第三の手記 一

いったい、何がいけなかったのでしょうか。

私自身の問題もさることながら、それ以外の外的要因のなんて多いことでしょう。

これまで私の人生を淡々と紹介してきましたが、こうして振り返ってみると、ある二つの要因があることに気付きました。


まず一つは、生まれた時代。

私が生まれた一九八〇年代後半というのは、ちょうどバブル経済が崩壊した直後の、以降現在まで続く悪夢の始まりの時期でした。

この後の約二十年間強も続く不景気を、専門家の人達は「失われた二十年」と呼んでいるそうです。

この「失われた」という言い回しは、いったい誰が最初に言い始めたのでしょうか。

叶うことならば、その人を張り倒してやりたい。それくらいに、私はこの表現が嫌いでした。

「失われた」のではありません。先人達が「消費した」のです。

自分は経済学部の出身ですが、先述したように碌な大学生活を送っていませんので本当のところは知りませんし、知ろうとも思いませんが、バブル経済というのは、感覚的に言えば借金と同じように「未来から前借して得た好景気」なのではないかと、私は考えています。

そんな不景気が今もなお続いていますので、私と同じくらいの世代は皆、この国の好景気を知らずして育ちました。


この先人達や私達よりも一つか二つ前の世代の者達が浪費した二十年は、以後も私の世代に大きな影響を与えました。


中学生の頃から「一人一人の個性を大切に」という名目の下、あの忌々しき「ゆとり教育」が実施され、以降は「ゆとり世代」の一員とみなされ、ただそれだけの理由で謂われもない風評被害を蒙り、過小評価されるようになりました。

事実、就職活動で面接まで進めた際も、面接担当者の方が

「あぁ、ゆとり世代ね」

と言った後、目付きと態度が急変したことがあったくらいです。

高校三年生の後期、いよいよ受験シーズン到来というタイミングで、「履修漏れ」などというわけのわからない疑惑がかかり、危うく受験出来なくなるところでした。

その後私は一浪したので時期が少々ズレるのですが、現役で大学に進学した同世代の者達が就職活動で人生の転機を迎えている中、リーマンショックによって第二次世界恐慌状態にまで陥り、地獄のような就職氷河期時代に突入しました。

加えてこの頃から、過酷な労働条件とそれに見合わない低賃金で社員(となった若者)を酷使する、通称「ブラック企業」が問題となり、まるでトドメと言わんばかりに東日本大震災が起こり、二次災害で原発事故が発生し、いよいよをもってこの国は信頼を失いました。


当時これらの外的要因を気にするだけの余裕はなかったのですが、改めて考えるとこの影響は計り知れないものだったように思います。

まるで神様か誰かが、私を社会に出さないように仕向けていたのではないかとさえ思うくらいに、私の生まれた時代は不遇そのものでした。


そしてもう一つが、「普通」です。

私はこの言葉に、ずっと苦しめられてきました。

普通とは、いったい何なのでしょうか。職業の一種でしょうか。

世間一般の人達はやたらとこの「普通」を尊重し、私の両親もよく「普通になれ」と私に言いましたが、いったいどこに普通の実態があるのか、ついぞわからず仕舞いのままでした。

いくら考えてもわからないのは、皆様が仰る通り私が普通ではない側の「異常」な人間だからなのか。

私は子供の頃から「普通じゃない側」として認識されていました。そのせいでよくからかわれ、時に軽度のいじめを受けたりもしました。

父も母も、普通が大好きな普通信者側の人間だったので、私がいじめを受けていることを話しても

「普通じゃないお前が悪い」

「普通にしていればそんなことにはならない」

と言って、何故か被害者の私が怒られるだけでした。

その「普通」がわからないから、困り苦しんでいるというのに。


ところでずっと気になっていたのですが、私を普通じゃないと仰る人達は、誰も「何が普通なのか」ということに関しては一切口にしませんでしたが、あれは何故なのでしょうか。

まるで暗黙の了解のような、ある種タブーであるかのごとく一切語られることがなく、私だけがまったく以って理解できていない。

「世の中」という謎の組織は、とにかく「異常」が大嫌いです。

一度「異常」と認識された者は、事実がどうであったかは関係なく、徹底的に排除にかかります。私もその「わけもわからず排除される側」の人間でした。

この国の掲げる民主主義は、民主主義とは名ばかりの多数派勝利の社会です。

有利ではありません。勝利です。

少数派は淘汰および駆逐の対象なのです。

もちろん「普通」の方が、数が多いのは言うまでもありません。


しかし……私は本当に「異常」だったのでしょうか。

幾度も疑問に思い、異常なりに考えてみた結果、ある思考に行き着きました。

普通とは、ある種の都市伝説なのではなかろうか。

自分が普通側の人間だと信じるかどうかは、自分次第なのではないか。

そう考えた時、太宰先生の作品にあったある言葉を思い出しました。


「世間とは、いったい何の事でしょう。人間の複数でしょうか。

どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。

世間というものは、個人ではなかろうか。」


まったく以って、その通りだと思います。

同様のことが、普通にもあてはまるのではないか。


「お前は普通じゃない」

いいえ、あなたが私と違うだけです。

「普通はそんなことしない」

いいえ、あなたが私をお認めにならないだけです。

「普通になれ!さもないと苦労するぞ!」

いいえ、苦しいのはあなたが私を拒むからです。

「お前の為に言っているんだ!」

嘘だ!自分が言うことに従わせたいだけのくせに!


最後は脱線してしまいましたが、要するに人はみな臆病なのです。

さびしがり屋が心の安定のために宗教にド嵌りしてしまうのと、まったく同じ理論なのです。

そう考えると、私が今まで強要され苦しめられてきたものは、なんと滑稽なものだったのか。

普通、常識、一般論。

なぜそのような漠然としたものに固執するのか、さっぱりわかりません。

十人いれば十通りの、自らが普通だとか常識だとか信じて疑わないものがあるのに。

そもそも国や人種が違えばまったく異なるのであれば、自分の常識が他人にも通用するのが当然であるなどと考えること自体が「異常」であり、そんなことはあり得ないと考える私の方がむしろ「普通」なのではないか。


……いえ、ごめんなさい。調子に乗りました。

私は異常なのです。普通ではないのです。

私にとっての普通は、みなさんにとっての異常なのです。

多数派勝利の社会ですので、私がどんなに騒いだところで敗北確定なのです。

そういうわけで、私以外の世間一般の方々の仰る常識とか普通とか呼ばれている、非常に曖昧で不明瞭な何かが、私には理解できないのでした。

そんな気分屋な物差しに縋れることが、ある意味羨ましくもありました。

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