

「えっと……確か殆ど捨ててしまっています」

 私は絵を描くのが好きだが、昔の絵を見直す習慣はなかった。下手だった時の絵なんて見たくもない。

「入部してすぐ描いてもらった絵、提出させたでしょ。あれ見てみない?」

「えっ! いいですいいです! 見たくないです!」

 慌てて両手を振った。今、自分の下手な絵なんて見たら余計落ち込んでしまう気がした。

「いいからいいから」

 先生は我関せずと言った調子で、裏の道具室へ入って行く。私は落ち込むのを通り越して、少し腹立たしさすら感じた。一体どうして先生はそんな事をするのか分からない。

「あったあった。これね」

「えっ! うそっ!」

 見た瞬間驚きの余り素っ頓狂な声が出た。

 下手だ下手だと思っていたが……これは予想以上に酷い。だって、だってこれではまるで小学生の落書きだ。それでも間違いなくそれは記憶にもある私の絵だった。

「ね? あなた、この一年でとっても上手のなったのよ」

 その言葉右から左に流れた。私は自分の絵を見ながらイライラしていた。どうしてこの通行人は宙に浮かんでいるんだ。何故こっちの木はこんなにも大きいのに、こっちの家は歪に小さいんだ。

 当時「下手だ」という事しか分からなかった事が「何故下手か」今は分かる。ああ、もう一度この絵を描き直したい。そしてもっともっと。

 先生が絵を持ちながら「フフフッ」と笑った。

「分かるわ。あ、なーんだ私上手くなってるって思うわよね。そしたら次に思う事って私ってもっと上手くなれるかな、よね」

 恥ずかしい程に図星だった。ついさっきまでウジウジしてた癖に、今は描きたい意欲が沸いて来ている。

「ねえ、日野さん」

 急に呼ばれて顔を上げる。

「絵を描いてる人達皆が画家になれる訳じゃないわ。勿論あなたの年齢ならまだまだ目指せる事だけど……そんなのは他人事過ぎるわよね。だけど、やっぱり一生懸命だから楽しいし、楽しいから一生懸命なのよ。遊びだからって、いい加減に描く権利はあっても、遊びだからいい加減に描かなきゃいけない義務なんて無いのよ」

 パシン! と頭の中でシャッターを切る音がした。今、確かに何かが私のフィルムに焼き付いた。

 不思議な気持ちだ。目の前の曇りが全部無くなった。レンズの汚れは全て拭えたのだ。

「あ、あの先生っ! もう一つご相談があります!」

 無意識に突然大きな声が出た。先生も少しビックリしている。

「な、何かしら?」

「見て貰いたい絵があるんですけど……」







 私はあれから桜並木を描き続けた。毎日毎日。あの場所に行って、描き続けた。その都度先生に見せて直していた。

 一週間以上経ってもまだ私は描いていた。明日の卒業式の後も、ずっと描いているつもりだった。

 スケッチブックにはもうページが殆ど残っていない。桜はすっかりもう満開だ。色鉛筆も随分とすり減っている。

 楽しいな。この桜並木はいつまで描いても飽きない。

 背後でした、カシャッ! という音に飛び上がる程驚く。

「あ、安倍先輩!」

「ああ、気にせずそのまま」

 先輩はファインダーからこちらを覗いたまま言った。気にせず等と言われても、そうそうそんな器用な事は出来ない。

 今まで写真を撮られた事など集合写真でしか無いのだ。カチカチに強ばってしまっていた。

「先輩、どうしたのですか?」

「明日の電車で東京へ発つから。ここももう見納めだと思ってね」

 そう言うと私のスケッチブックをのぞき込んだ。その表情は少し驚いていた。

「君はずっとこの桜並木を描いているのか? あれからずっと?」

「ええ、まあ」

 苦笑いが出た。自分でも馬鹿みたいだな、そう思う。

「私、先輩の東京へ行くって話を聞いて……すごいなぁ、て思ったんです。自分は何もしてこなかった人間ですから……」

「そんな事」

 先輩が少し怒ったような顔で言うのを無理矢理遮る。

「でも、何となく自分のしていきたい事が分かったんです。私、絵好きですし……。あの、先輩」

 描きかけのスケッチブックを手に取った。先輩に見せようと開いた時、風が強く吹いた。

「桜の花は、咲きました」

 春一番に吹かれたスケッチブックのページが、パラパラ漫画のようにめくれていく。

 風に吹かれた桜から花びらが無数に舞っていた。

 先輩はボォッと私を見つめ、ハッと我に返ってカメラを構えた。

「と、撮らないでください!」

 写真を撮られるのはどうやっても苦手だ。先輩が「ゴメンゴメン」と笑った。

「とても良い写真が撮れた。僕はいつかこの焼津の町に戻ってくるよ」

「はい。私、この町で待っています」

「うん。行ってくる」

 先輩が力強くうなづいた。


 


 先輩は東京へ行ってしまった。見送りに行こうかとも思ったが、親御さん達に変に誤解されても困るのでやめた。

「あーあ、安部先輩卒業しちゃったなぁ」

 二人で並んでスケッチしてると、文ちゃんがぼやいた。その言葉に驚いて聞く。

「文ちゃん、安部先輩の事好きだったの?」

「そりゃ私達のアイドルだったもん。恋の終わりって切ないわぁ」

 大きく「はあ」とため息をつかれると、その様子は少しおかしかった。

 私の方は恋だったのか、それすらも良く分からない。ただ、一つだけ。

「文ちゃん」

 私の問いかけに文ちゃんはあまり興味無さそうに「んー」と答えた。

「桜ってすぐに散っちゃうね」

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サクラ・スケッチ カエデ @kaede_mlp

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