第二の手記

半人前未満。別に謙遜して言ったのではありません。

事実自分がその通りであるだけです。過小評価でもなんでもありません。


私は、何をするにしても、中途半端そのものでした。


これまでの人生で、何かを「やり遂げる」ということを経験したことがありません。

もっと正確にいえば、「自らの意志で、何かをやり遂げた」という記憶がまったくありません。

何においても、すべて中途半端に終わりました。


たとえば、小学生の頃から習っていた剣道。

元々運動が苦手で体力のない私を見かねた父が、半ば無理矢理道場に通わせたのが始まりだったと記憶しています。

自分の意志で始めたものではないものの、月謝を払ってもらい、道着や防具まで買い揃えてもらった手前、途中で辞めるわけにもいかず、かといって特にやる気があるわけではないので、ただダラダラと続けるのみで、結局何の成果も出せることなく「これ以上続けても無意味」と判断されて終わりました。

一応それなりの段位も取得できましたが、それ以外に得たものは何一つなく、またそれが以降何かの形で活かされたようなことも一度としてなかったため、結論として「成果なし」と自己評価しています。

強いて言うなら、「継続は力なり、なんてウソ」ということがわかったくらいです。


もっとわかりやすい例で言えば、高校、大学の二回経験した受験があるかと思います。

高校受験の際、私の両親は当初地元でも有名な公立高校へ進学させたかったそうです。特にこだわりのなかった私は、その高校への進学を目指して勉強していましたが、いまいちやる気に欠けていたのでしょう、成績はあまり伸びませんでした。

当然その後も実力が到達するはずもなく、結局当時の成績で安全圏内の高校を受験し、そのままそこに進学しました。一応そこも公立校であり、偏差値も当時はまぁそれなりにあった方だったので、両親も妥協して許してくれました。

その三年後、大学受験の時は少し事情が違いました。というのも、中学三年生の頃から所謂「反抗期」が訪れたのもあり、あまり親の言うことを聞かずに自力で考えて行動することに憧れを抱くようになりました。

これが、悲劇の始まりでした。

高校三年生の当時、初めて自分で心の底から「行きたい!」と思える大学と出逢いました。

両親は公立の大学へ進学することを望んでおり、私が行きたかったのは私立の大学でしたので、当然反対されました。

学費や実力、万が一のことを考えれば、親の反対は尤もだったと思います。それを押し切り、私は受験しました。

その結果、私は一浪して、落ちました。現役時には滑り止めですら見事に滑走する始末です。

両親はひどく怒りました。

「だから言うことを聞いておけばよかったのだ」

この頃から再三言われるようになりましたが、今でもそれは否定できます。

仮に親の言う通りにしたところで、辛うじて滑り止めに合格する程度がやっとだったであろうことは、高校受験の時を思えば容易に想像がつきます。

いずれにせよ、それまで自分の意志で何かをやり遂げたことのない私には、難関私立大学への進学など、高望みが過ぎる話なのでした。

今にして思うのですが、私は本当にその大学へ行きたかったのではなく、ただ自分で決めた道を進んでみたくて、どうせなら難しい道を歩く方が格好いいだろうと、そんな茨の道をすすんでいる(かのように錯覚している)自分を想像して酔っているだけだったのだと、正直に言えます。

完全に、受験を嘗めていました。そしてこの、自分で選んだ道でさえ満足にやり切るが出来なかったという苦い経験は、以降の私にとっては致命傷となったのでした。


一浪して受かった滑り止めに仕方なく入学して過ごした大学生活は、まさに無意味そのものでした。

今更サークルに入って大勢とつるむ気にもなれず、基本的に一人で行動していました。そこだけは、今でも正しかったと思います。

しかし、大学に入って何かをよろうという計画もなかったので、四年間ただただ独りで遊び呆け続け、無駄な時間を消費していました。

やがて就職活動の時期が訪れましたが、特にやりたいこともない私が「何かつきたい職業」なんて見つけられるわけもなく、結局その後一度も正社員というものを経験することなく終わりました。

案の定、就活も中途半端な結果に終わりましたが、この時は一つだけ収穫がありました。

人は仕事をしなければ、否、私にとっては労働をしなければ、お給料をもらえません。

お給料がもらえなければ、生きるのに必要な衣食住が出来ません。

つまり、人はみな生きるために仕方なく労働を強いられているのだとわかりました。

それでも、親の手前、そのまま無職でいるわけにはいきません。

私は親元を離れることがついぞ出来ませんでしたが、ある時期だけ、企業で働いていたことがあります。

私のような大学を卒業した後も正社員になれず、所謂フリーターとなりながら求職している若者を支援しようと、国が助成金を出して就職をバックアップする、要するに国直属の紹介予定派遣制度があったので、自分のような者にはぴったりかもしれないという浅はかな考えで応募しました。

説明会に参加し、何回かの研修を受けた後、比較的早く派遣先の企業が見つかりましたので、六か月の試用期間が設けられた実習生として働くこととなりました。

その会社は都内にある、まだ出来て数年程のベンチャー企業でした。そこの営業事務として主にデータの入力や資料作成、電話応対や来客対応など、はやく仕事を覚えようと頑張っていました。

その甲斐あってか、自分で言うのも難ですが私は他の実習生の中でも優秀な方だったと思います。

事実私は、他の実習生が任されていない仕事にも携わらせてもらいましたし、当時の私の指導者である先輩社員にも「この試用期間を終えた後は、ぜひうちで働いてほしい」という言葉をもらったりもしました。その時の自分の浮かれようと言ったら、嬉しすぎて親に報告してしまったくらいです。

しかし六ヶ月後、私はその企業から去りました。

試用期間も残すところあと一か月を切った頃、私は今後について指導者の方と話し合うことになりました。

正直なところ、正社員化を前提とした実習でしたので正社員になるのが順当だとは思いましたが、なんせこのご時世ですので万が一正社員になれなくても、せめて契約社員くらいならなれるのではないか、そんなことを期待していました。

しかし、私に言い渡された言葉は次のようなものでした。


「来月からは、アルバイトとしてうちに来てほしい」


一瞬、何を言われているのか理解できませんでした。

確かにこの制度は、試用期間を終えたら正社員に採用されることを約束するものではありません。そこは想定の範囲内です。

以降のことは「双方の合意」により決定するものであることは予め説明されていたし、私もちゃんと覚えていました。

しかし、それは能力的な評価に基づいたものだろうとばかり考えていました。

それまで、高評価の言葉をいくつかもらていたからこそ、せめて契約社員くらいにはなれるだろうと、その時ばかりは信じて疑いませんでした。

ところが結果は、アルバイト。

それも給料も今までと据え置き、もしくはそれ未満。

数分の間を置いた後、私はその話をお断りしました。

「君がいないと今の事業が成り立たないから、出来ることなら残ってくれないか」などとのたまっていました。

だったら何故、せめて契約社員での採用という発想に至らないのか!

腹の底から出かかった言葉を辛うじて呑み込み、代わりにご期待に応えられないことを謝りました。人前で視界が滲むのを感じたのは、後にも先にもこの時だけでした。

こうして私の会社員経験が終わり、それが最後となりました。

後でゆっくり考えて、最初からそういうつもりで企業側もこの制度を利用していたのだろうと思いましたが、確かなところはわかりませんし、知ろうとも思えません。

今でもそうですが、社員として採用されなかった理由など、聞く気にもなれませんでした。

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