祖母の恋文

 祖母の記憶というと、にこにこ静かに笑っている姿を思い出す。離れて住んでいた私たち家族が会いに行くと、必ず彼女は好物のビールとお刺身を食卓に用意し、笑顔でもてなしてくれた。

 初孫の私を可愛がってくれたものの、私はというと、そんな祖母が苦手だった。

 小学生の頃、祖父の葬式の夜に、母と叔父がこんな話をしていたのを立ち聞きしてしまったからだ。


「望んだ結婚じゃなかったのに、お袋もよく親父に尽くしてくれたよな」


「そうよね。本当は別に結婚したかった人がいたんでしょう?」


「そうみたいだけど、うまくいかなかったんだろうな」


 優しい祖父が大好きだった私にはショックな言葉だった。祖母は祖父が想うようには、彼を好いていなかったということが幼い頭に鮮烈に残ってしまったのだ。

 それ以来、私は複雑な思いで祖母に会って来た。

 おじいちゃんを好きだから一緒になったんじゃないの? じゃあ、どうして子どもがいるの?

 でも、それは口にしてはならないことのような気がして、遠巻きに祖母を見ているだけだった。


 そんな祖母が他界したのは、つい先週のことだ。

 葬儀が済むと、彼女を看取った叔父夫婦は形見の品を分け始めた。私がもらったのは、小さな革張りの木箱だった。


「これは、おばあちゃんが一番大事にしていたのよ。一番可愛がっていた孫のあなたに」


 叔母が泣きはらした目を細めて、私に手渡してくれた。それは祖母が骨董市で買って来たものらしく、かなりの年代物だった。

 蓋を開けると、懐かしい匂いがふわりと鼻をくすぐった。祖母がいつも焚いていた香の匂いだ。表面は革で包まれているが、中は赤いビロードが貼ってある。そこにはモンブランの万年筆とインク、そして丸善まるぜんの便せんと封筒がしまってある。どうやら、彼女の筆記用具入れだったらしい。


「おばあちゃん、手紙なんて書くことあったのかしら?」


 隣で箱をのぞき込んだ母が首を傾げている。叔母も「さぁ」と相づちを打った。


「でも、この便せんと封筒は新しいから、書こうとは思っていたのかもしれないわね」


 正直、困ってしまった。女子高生の私には、万年筆なんて使い道がないし、インクの補充の仕方も知らなかった。半ば持て余す形で、私はこの箱を手に入れたのだった。


 自宅に戻った私は、その箱をしばらく机の上に置きっぱなしにしていた。

 携帯電話やメール、SNSに囲まれてデジタルな今の時代、私には自筆で手紙を出したい人もいないからだ。

 そのまま季節が流れ、いつしか軒下に氷柱が見える頃になった。冬休みで退屈だった私は、ふと箱に目を留める。

 おばあちゃんは誰に手紙を書こうとしたのだろう? なんだか、彼女の秘密がそこに静かに眠っている気がして、胸が高鳴る。

 私はそっと箱をフローリングの床に置き、対峙するように座り込んだ。蓋を開けると、やっぱり彼女らしい香の匂いがした。中の物を一つ一つ吟味するように取り出す。年代物の万年筆とインク、便せんは横書きで、封筒もそれに合わせたものだ。

 確かに、叔母が言うように便せんと封筒だけは比較的新しい。だが、封筒を包んでいるビニールには開封した跡があった。

 最後に封筒を床に置くと、あとは何も入っていない箱が残された。赤いビロードが冬の午後の日だまりに艶めいている。

 だが、そのとき、私は右隅の底が不自然に浮いているのを見つけて目を見張った。ビロードの底は、二重になっていたのだ。

 恐る恐る二重底を取り出すと、中に挟まっていたのは、一通の手紙だった。まるで秘宝を見つけた冒険者のように、私は生唾を飲み込んでいた。

 それは丸善の封筒だった。差出人は祖母の名前だったが、その苗字は彼女の旧姓だった。

 見てはいけないものを見ているような気持ちなど、私には初めてだった。祖母の秘密に土足で踏み込んでいるような罪悪感だ。だけど、知りたい。

 宛名には『梨本信夫なしもとのぶお様』と、モンブランのインクでそう書いてあった。古びた切手のそばには、郵便局で押されたらしい、宛先人に手紙が届かなかった赤い印がある。そっと中を覗き見ようとしたが、封がされたままになっている。

 梨本信夫という名前など、聞いたこともなかった。もしかして、祖母が結婚を望んでいたのは、この人かもしれない。そう思いつくと、いてもたってもいられず、カッターで注意深く封を切った。

 夢中で便せんを開くと、そこには几帳面な字が綴られていた。私はひんやりと冷えたフローリングに座り込んだまま、それに目を通していった。


 拝啓 梨本信夫様


 寒さも厳しい今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

 今日こうして筆をとったのは、偶然にもあなたがどうしているか知ったからでした。

 友人の美沙緒みさおさんを覚えておいでかしら? 彼女が『夕方のテレビに、お孫さんと連れ立った信夫さんが映っていた』と教えてくれたのです。

 私はそれを聞いて、本当に心から安堵しました。今更なんて仰らないでくださいね。あなたと結婚の約束をしていながら、借金のためとはいえ親の決めた相手を断りきれなかった私を、今でも恨んでいらっしゃるかもしれません。

 いえ、それは私の自惚れでしょう。あなたはとても幸せそうだったと、美沙緒さんが言っていましたから。

 最後にお会いしたとき、私が口にした言葉を覚えていらっしゃいますか? 私はこう言いました。『いつまでもあなたは特別よ。あなたが幸せなら、それで嬉しい』と。でも、本当は苦しかった。あなたの幸せは、私と育むものだと信じていましたから。自分の気持ちに整理をつけるために、いい格好をしたんです。

 それでも、今こうしてあなたがお孫さんと幸せそうに笑っている姿を想像すると、心がほぐれていきます。あなたも幸せになれたのねと心から嬉しく思います。

 あの頃の私の言葉に嘘はなかった。おかしいもので、今更になって自分でわかって嬉しいのです。もし、もっと若い頃に誰かと幸せになっているあなたを見たら、私は悔しくて泣いたでしょう。そこにいるのは、私だったのに。あなたの笑顔を引き出すのは、私だったのに、と。

 けれど、今の私はあなたが幸せでいることを嬉しく思える。そんな自分を誇れることができるのです。

 あなたと過ごした時間は人生の中で本当に短かった。けれど、一生分の恋をしました。

 愛情を見出したのは、お互い別の相手でしたが、それでもあなたの幸せを遠くから願う。そんな愛情も悪くないと思えるのです。

 あなたと離れて、私は一回りも年上の方と借金のために結婚しました。こういうとなんなんですけれど、あなたより背も小さくて、お顔もひょうきんなんですよ。

 結婚した夜、私は彼に触れられることすら嫌悪しました。心にあなたがいたからです。けれど、彼は私が心を開くまで、決して触れませんでした。ちょっとあなたに似た笑顔で、優しく私が振り向いてくれるのを待っていてくれました。辛抱強く、どこまでも優しく、私を包み込もうとしてくださったの。あなたに負けないくらいの幸せをいただきました。

 二人の子どもに恵まれ、今では孫もいます。その孫娘というのがね、私にそっくりなんですよ。

 あなたはどんな方に愛情を見出したのでしょう? 機会があれば、是非そんな幸せ自慢をし合いたいものです。今の私なら、きっとできると思うんですよ。

 あなたを愛したことを後悔したことは一度もありません。けれど、夫を受け入れたことも後悔したことはありません。

 ただ一つ。あのとき、黙ってあなたのもとを去ったことを悔いています。取り残されたあなたは、どれほど苦しんだことでしょう。何も知らないのは怖いことだと、何故あのときの私は思えなかったのでしょう。

 あなたのお顔を見たら苦しい。そんな自分の気持ちばかり優先させてしまったのですね。本当に申し訳ありませんでした。

 あなたの住所にこの手紙がたどり着くかわかりません。けれど、それでも筆をとりました。差出人の名前が旧姓なのは、あなたが私だとすぐわかるようにです。今では井川という姓になっております。

 心からの懺悔と愛情をこめて。


 追伸 いつかお会いできたら、もしかしたら天国でかもしれませんが、奥様のお話を聞かせてくださいね。


 かしこ


 私はその手紙を何度も何度も繰り返し読んだ。気がつくと、窓の外は夕暮れに染まり、はらはらと雪が舞い降りていた。祖母の思い出の欠片が空から降って来るようだ。

 万年筆の文字を指でなぞり、私は涙を浮かべていた。便箋からはやっぱりお香の匂いがする。なんだか、その香りが『彼女は生きていたんだ』とめいっぱい叫んでいるように感じた。

 おばあちゃんはちゃんと、おじいちゃんを好きでいてくれたんだ。そう思うと、心から安堵していた。

 祖母はこんな字を書く人だったんだと、今更ながら、私は祖母の字を知った。そして『おばあちゃん』ではない、一人の女としての顔もあったことに、驚いていた。当然のことなのに、おかしいものだ。私は彼女を祖母としてしか見ていなかった。

 私は丁寧に便せんをたたみ、封筒に戻した。祖母は、私を自分にそっくりだと信夫さんに伝えた。いつか、私もこんな恋文を書ける日がくるだろうか?

 うん、いつか書くだろう。だって、私は彼女の孫だから。

 手紙にあった美沙緒さんというのは、祖母の親友だ。今も元気に畑仕事を趣味にして暮らしている。葬式にも来てくれた。明日にでも、私は電話で彼女に信夫さんという人の行方を訊いてみよう。

 氷柱の向こうに見える雪景色を見ながら、香の匂いが薄れていくのを寂しく思った。

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