第一の手記

女々しい生涯を送ってきました。

私には、自分がいったい何をしたいのか、まったく以ってわからないのです。

今にして思えば、自分の運命だとか宿命だとか呼ばれているものは、幼少期で既に決定していたように思います。これは母から聞いたのですが、私がまだ幼少の頃、母はとある本屋に私を連れて行ったのだそうです。

しばし母が雑誌等を立ち読みしていると、何か気になる本を見つけた様子の息子が目に入ったようです。しかしその本は、当時の私の身長では届かない、高い位置にありました。

どうするのかと見ていると、息子は思いついたように歩いていき、どこからか段ボールの箱を持って戻ってきました。

ははぁなるほど、あの段ボールに乗って本を取ろうという魂胆なのだな。我が子ながら中々に頭の回転がいいじゃないか、などと感心して見ていたところ、次の瞬間には呆れて笑っていました。


息子は、段ボールの中に入って、懸命に手を伸ばしていました。当然本には届きません。


確かにやる前よりは数ミリから数センチほど、目当ての本には近づいたでしょうが、全然足りませんでした。結局母が本を取ってあげ、私はそれを受取って満足していたそうです。

書いている分には幼少期の微笑ましいエピソードかもしれませんが、今振り返れば、これが私のすべてだったように思います。


自分は関東のとある県の中でも、都心と田舎を足して割ったような地域に生まれましたが、病気をした時は大きな総合病院にいつも連れていかれました。

あれは小学生の低学年の頃でしょうか、熱を出して病院に連れていかれた際、順番待ちをしていると、通路の天井部分で黒い箱が通過していくのが見えました。

その移動速度こそはとてもゆっくりとしたものでしたが、自分にはそれがジェットコースターの模型か何かに見え、自分のような子どもが待ち時間に退屈しないようにと病院側が提供してくれた、気の利いたサービスか何かなんだろうと思って見ていました。

名前を呼ばれ診察室に入り、先程の黒い箱を見つけ、お医者様が中からカルテを取り出しているところを発見して、にわかに興が覚めました。

あまり体力がない方でしたが、それ以外は五体満足で、実生活に影響するレベルの先天的な病気や障害もなく、世間一般の皆様が口にするようないわゆる「普通の子」として生まれました。

普通。それは私にとって、幸い中の不幸だったように思います。


私はこれまで、比較的に何不自由なく暮らしてきた方だと思います。

私の家庭は貧しいわけでもなく、むしろ富んでいる方だったのではないかと考えています。

両親も存命であり、妹も特に問題なく過ごしていたのではないでしょうか。

他所様のご家庭と違った点を強いて挙げるとするならば、父が単身赴任に出ていて、家にいない期間が長かったことくらいでしょうが、その期間には問題がありました。

仕事の都合で父が単身赴任を始めたのは、私が小学校高学年か中学一年の頃だったと思います。

遠方の支社に常駐してしばらく働くことになるから、家にはたまにしか帰ってこれなくなると父が告げたとき、母は父が「単身赴任」という形でいくことに反対しました。

「これから息子は思春期ないし反抗期という、多感で将来大切な時期に入る。そんな時に父親がいないのは何かと大変だから、私達も一緒に引っ越す」母の言い分は尤もでした。

子供というのは、良くも悪くも親を見て育ちます。

最も身近な大人である、同性の親の影響を多分に受け、特に十代半ばあたりにおけるものは、その後の人生にまで及ぶものだと思います。

それに対して、父が返した言葉は次のようなものでした。


「いらん。ジャマくさい」


母はそれ以上何も言うことができませんでした。その少し後、父の数年にわたる単身赴任は始まったそうです。

父のその言葉は、後に母から聞いたものですが、私の心にも深く、深く刺さりました。

言葉というのは、時に鋭利な刃物よりも人を傷つけ、死に至らしめることさえあります。

よく本を読む父もそのことを知っているようですが、理解しているようには見えませんでした。

そうでなければ、幼少の私が迷子になって夜になっても見つからなかった際、母に「また作ればいい」などという言葉を投げつけるはずがありません。


また作ればいい。

つまり父にとって私は、取り替えのきく、むしろ邪魔な存在である。

その刃は私の心臓に深く突き刺さり、二度と抜けることのない銛と化しました。


そういうわけで、父が長い間単身赴任で家に居ないことが多かったので、私は必然的に母を見て育つようになりました。

母は父がいない分、私と妹のために懸命に尽くしてくれました。

ある意味母子家庭というか、家庭内別居というか、そんな状況下であっても、大した問題もなく十代という多感な時期を過ごすことが出来たのは、私達のために家事などを懸命に頑張ってくれた母のおかげでした。

しかしそれは、ある面において完全に逆効果になりました。

母が私達に何不自由ない生活を与えてくれたことに関しては、いくら感謝しても足りません。

美味しい手料理を作ってもらい、汚れた服は洗ってもらい、夜はお日様の匂いがするお布団に包まれて眠る……そんな日常を、母は毎日与えてくれました。

しかし、今にして思えば、母の行動には重大な欠点がありました。

母は、私に“与えてはくれました”が、“教えてはくれませんでした”。

料理を作ってはくれましたが、教わったことはありません。

汚れた服を洗濯機に入れることは知っていますが、その後にどうするべきか知りません。

午前中に布団を干したら、いつ頃取り込めばいいのかわかりません。

子どもが幼い間は、それで構いません。しかし、ある程度成長した段階で、教えてあげなければなりません。それが教育なのです。「子供は勝手に育つ」などと誰かが吹聴しているようですが、そんなことはありませんし、有り得ません。

すべての子は、親が育てたように、育ちます。

やっている姿を見せるだけでは、子供は何も学びません。それが日常となるだけです。

側で教えてあげながら、自力でやらせなければならないのです。詰まる所、教育とは「如何にして経験させるか」なのです。

母はこの点だけ、欠けていました。

その結果、子である私は「何も出来ない男」へと成長を遂げました。

私は自分でご飯を作ることが出来ません。包丁や火の使い方など、何一つわかりません。

私は掃除や洗濯のやり方がわかりません。どのタイミングで洗剤や漂白剤を入れればいいのか、皆目見当もつきません。

私が十代半ばになるにつれて、「自分の息子は何も出来ない」ということに気付いたのでしょう。その頃から、母は私をよく「お前は何もしない、手伝わない」と怒るようになりました。

何もしないのではないのです。出来ないのです。

手伝わないのではないのです。手伝えないのです。

もし何かを手伝おうとしても、私は何も出来ないので、役立たずでしかないのです。

人は大別して「有能か無能か」「働き者か怠け者か」の組み合わせによる四パターンに分けられます。役立たず、つまり「無能」である私は、せめてこれ以上迷惑にならないように「怠け者」になるより他はなかったのでした。

それでも親は、世間体という意味でも、子を捨てるわけにはいきません。

母は怒りながらも毎日変わらず与え続けてくれて、私はそれを当然の如く消費するのみ。

そのような生活が続いていくうちに、恩知らずというのは百も承知でこう表現しますが、自分は親に飼われているのではないかとさえ思うようになりました。

言うことをきかないうえに何の役にも立たない馬鹿犬。

それが「邪魔くさい」と言った父と、与えるだけの母が生んだ、息子の結果でした。

かくして、いつまで経っても半人前未満の自分は出来上がり、同時に死んでいたのでした。

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