バイヒューマン・シンドローム

「や、やめろっ」

「あなた、バイヒューマン、でしょ? どうせ、もう何百日と生きられないのだから、ここで殺されたって大差ないじゃない。むしろ、私のために消されることをありがたく思うべきよ」

 表通りに立ち並ぶビル群の隙間、人通りのない路地裏でなさけない悲鳴を上げる俺は、生殺与奪の権利をちらつかせる彼女の道楽に竦み上がった。

「ば、馬鹿なこと、言ってんじゃ――ひっ」

「あなた、今の状況を分かってて反抗しようだなんて、大したタマね? それとも、ただの命知らずなのかしら? ねぇ……。ほら、痛いでしょ?」

「いっ――」

 鋭利な切っ先が俺の首筋を撫でる。

 鋭い痛みが喉元に走って、そこから命の雫が一筋流れ出す。生暖かい、赤だ。

「いつ見てもいいわね、この色。人間と違って、凄く赤い。そう、こんな色なのよ、あなたの血って。あたしにも、こんな色が流れているの。とても人間らしくて濃いというのに、どこまでいっても偽物の色。本物よりも本物らしくありたいと願う、私たちの強い欲望が混ざった汚い色」

 女が切っ先についた血を舐めた。月に照らされた女の顔は恍惚としていて、俺と同い年くらいだろうに、どこか艶めかしさすら感じる。こんな場面だというのに、柄にもなく俺は興奮してしまう。鳥肌が立ってどこまでも寒気がするのに、心臓が激しく脈を打つ。この女に、魂を鷲掴みにされているような息苦しさが切ない。苦しい。

 彼女が俺に興味を持って接してくれていることに、雄の部分が刺激される。

 こんな美女に、俺はこれから殺されるのだ。

 生きていたいと願うくせに、この女に殺されたいと望んでしまう。こんな二律背反を胸の中に抱きながら、俺は震える喉を動かす。

「人間を、殺したことが、あるのか……?」

 本当に知りたいわけではない。延命するために――彼女の興味を引き続けて生き存えるためだけの質問。

 最後に彼女を知って散っていきたいという男の性。

 彼女を知りたい。

 もっと、こうして彼女と戯れていたい。

 一瞬でも長く、闇よりも黒く美しい女の闇に引き込まれていたい。

「人間を殺したら犯罪になっちゃうでしょ? そんなことはしないわよ」

「じゃ、じゃあ、俺たちを殺したことは、あるのか……?」

「あるわ」

 何の躊躇いもなく、女は淡々とそう言った。やましいことなど何もない、という口振りから滲み出るのは狂気と好奇心だ。

 この女からは道徳や倫理を感じない。人ではない、からなのか。それとも、俺と同じ存在だからなのか。だとしたら俺も一歩間違えればこうなっていたのだろうか。

「もう片手で収まりきらないくらい、殺しているかしらね。数なんて数えていないし、消えた存在のことなんて、覚えていたって仕方ないでしょう? そういうこと」

「そう……か」

「うん、そう」

 ああ、駄目だ、早く引き出さないと。繋げないと。会話を。興味を。でないと、この命が途絶えてしまう。この女は間違いなくやる。殺す。この場で俺を消すつもりだ。

 嫌だ。死にたくない。怖い。一秒でも長く、この張り詰めた闇の中で息をしていたい。そのためには、俺自身が彼女の興味の対象であり続けなければならない。でないと、俺という存在が削られていく。

 終わりが迫ってくる。

 ない頭を必死に回転させて、声を絞り出そうとする。でも、どうすればいい? こんな常軌を逸した女は、何に興味を持つ? 駄目だ、分からない。今日一日を共に過ごしたというのに、彼女のことを何一つ理解できていなかったのだ。今さらながらに思い知る。

 圧倒的な美貌で塗り固めて本性を現さず、空気のように掴み所のない彼女は、ここにきて本性を出してきたのだ。知っているはずの顔に、知らない表情が宿っていくのを俺はただただ見ていることしかできない。

 表通りを走る車の音。雑踏の喧噪。路上バンドが織りなす重低音のウーハー。誰かの話し声。俺と彼女の隙間を埋めるのはどこにでもありふれたつまらない振動の連なりだけだ。

 面白味のない男の末路は決まっている。興味がなくなれば、捨てられるだけ。

 俺にはもう、逃げ場がない。

「あら? もう余興はお終いかしら? つまらない男。まあ、そろそろ時間も時間だし、さっさと始めてしまいましょう」

「ま、待ってくれ、まだ――」

「もう、手遅れよ」

「まだ、俺は生きて――」

「私、我儘をこねる男って嫌いなの」

 俺の願望は、彼女に届かない。

 互いに相手の欲望を汲み取らない。だから、一方通行になってしまう。もどかしくてたまらない。分かっているくせに、どうしてだ。

 どうしてこんな結末になってしまうんだ。

「本物のあなたは、一体どういう苦しみを受けるのかしらね? 楽しみだわ。私には想像できないほどの苦痛なんでしょうね……。ふふ、ふふふふふ……」

 彼女が愉快に微笑む。三日月を描く表情がゆらゆらと揺れる。その笑顔に引き込まれてしまう。

 この身を、彼女に委ねてしまいそうになる。

「や、やめろ。俺はまだ消えたくないっ」

 俺は、俺の欲望に抗う。彼女の思うままめちゃくちゃにされたい欲望に、生存の意志をぶつけて相殺し続ける。湯水のように湧いてくる自己破滅欲を、必死に押さえつける。

 そんな努力を、彼女が水泡に帰す。

「あなたは私に選ばれてしまった。これはどうしようもないわ。それに、言ったでしょ? 手遅れなのよ。このままあなたは消えていく。短い命だったのかもしれないけれど、私の満足のために死んでいくの。でも、悲しいことじゃないわ。だって、最後にあなたの瞳に映るのは私なのだから――っ!」

「ぐっ――ひゅあ」

 そうして、俺の願いは儚く無惨に散っていく。

 彼女はその切っ先を器用に振い、俺の喉笛を切り裂いた。

 声にならない悲鳴が闇夜の中に生まれて、消えた。

「ああ、綺麗、綺麗だわ。吹き出している。命の灯火が溢れてくる……。どこまでも偽物なくせに本物を求める暖かさが心地いいわ。ふふ、ふふふ……」

 俺の生き血で染まった彼女が肩を揺らして歓喜する。こうなってしまえば、もう止められない。術がない。彼女の闇の中に溶けていくしかない。

 蜜のように甘く、柔らかく、全てを包み込んで隠してしまう抱擁的な安穏。俺の身体に触れる彼女の掌から伝わってくる体温が、心地良い。

 早く俺を楽にしてくれ。

「ひゅ…………ひゅぅ……」

 口だけを動かして懇願した。苦しい。痛い。辛い。早く、殺せ。

 けれど、彼女は否定する。俺を見下ろす笑みが、安楽を許さない。

「うふふ……もう、ここには私しかいない。あなたをどう料理しようが誰も咎めない。あなたは誰にも見つけられないまま消えていく。だけどそれはあまりに可哀想だから、慈悲深い私があなたの最後をゆっくり看取ってあげるわ。だから、安心して痛覚の海に溺れながら消えてしまいなさい」

 その言葉に俺は「早くしろ」と言いたかった。「やめてくれ」と叫びたかった。けれど、どの言葉も声にならないまま、俺の中で無駄に積み重なっていく。

 鈍く光る刃の側面に、生気を失って血みどろになった俺の顔が写っている。

 そういえば、あいつはどうしているのだろう。今頃、オリジナルの俺は目の前で狂乱する彼女のオリジナルと仲睦まじく楽しくデートでもしているのだろうか。想像すると腸が煮えくり返りそうだ。俺はこんな痛みを経験しながらいなくなるというのに、あいつは未だにこんな美女とこの一夜を楽しんでいるのか。

 だったら俺と同じように、あいつにも天罰が下るべきだ。だってそうだろう。こんなにも美しい闇に手を伸ばしたのだから、同じ闇を知るべきだ。同じ痛みを知るべきだ。でないと、俺がたった数日でもこの世界に存在意義がないじゃないか。あいつだけがのほほんと生きていくだなんて、それはあまりにも俺にとって残酷すぎる仕打ちじゃないか。

 霞んでいく瞳を必死に見開いて、夜空を見上げる。こんな都会だというのに、星の煌めきはネオンに負けじと輝いている。消えてしまう間際の、最後の一瞬のような強い光。

 そんな星をあざ笑うかのように圧倒的な存在感を放つ月が、ビルとビルの隙間に浮かんでいる。白をふんだんに含ませたライトイエロー。

 月が、綺麗だ。

「それじゃ、さようなら」

 俺と月の間に彼女の顔が浮かびあがった。綺麗な肌。吸い込まれるような赤い瞳。狂気を宿した表情。漆黒の髪が俺の頬を撫でる。

 それが、俺の視界が世界を映した最後だった。

 鋭利な切っ先が眼球を貫いて、俺を深い暗闇へと誘う。


 この世界に生まれて七日目のことだった。

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